92 悪魔を知る男たち
ヘルマンが部屋に戻ると、ちょうどアルフレードがヴィオラの部屋から出てきたところだった。
廊下で視線が合う。
「ヘルマン、いろいろとすまなかった。そしてここまでヴィオラを連れてきてくれてありがとう」
アルフレードが、頭を下げる。
「いや、こっちこそだ。アン夫人――いや、アンジェリカ元王妃だとは知らず、とんでもないことになるところだった。……ヴィオラと赤ちゃんは寝たのか?」
「ああ。本来なら母子は離して休ませるんだろうが、アンジェリカが“母子同室にしろ”と命じたらしい。護衛の件もあるが……俺の目のこともあって、周りが信用できないみたいで、過敏になっているんだろう」
ヘルマンは黙って頷いた。
そして少し顔を曇らせる。
「残念ながら、港にはいなかった。おそらく陸路だ。ヴァルトシュタインに協力的な都市に向かったんだろう。……女の独り身だ、無事に船で渡れたらいいがな」
「そうか」
アルフレードは小さく呟く。
敵国の元一の姫であるはずのアンジェリカの無事を、祈るように願っている――。
そのことに本人だけが気づいていない。
ヘルマンは、もしかして...
「なあ、ヘルマン。母は……アンジェリカはどんな女だった?」
「アン夫人は……悪魔だ」
「は?」
あまりの即答に、アルフレードは目を瞬かせた。
もしかしてヘルマンは母のことを...と思った俺はバカだったのか?ヴィオラの話を聞き、ヘルマンの様子から一瞬疑ったが、ヘルマンに恋慕の気配などないな。
それどころか、どうやらトラウマに近いようだ。
「俺はな、踏まれ、蹴られ、叩かれ、怒鳴られ、こき使われ、鼻で笑われ、他の女から誤解され……果てには、自分の女たちにも振られ、怒鳴られた。どれだけ酷い目に遭ったか、わかるか?」
ヘルマンは身振り手振りを交え、いかに悲惨だったかを熱弁する。
まるで戦場で負った傷を語るように。
――だが、やっぱり??
これだけ饒舌に一人の女を語るヘルマンなんて、初めて見た。
しかも、それが自分の母親だというのだから、アルフレードの胸中は複雑だった。
「母のことだから想像はつくが……ヴィオラは、お前がアンジェリカに気があると思い込んでたぞ」
「やめろ! それだけはやめてくれ!」
ヘルマンが顔を真っ青にして首を振る。
本気で嫌らしい。
「……まあ、半端なく賢いのは認める。人を惹きつけるってより、“惹かせるまで命令し続ける”って感じだな。絶対王のような支配者気質ってやつだ。
悪いが、アルフレード。お前の母があの女だと思うと、気の毒でならない」
心底震えながら言うその姿に、嘘はない。
アルフレードは苦笑を浮かべながらも、静かに過去を語り出した。
父が流行病を仕組み、それを知った母が衝動的に殺してしまったこと。
助けを求めた母を利用して、ジュリアン王が南部とオリヴィアンを攻撃したこと。
焦土と化したグリモワール南部と、貧困にあえいだ人々のこと。
「俺の存在が……多くの屍を生んだのか。そんなこと、望んでなかったのに」
アルフレードは静かに息を吐く。
だがヘルマンは首を横に振った。
「お前のせいじゃない。あの女は、誰かのために動くような人間じゃない。
全部、自分のプライドのためだ」
吐き捨てるような声。
だが、そこに憎悪よりも疲労がにじんでいた。
アルフレードは黙って天井を見上げる。
――それでも、彼女は完全な悪ではなかった。
そう思いたい気持ちが、二人にはまだどこかにあったのだ。
沈黙を破ったのは、ふとした話題だった。
「あ、そうだ。子供の名前は、セバスティアン王からもらうことにしたんだ。オリヴィアンの民も喜んでくれると思う」
「……そうか」
少しだけ、ヘルマンの目が優しくなった。
「早く洗礼を受けさせて、正式に名を授けてやりたい。グリモワールで洗礼をして、帰国したら国民にお披露目しようと思う」
「これを渡さないとな」
ヘルマンは懐から一通の封筒を取り出した。
「セバスティアン王からの最後の手紙だ。お前宛てに託された」
アルフレードの指先が震える。
ヘルマンはその様子を見つめながら、静かに息を吐いた。
――王。
貴方の最後の命令、確かに果たしました。
ヴィオラを連れ、無事に出産させ、アルフレードに会わせ、そしてこの手紙を渡す。
任務は完了した。
だが、二度とセバスティアン王からの指令が届くことはない。
その現実に、ヘルマンの胸は締めつけられるように痛んだ。




