95 母と子、そして守る者
《歴史背景》
文字通り、フィレンタの元になったのはフィレンチェで、都市国家です。フィレンチェではメイドが表向きは家のことをしていても、裏では政治や商業の秘密を集める諜報活動などの情報戦が盛んでした。わざと噂を広めて相手を苦境に陥れるということもありました。
セバスティアン王からの手紙は、
心を締めつけるように苦しくて、痛くて——それでも嬉しかった。
「息子」と呼ばれた。それだけで、涙が出そうだった。
その一言に、どんな宝石よりも価値がある。
金庫には、先ほどのアンジェリカが残した、父フェリックスから贈られた国宝級の宝飾品を入れておいた。だが、どれも高価だが、心がこもっていない。
俺にとって、本当に金庫に入れておきたいのは、この手紙の方だ。
けれど、同じ場所に入れたら、この手紙まで穢されてしまう気がした。
だから、丁寧に折りたたみ、懐にしまう。
守りたかった。あの人の言葉も、想いも。
部屋を出ると、俺の息子、セバスティアンの泣き声が聞こえた。
……乳母をつけた方がいいだろうか。
アンジェリカがいなくなった今、ヴィオラ一人に負担をかけすぎるのは危険だ。
ーーー
結局、ヴィオラには、ここにいたアン夫人の正体が俺の母アンジェリカであることは言えなかった。
「母体に精神的な負担があると乳も出なくなるわよ!全ての負担はあんたが引き受けるためにいるんでしょう!!」
と、まさにその負担の根源であるアンジェリカから日々言われ続けたヘルマンから、
「今はアン夫人の正体を姫にいうのはやめよう」
と懇願されたのだ
「これは、アンジェリカの呪いなんだ。乳が出なくなったらお前のせいだという声が聞こえてくる」
とヒルマンはブチブチ文句を言っている。
ヴィオラには、
「急だが、アン夫人は次男のもとへ向かわなくてはならなくなった」
とだけ伝えた。
ヴィオラは複雑そうに眉を下げる。
「長男さんと次男さんが争ってるんですってね。大変よね……でも、次男さんが南部にいるなら、また会えるかしら?」
その“南部”が、ヴァルトシュタインのことだとは言えない。
そして、長男さんは俺のことだ。
笑って頷くしかなかった。
この家にいる者たちは皆、アン夫人であるアンジェリカを慕っていた。
厳しい人だったが、不思議と頼られる存在だったのだろう。
けれど俺に言わせれば——複雑なのは“アン夫人”じゃなくて、俺だ。
俺は消毒をして、清潔なエプロンと頭巾をつけ、口元に布を巻いた。
さすがに部屋に入るたび風呂に入る必要はないだろう。
……アンジェリカがここにいたら、許さなかったかもしれないが。
「って、なんで俺まであいつの言いなりみたいな真似してんだか……」
思わずため息がこぼれる。
「泣き声が聞こえたが...」
ヴィオラが丁度お乳をやろうとしているところだった。
「あっ...入らない方がいいか?」
なんだか、初夜の儀ではまだ子供のようで、罪悪感を感じていたのに、急にヴィオラが大人になって、母になった姿を見てドキドキする。
「ううん。むしろ、面倒見て欲しいかも。アン夫人、突然いなくなったし、セキュリティの問題で三人しかメイドさんいないから、今夜は寝てもらったの。みんな高齢だし」
「わかった。」
借りてきたなんとやらみたいな状態で、居心地が悪い。
王族や貴族の世界では、出産や育児な場面に男性は穢れとみなされ、育児の部屋に入ることはほぼないのだ。
抱くことすらない。
ヘルマンが出産後に部屋に入れてもらったことなんて、奇跡に近い。夫だって一般的に入れない。
これはヴィオラやアンジェリカが政治の世界で、男性的なポジションにいたから、許された行為なのだろう。
お乳を飲み終えたら、容赦なくヴィオラはセバスティアンを俺に預ける。
俺は再び固まる。
「早く抱っこするの慣れてね。うちは人員不足だから、男とか女とか言ってはいられないの。男だろうと女だろうと面倒見てもらわないとね」
なんかアンジェリカに感化されたか?
いや、母は強しだろうか?
にっこり笑う姿は、むしろ以前より女性らしい雰囲気でドキッとする。少し体に丸みが出たこともある。
前は剣を振り回して、食べる量が追いつかない感じだったからか?
俺が体をじろじろみるからだろう
「……やっぱり、太った?」
心配そうに尋ねるヴィオラに、思わず口が勝手に動いた。
「いや、今くらいが一番いい。前は痩せすぎてたし……むしろ、少し色気が出て……心配になるくらい」
顔が熱い。
ヴィオラも、耳まで真っ赤にして黙り込む。
セバスティアンはお乳で満たされ、すやすやと眠っていた。
俺はそっと口に巻いた布を少し上げて、ヴィオラの唇に唇を重ねた。
そのまま、セバスティアンを片側でしっかり支えながら、ヴィオラを抱き寄せる。
唇を深く味わっていると、片手に力が入ったのか?
セバスティアンが、むずかりはじめた
「ああ...起こしちゃった」
うーん、難しい。
「しっかり寝てからベッドに戻さないと、セバスティアンは寂しがり屋なのか怒るのよね。」
笑いながらそう言うヴィオラの横顔が、まぶしかった。
母になっても、変わらず可愛い人だ。
「やっぱり、乳母雇うか?」
俺もヴィオラに甘えたい。
いや、ヴィオラを甘やかしたい。
「それがね...」
俺は、フィレンタのメイド事情を聞きぞっとする。
都市国家特有だな。
陰謀や密告、情報戦が盛んだ。
メイドが間者だなんてオチオチ寝ていられない。
だから生まれてくる前から海軍兵で囲わせたのか。
やっぱりアンジェリカは機転がきくな。
「高齢のメイドを雇ったのは?」
「それも、アン夫人の指示よ。噂をするようなコミュニティから外れている人を選んでるの。店の買い出しはメイドがヘルマンさんに頼んで買ってきてもらうか、店から持ってきてもらうのよ。そして住み込みなの。乳母は、よっぽど信用できないとダメってアン夫人が拒んだのよ」
そのアン夫人が一番信用出来ないんだが、セバスティアンは命を狙われる立場なんだからそのぐらいやれってことか。
「なるほどな...」
でも、理解できた。
なぜ彼女が、この家で信頼を得ていたのか。
冷酷だけど、誰よりも先を読んでいた。
俺たちが今こうして無事でいられるのも——結局、あの女の采配のおかげかもしれない。




