75 母の覚悟――見えざる危機
アンジェリカは、ヴィラとヘルマンを見送ってから、へなへなと崩れ落ちた。
「……やってしまったわ。どうして出産の手伝いなんて申し出たのかしら?」
考えれば考えるほど、あり得ない行動だ。
今は人助けをしている場合じゃない。
兄ジュリアンからいつ指令が届くかわからない。
それどころか、自分の正体が露見してグリモワールに処刑されるかもしれない立場なのに。
「さっきまでは、死んでもいいって覚悟してたのに……」
なのに、見過ごせなかった。
赤の他人なのに。
けれど
「あの親子は不思議だったわよね」
一緒に暮らしていない親子って、あんなによそよそしいものだろうか。出産のこともあんなに親子で話を詰めてないってどうなのよ?
アンジェリカはふと考える。
アルフレードと自分の関係を思い出す。
(よそよそしい、なんて可愛いものじゃないわね。息子に鬼母扱いされて、大戦争になったんだから)
思わず苦笑する。
それに比べたら、あの親子の方がよほど普通だ。
「あの娘は嘘をつくのは下手そうね。夫が戦場に行っているという話も、本当だと思うのよね。」
ヴィラの視線や、驚き方、身の上を話している時の表情、出産の準備不足で不安な様子。あれは嘘じゃないわ。
ただ――ヘルマンには違和感がある。
「何かを隠しているのよね?なんなんだろう。娘に隠し事をしていてもおかしくないけれど。」
もう一度親子を思い出す。
娘はどこか甘い感じね。
貴族の子だっていうし、こんな状況では仕方ないかもね。
カーテシーも綺麗だけど、うーん、なんか中途半端。
考えもリリスを思わせるような未熟さ。
「素材は悪くないのに。徹底的に仕込みたくなるわ」
ただ、あの子の目――。
一瞬、息を呑んだ。
怯まされるほどの力があった。統治者の目だ。
(……まあ、貴族の娘には不要な資質だけど)
深く息をついて、アンジェリカはメイドを呼んだ。
「ねえ、さっきのヘルマンさんって、この辺りによく来るの?」
待ってましたとばかりに、メイドが嬉々として答える。
この子は噂好きなのだ。
「アン様もああいう方がタイプですか?ヘルマンさん、すごい人気者ですよ。どんな女性でも、自分が一番大事にされてる気がするんですって。でも気づいたら他の人にも愛を囁いてるって」
「……あらあら、修羅場じゃないの。まあ、見た目は悪くない感じだったけど」
肩をすくめる。
なるほど、違和感の正体はこれか。
恋人が一人じゃないのね。
娘に隠したいはずだ。
「それに、ヘルマンさんが可愛がってる男の子がまた評判なんです」
「へえ、どんな子?」
軽い気持ちで聞いた。
けれど――。
「アン夫人みたいにサラサラの金髪で、美形なんですけど……片目が見えないんですよ」
「……え?」
全身から血の気が引く。指先が氷のように冷たい。
「な、何歳くらいの子なの?」
「前に見たときは十八歳。今年で十九になったんじゃないかな」
十九歳。
金髪。
片目を黒い金属のプレートで隠した少年。
「……アルフレード……?」
頭が真っ白になる。
ヘルマンが連れてきた少年。
ヘルマンは、オリヴィアンから来たって言っただわよね。
もしアルフレードで一緒に来たのだとしたら――。
商人じゃないわ。
(ヘルマンは何者? 王族を連れ歩ける立場? だとしたら、海軍? でも、オリヴィアンは大変な時なのに、なぜ今フィレンタに?)
戦争中にあえて国の防衛任務を放り出して、船を出す。
普通じゃ絶対ありえないわよ。
しかも娘を連れて逃げるとかそんな個人的なことに船は出さない。
ではどんな時に女の子を連れて脱出する?
もしかして、オリヴィアンの姫!!
もし、あの娘がヴィオラ姫なら。
そしてお腹の子が――。
アルフレードの子。それならしっくりくる。
オリヴィアンにいて、オリヴィアンではあまりいなあ金髪で、年齢が同じで、かた目が見えないなんて条件、揃いすぎてるもの。アルフレードだろう。
その王配になるアルフレードを連れ回せる立場の人がヘルマン...
「……危険だわ」
汗が額から流れ落ちる。
震えが止まらない。
「どうかしました?」
メイドが首をかしげる。
「う、ううん。ちょっと立ちくらみみたい。……休むわ」
人払いをして、ひとりになる。
(ヴィオラがジュリアンに見つかれば、殺される……!)
もう、考えることはひとつしかなかった。
――アルフレードの子を守らなければ。




