観測者は静止した世界にため息をつく
序章:目覚め
男が収監されたとき、世界はまだ青かった。
VR懲役システム「レクイエム」。受刑者の精神を仮想空間に接続し、その知覚時間を加速させることで、長期刑を短時間で執行する。彼に科された刑期は、主観時間にして実に1000年。現実世界では、わずか1時間の執行期間に過ぎない。
その1時間で、彼の脳は10世紀分の孤独と対話し、思考し、摩耗し、そして再構築された。
『執行プログラム、完了。』
無機質な合成音声が響く。男が白い部屋の簡素なベッドから身を起こしたとき、その精神は古代遺跡の静寂を宿し、肉体は忘却の彼方にあった若さを奇妙な違和感として感じていた。千年を生きた精神にとって、このしなやかに動く四肢は、まるで借り物のようだ。
システムが彼を解放する。重い扉が、音もなく開いた。
男は、1000年ぶりに外の世界へと足を踏み出す。
第一章:凍てついた地獄
目の前に広がっていたのは、凍り付いた地獄だった。
空は赤黒い塵に覆われ、巨大なビル群は中ほどから折れて、その崩壊の過程で永遠に静止している。空中に舞う無数の瓦礫やガラス片は、まるで夜空に撒かれた無慈悲な星々のように、一つ一つがくっきりと停止していた。
男の脳は、常人の約876万倍の速度で回転している。彼にとって、この惨状は悲劇ではなく、巨大な一枚の絵画であり、解析すべきデータだった。
彼は「見る」。
ビルの断面。まだ生活の痕跡が残るオフィス。床に散らばる書類の一枚一枚、そこに印字された文字まで読み取れた。人の姿はない。あるのは、そこかしこに漂う赤い霧だけだった。
彼は「聞く」。
常人には完全な沈黙にしか感じられない空間。だが彼の耳には、都市が迎えた最後の断末魔が、極限まで引き伸ばされた重低音の唸りとなって、今も鳴り響いていた。
彼は「理解する」。
この破壊は、1時間という彼が収監されていた時間の中で、瞬時に、そして一方的に行われたのだと。
その時、男の目が一体の「何か」を捉えた。
それは、常人には決して見えないもの。物理法則を無視したかのような速度で動くがゆえに、その姿は不可視の存在。だが、超高速化された男の知覚にとっては、それは少しせわしなく動く程度の「普通の生き物」だった。
熱波の陽炎のような姿。昆虫のようでもあり、爬虫類のようでもある滑らかな体躯。それは、崩壊した道路の残骸を興味深げに調べていた。その動きは、破壊ではなく、調査か、あるいは後片付けのように見えた。侵略者は、すでに征服を終えていたのだ。
第二章:神々の対峙
男はゆっくりと歩き出した。
彼が1000年ぶりに感じた感情は、悲しみでも怒りでもなかった。それは、自らの庭を荒らされた主の、静かで冷たい不快感だった。家族も友人も、愛した人々への感情も、1000年の時が等しく風化させていた。だが、この星そのものへの所有意識だけが、彼の精神の奥底に澱のように残っていた。
彼の一歩は、常人から見れば瞬間移動に等しい。
静止した瓦礫の世界を、男だけが動く。まるで時を司る神のように。
陽炎の異星人は、ふと動きを止めた。自分以外の「動くもの」の存在に気づいたのだ。その思考が驚愕に達するよりも早く、男は異星人の目の前に立っていた。
異星人にとって、それはありえない光景だった。この星の「彫像」のような生命体の一つが、突然、自分たちと同じ速度域で目の前に現れたのだから。陽炎が、明確な警戒をもって揺らめいた。
男は、千年ぶりに声を発した。その声は、彼自身が忘れていたほど若々しく、しかし神託のように重く響いた。
「おい、ここは俺の星だ。帰れ」
第三章:宇宙的勘違い
男が放った言葉は、静止した世界の唯一の音だった。
陽炎の異星人は、男が認識した「警戒」とは全く異なる波動で揺らめいた。それは、困惑であり、焦りであり、そして何よりも申し訳なさだった。
男の超高速な脳内に、直接、思考が流れ込んでくる。それは言葉というより、純粋な概念の奔流だった。
《あ。》
《え、住人の方でしたか。これは大変失礼をいたしました!》
《完全に活動が沈黙していたものですから、てっきり、もう放棄された文明なのだと判断してしまいまして…。》
《いや、本当に申し訳ない! 我々は星間清掃業者でしてね。放置された文明の残骸が時空の航行に支障をきたすものですから、定期的に「お掃除」を…。あ、いえ、これは言い訳ですね、はい、誠に申し訳ございません!》
男は千年の時の中で初めて、呆気に取られた。神々の戦いを覚悟した精神が、完全に拍子抜けする。目の前の、神のごとき力を持つであろう存在は、どう見ても現場のミスに慌てる下請け業者のようだった。
第四章:巻き戻る世界
《申し訳ありません! すぐに元に戻します! 破損したデータは全てバックアップしてありますので! 少々お待ちを!》
異星人が、昆虫めいた細い腕を軽く振る。
その瞬間、男の周りで世界が逆再生を始めた。
崩壊したビルが、吸い寄せられるように元の形を取り戻していく。空中に静止していた瓦礫やガラス片が、美しい軌跡を描きながら寸分違わず元の場所へとはめ込まれていく。赤い塵の霧は空へと還り、再び澄んだ青空が顔をのぞかせた。
それは、時間を逆再生する神の指。宇宙の理を書き換える奇跡。
だが、やっている本人の慌てぶりを見るに、それは彼らにとって日常的な「やり直し」作業に過ぎないようだった。
ほんの数分後。いや、男の体感では数時間にも及ぶ修復作業の後、世界は完全に元通りになっていた。
道には、さっきまでいなかったはずの人々が溢れている。彼らは一瞬だけ「あれ? 今、少し…?」と首を傾げたが、すぐにスマホの画面に視線を落とし、何事もなかったかのように日常に戻っていく。彼らの認識では、世界が一瞬だけ「瞬き」したか、あるいは軽い立ちくらみを覚えた程度なのだろう。
陽炎の異星人は、男に向かって何度か丁寧にお辞儀(のような動き)をすると、《この度は、誠にご迷惑をおかけしました。以後、報告書の確認を徹底いたします》という思考だけを残して、シュン、と消え去った。
終章:永遠の囚人
後に残されたのは、完璧に修復された日常と、その中心でただ一人立ち尽くす男だけだった。
1000年の懲役を終え、世界の終わりを食い止めた救世主。
しかし、その事実を知る者は誰もいない。
彼は再び、孤独になった。
今度は、誰にも理解されない時間の流れの中で。
超高速の思考で、彼はたった一つ、千年ぶりに、人間らしい感情を思い出した。それは、途方もない徒労感だった。
男は、ゆっくりと、ため息をついた。
その深いため息が終わる頃には、彼の周りで太陽がゆっくりと西の空に傾き、街が美しい夕焼けに染まり始めていた。