76 最後に母であるために
アンジェリカは、必死に冷静さを装っていた。
幸運なことに、このフィレンタにはヴァルトシュタイン、兄ジュリアンの息のかかった人間はいない。
船便に紛れ込む伝令くらいならあるが、それも荷物に隠れて運ばれてくる程度だ。
アルフレードが「戦争の大義名分」を掲げ、私を――「流行病を仕組んだ鬼母」と叫んでいるのは、当然の報いだと思っていた。
夫の策略を止められなかった。
一番辛い時に、息子を虐げてしまった。
だから、罰を受けるのは当然――そう思っていた。
本当は最後まで王城に残るつもりだった。
アルフレードに殺されるために。
けれど、ジュリアンの命令は絶対だった。
私は理由をつけて自分を納得させたけれど、結局は「アルフレードの母」であることより「ヴァルトシュタインの娘」である道を選んでしまったのだ。
山を越えてヴァルトシュタインに戻るのは不可能。すでに西への退路は敵兵が抑えていたし、冬の峠を女の足で超えるなんて無理だった。
仕方なく選んだのは、交易で縁のあったフィレンタ。
王妃時代にお忍びで訪れたこともあるし、多少の土地勘もある。潜伏先としては悪くなかった。
もちろん、都市国家群にはヴァルトシュタインを支援する国もあった。その場合は、王妃の身分を晒して入国することになる。
だが、それはリスクが高すぎる。
――くだらないと思われるかもしれない。
私は、アルフレードに殺されるなら構わない。
けれど、名も知らぬ兵士や民に襲われ、惨めに死ぬなんてまっぴらだった。
父に、夫に、国に翻弄された人生だった。
だからせめて死ぬ時くらい、自分で納得できる理由が欲しかったのだ。
兄にとって私は、まだ自分の後釜として使える利用価値のある駒。
でも、アルフレードにとって私は、お腹の子を守るために最大の意味を持つ利用価値のある存在のはずだ。ヴァルトシュタインの情報も手に入り、子供を守り切れる。
「最後くらい、いい母で死にたいじゃない」
思わず、声に出していた。
けれど、その前にどうしても話しておかなければならない相手がいた。
――ヘルマン。
ただ、あの男とまず話がしたいが、多くの現地妻がいる男らしい。変な噂をばら撒かれかねない
そこで私はメイドを呼び、宝石商を手配させた。安産の護符を持ってこさせるためだ。
フィレンタは芸術と職人の町。特に金細工は群を抜いている。
高額ではあるが、安産の護符でさえ宝飾品に仕立てて売り出されている。おしゃれに身につけられる護符なんて、この街くらいだろう。
「護符を持っていく口実で……まずはヘルマンと話さないとね」
⸻
数日後。
護符を手に、私はヴィラのもとを訪ねた。
事前に知らせておいたのだが、ヴィラは私の顔を見るなり、パッと花が咲いたように笑った。
「あら? お父様は?」
部屋をキョロキョロと見回す。
だが、部屋には私とヴィラだけ。
……一回会っただけで全面信頼?
本当にあの男、何をやらかしているのかしら。
「ああ、お父さんは、その……ちょっと揉めてまして。今はブリジットさんと話してるんです」
恥ずかしそうにヴィラが俯く。
「揉めてる?」
痴話喧嘩なんて、よそでやって欲しいわ。
アルフレードの子に悪影響でしょうに...
「お父さんは、ブリジットさんだけじゃなくて、別の女性の方もいて……。私の出産のために、ブリジットさんの家にずっとお世話になってるでしょう? 普段はいろんな方に平等に接していたみたいで……」
「……はぁ?」
ヘルマン、あんた何やってるの?
祖国が危機に陥ってる中、身重の姫を連れて脱出したのでしょう?
……いや、もしかして私の勘違い?
ヘルマンは、アルフレードの知り合いだけど、ただ娘を選んで逃げただけ?
「そんな状態で出産場所として提供してもらえるの?」
「せめて出産まではここで過ごさせて欲しいってお願いはしてるんですけど...」
やっぱり私の早とちりかもしれない。
つめが甘すぎない?
まあいいわ。
せっかく買ったし、今日の目的を果たしましょう。
「安産の護符を持ってきたの。フィレンタの金細工は有名なのよ。護符なのに、アクセサリーみたいにして売られているの」
私はネックレスを差し出した。
「わぁ……! 素敵です。アクセサリーなんて、プレゼントしてもらったことなくて」
ヴィラは目を輝かせた。
「あら? 夫からは?」
「この街でわたしに似合うものを探してくれたようなんですけど、見つからなかったみたいです。私たち、戦争前に急な結婚だったものですから、貴金属はもらったことなくて。」
「そう。ヴィラさんは、良いお家のご出身なんでしょうね。きっと、お家の格に合うものを探されたのでしょう。」
ヴィラは驚いた顔で見る。
「なんで分かるんですか?でも、わたしは安くても良かったのに..」
ヴィラは涙ぐむ。
すると再びわたしのスイッチが入ってしまう。
「ヴィラさん、安いものでいいと思ってたらそんなふうにしか見られないのよ。ご主人はそれがわかってるのよ。
一つでいいから自分に相応しいものを探して!それまでどれだけ時間かかっても構わないっていう度量を持つの!」
ヴィラはきょとんとしている。
あ、わたし何言ってるんだろう?
しかも関係ないかもしれない子に。
「ところで、ご主人……船乗りかしら?」
自然を装って探りを入れる。
「いえ、違います。でもお父さんが可愛がっていて、この町に時々来てたみたいです」
「そうなの! あ……もしかして! うちのメイドが言ってたわ。金髪の可愛い男の子が、彼女のために何かを探していたって。片目が不自由だったそうよ。……その人じゃなくて?」
ヴィラの目が泳いだ。
一瞬の間。
「そ、そうです。恥ずかしい。噂になってるなんて」
真っ赤になるヴィラの言葉で確信した。
この子はヴィオラ姫、夫はアルフレードで子供はアルフレードとの子。
私が結婚を知らなかったのは、アルフレードがグリモワールの戦地に行くことが決まった後だったからだったからなのね。
私は「そう……」と返しながらも、ヘルマンに怒りが湧いていた。
ヘルマンはわかっていない。
出産は母子共に命懸けだ。
もし、臨月でブリジットと喧嘩して放り出されたら?
産んだ直後に出ていかなければならなくなったら?
出産のリスクを軽くみすぎている。
「ヴィラさん、ウチで産みましょう。ヘルマンさんに話を詰めたいから我が家に来るように言ってもらえるかしら?」
最後くらい、私は“母”でありたい。
そう思っていた。




