68 逃げた先で、少女と出会う
アンジェリカは伝令の紙切れをぎゅっと握りつぶした。
――グリモワール南部、陥落。
――オリヴィアン、占拠成功。
「そう……リリスも、死んだのね」
本来なら、胸の奥で歓喜が弾けるはずだった。
母を殺した女の娘が、この世から消えたのだから。
だけど、胸は少しも晴れなかった。
(あれほど憎んでいたはずなのに……)
――母に内通の罪を着せ、命を奪ったあげく、王妃になった女。
そう思って、ずっとリリスの母を憎んできたはずだった。
でも、今はそれすら本当だったのか自信がない。
もしかしたら、母はただ、不倫相手との事故に巻き込まれて死んだだけかもしれない。
父と母の間に、愛なんて最初からなかったのだ。
アルフレードの目の流行病のように、何が真実で何が嘘かなんて、もうわからない。
「……酒でも飲まなきゃ、やってられないわ」
ウイスキーの瓶に手を伸ばしかけて、ふと止まる。
(……そうだ。今日は来客があるんだった)
今そばにいるのは、この地で雇ったメイドたち。
彼女たちは、私の素性を知らない。
「グリモワールの戦火から逃げてきた裕福な奥様」としか思っていない。実際、この南部からはお金を積んで逃げてきた者も多いらしい。
(身バレしないようにしないと……)
そんな私に、豪商の未亡人から頼みごとが舞い込んだ。
よそ者が入れば、生活水準や人となりはメイドや出入りの者からすぐにバレてしまう。
(本当なら……あの王城で、アルフレードに討たれて死にたかったのに)
でも、兄ジュリアンは許さなかった。
『アンジェリカとヴァルターには利用価値がある。ヴァルトシュタインに迷惑をかけた分、母国のために働け。今死ぬのは許さない』
――利用価値。
その言葉を聞いたとき、胸にかすかに残っていた温もりが、完全に消えた気がした。
兄はもう、父の跡を継ぎ王となった。
冷徹に、国の発展と支配の拡大だけを見据える男へと変わってしまった。
――そして、私。
残っているのは、アルフレードへの懺悔と、もう生きたくないという願いだけ。
ヴァルターは、私の手元にいるより兄に預けたほうが幸せだろう。
だって、今の私は、もう何も持っていないのだから。
夫のフェリックスを殺した。
その罪も背負っている。
私が積み上げてきたものも、アルフレードの幸せも――すべて、夫に奪われた。
殺したことに後悔はない。
だが、ヴァルトシュタインの娘がグリモワールの王を殺したせいで、即位したばかりの兄に迷惑をかけてしまったのは事実だ。
――利用価値があるなら、言われた通りにするしかない。
空虚さだけが、毎日を埋めていた。
「アン様、お客様が来られました」
私は名前を“アン”にして、暮らしている。
この都市国家群に避難して、この家に迎える初めてのお客様。
素性を隠し通せるか――緊張で心臓が跳ねる。
部屋に入ってきたのは、まだ少女のような可憐な女性だった。
紹介してきたのは、豪商の未亡人。
子供には恵まれず、商会は売り払ったと聞く。
今付き合っている彼氏の連れ子(娘)が出産間際。
恋人も、本人も、出産や育児の経験はない。
だから相談に乗ってほしい――とのことだった。
「お初にお目にかかります。このたびはご多忙のところ、お時間を賜り、誠にありがとうございます。私はヴィラと申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」
日焼けのない青白い肌。
少し貧血気味だろうか。
それよりも、驚いたのは、彼女のカーテシーの美しさ。
この子……間違いなく貴族の出自に違いない。
だけど、貴族の娘がこっそり、出産ね、
身分差のある相手だったのかしら。
純潔じゃないと、社交界にも戻れないだろうし....
可哀想に。
しかし、とんでもない娘を押し付けられてしまった
アンジェリカは心の中で小さくため息をつく。
目立たないように、特に貴族は関わったらどこから身バレするかわからないのに。
片手を思わずこめかみに当ててしまう。
恋人は貴族なら、そう言ってよ!
――今更断れるわけない。
どうやって“一般人の奥様”に成り切るか、思案するしかなかった。




