第十話:報告書には書けないこと
ダンジョンの出口から差し込む光が、やけに目に染みた。俺は一刻も早くこの薄暗い場所から脱出し、自室のベッドで今日の悪夢を忘れたい、ただそれだけを願っていた。
しかし、そのささやかな願いは、背後から伸びてきた手に、いとも簡単に阻まれた。俺の腕を掴んだのは、エリアーナだった。その指は、か細いが見た目以上の力で、俺をその場に引き留める。
「お待ちください、カイ様」 彼女の声は、震えていた。振り返ると、そこには、俺の知る自信に満ちた公爵令嬢の姿はなかった。ただ、神の御業を前にしたかのような、畏怖と混乱に満ちた表情で立ち尽くす一人の少女がいるだけだった。 リリアナとミューも、数歩後ろで立ち尽くしている。リリアナは顔面蒼白で、自分の常識が崩壊したショックから立ち直れていない。ミューは、ただおろおろと、俺と砂の山を交互に見つめている。
「……なんだ」 俺は、できるだけ普段通りを装い、面倒くさそうに返事をした。 「もう実習は終わりだろ。俺は帰る」 「お言葉ですが、カイ様。この状況を、どう説明すれば……」 エリアーナの視線が、足元に広がる黒い砂の山に向けられる。Bランク級魔物、奈落の兵隊蟻が、そこにいたという痕跡。あまりにも、現実離れした残骸だ。
「さあな。勝手に自爆でもしたんだろ。そういう特異体質だったんじゃないのか」 俺は、我ながら無理があると思う説明を口にした。 しかし、エリアーナは静かに首を振った。 「……カイ様。もう、そのような冗談はおやめください。我々は、この目で見てしまったのです。貴方様の、本当の力の片鱗を」 その瞳は、もはや俺を単なる師として見ていなかった。それは、人知を超えた存在、あるいは神そのものを見るような、畏敬の念に満ちた眼差しだった。
まずい。勘違いのレベルが、一段階、いや、数段階跳ね上がってしまった。 このままでは、俺は彼女たちの中で、人間ではない何かにされてしまう。そうなれば、平穏な生活など未来永劫訪れない。
その時だった。ダンジョンの入り口から、複数の足音が駆け下りてくるのが聞こえた。 「おい!緊急事態だそうだ!何があった!?」 現れたのは、マグナ教官と、数人の武装した上級教官たちだった。ダンジョンの管理システムが異常を検知し、彼らが駆けつけてきたのだろう。
教官たちは、通路の惨状と、立ち尽くす俺たち、そして中央に広がる黒い砂の山を見て、息を呑んだ。 「こ、これは……一体……。報告では、Bランク級魔物の反応があったはずだが……魔物の姿が見えんぞ?」 マグナ教官が、困惑した表情で尋ねる。彼の視線は、Aクラスの制服を着た三人の少女と、その中心にいるFクラスの俺とを、訝しげに行き来していた。
「……魔物は、我々が協力して撃退いたしました」 沈黙を破ったのは、エリアーナだった。彼女は、一瞬でいつもの凛とした公爵令嬢の顔に戻ると、教官たちに向き直った。 「この三名で連携し、なんとか討伐に成功しました。これは、その残骸です」 彼女は、足元の砂を指し示した。
その説明に、教官たちはさらに混乱する。 「馬鹿な!学生三名で、Bランク級を倒しただと?ありえん!しかも、なぜ魔物が砂になっているんだ!」 「……その魔物は、特殊な個体だったようです。我々の攻撃で核を破壊された瞬間、自らの魔力が暴走し、このような状態に変化した……としか考えられません」 エリアーナは、淀みなくそう答えた。それは、俺が先ほど言った「自爆した」という説明を、より専門的で、もっともらしい理屈に仕立て直したものだった。
リリアナとミューも、エリアーナの説明に、慌てて頷いてみせる。 俺の仕業だと言っても、誰も信じないだろう。魔力ゼロの生徒が、小石一つでBランク魔物を砂に変えたなどと、正気の沙汰ではない。結果として、エリアーナのこの咄嗟の判断は、俺にとって最も都合の良いものだった。
マグナ教官は、納得できないという顔をしながらも、公爵令嬢の言葉を真っ向から否定することもできず、渋々ながらもその報告を受け入れたようだった。 「……分かった。詳細は、後ほど報告書にまとめて提出するように。君たちは、よくやった。特に、怪我がなくて何よりだ」 教官は、複雑な表情で俺たちをねぎらうと、現場の調査とダンジョンの閉鎖を他の教官たちに指示し始めた。
俺たちは、解放された。 地上に戻る道すがら、誰も口を開かなかった。だが、三人の少女が俺に向ける視線の熱量と、その意味合いは、ダンジョンに入る前とは比較にならないほど、重く、そして複雑なものに変わっていた。
寮に戻ると、俺は自室に逃げ込むように鍵をかけた。ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。 (……疲れた) 今日一日の出来事が、走馬灯のように頭を駆け巡る。Bランク魔物との遭遇。そして、三人の少女たちの前で、力の片鱗を見せてしまったこと。
俺の失態だ。もっと、うまく立ち回るべきだった。だが、あの状況では、あれが最善だったとも思う。 これからの学園生活が、どうなってしまうのか。考えただけで、頭が痛くなった。
その夜。 俺がようやく浅い眠りにつこうとしていた時、控えめなノックの音がした。 無視を決め込んでいると、今度はドアの郵便受けから、一枚の紙がするりと差し込まれた。
拾い上げてみると、そこには、エリアーナの美しい筆跡で、こう書かれていた。
『カイ様へ。 本日の出来事について、ご報告いたします。 学園への公式報告書は、先ほど申し上げた通り、「三名の連携により、特殊個体の魔物を撃退した」という内容で提出いたしました。カイ様の御名に、余計な注目が集まらぬよう配慮したつもりです。 ですが、我々三名の中では、真実は一つです。 本日、我々は神の御業を目撃しました。あの御業を前に、言葉はあまりにも無力です。 つきましては、今夜、我々三名で、カイ様のあの御業――『存在抹消の神撃』と仮に命名いたしましたが――についての解釈と考察を行う討論会を開きたく存じます。 カイ様におかれましても、もしご興味がございましたら、お顔をお見せいただけますと幸いです。 追伸:リリアナ様は、あれは『根源的原子分解』であると主張しており、意見が割れております。
エリアーナ・フォン・ブレイヴァー』
俺は、その手紙を読んだ後、無言でくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に放り込んだ。 勝手に命名するな。勝手に討論会を開くな。そして、俺を巻き込むな。
ドアの向こうからは、かすかに三人の少女たちの声が聞こえてくる。 「ですから、あれは単なる分解ではありません!存在の因果そのものを断ち切ったのです!」 「物理法則を無視している時点で、原子論で語ること自体がナンセンスですわ!あれは高次元からのエネルギー干渉よ!」 「あ、あの、どちらもすごくて、私にはよく分かりません……!」
騒がしい。あまりにも、騒がしすぎる。
俺は、ベッドから起き上がると、本気で荷物をまとめ始めた。 やはり、こんな学園にいてはダメだ。明日の朝一番で、退学届を叩きつけて、どこか遠くの、誰にも知られていない村へ行こう。
そう、固く、固く決意した。 ドアの外で繰り広げられる、俺に関する神学論争のような討論会を聞きながら。 俺の平穏な隠居生活は、もう、ここにはないのだから。




