19 嵐の洗礼と、姫の涙
セバスティアン王の許可も降りて、ついにヴィオラのカッター訓練が始まった。
水夫たちにとっては、普段は宮廷で優雅な姫が、今日はポニーテール姿でオールを握っている。そんな珍しい光景に、ふんわり漂う海の世界にはない香りに、思わずガン見する。
カッターは二十人乗り。必ず後方にも人が座るが、姫を一番後ろに乗せるわけにはいかない。
だから俺は、ヴィオラを守るようにその後ろに立ってみんなの視界をなんとか遮ろうとする。
ヘルマン提督は、それを見て笑いを噛み殺していたが、こっちは必死だった。
なぜなら――。
毎日手を握って「好きだ」と囁き続けた結果。
「アルフレード、悪いけど……そこまでぐいぐい来られると重すぎるわ」
と、あっけなくツンを発動されたからである。
えっ!? 毎日気持ちを伝えるよって、約束したじゃん!
しかもヘルマン提督だって「陸にいるときはマメにしろ」って言ってたじゃん!
俺の心の叫びは、海のうねりとともにかき消されていった。
「お前さ、耳年増になってるから恋愛基準がおっさん臭いんだよ。相手は十六歳だぞ。十年後ならそれでいいけどな」
……と、当のおっさんにあっさり指摘される始末。
それでもヘルマン提督は面倒見がいい。
本気で学んできたヴィオラの姿勢を認め、危険だからこそ姫を船に乗せない理由を、包み隠さず語って聞かせる。
もちろん俺が初日に動けなかったことも、海の男たちの荒さも含めて。
「男と同じ土俵で戦えって話じゃない。頭を使え、人を使え。それが生き残る王族の役目だ」
そう語る彼は、俺にとってこの国で父親のような存在だった。
ーーー
実の父フェリックス王とは、ほとんど接点がない。
物心ついた頃には、祖父エドガーと父の仲は冷え切っていて、母アンジェリカのヴァルトシュタイン流の教育に加え、祖父は俺に直接グリモワール流の指導をしようとした。
「わしは隠居するはずだったんじゃ。だがフェリックスでは国が割れる。仕方なく表に出てきただけよ」
祖父はいつもぶつぶつ文句を言っていた。
父には家臣から尊敬され敬われる求心力がなかった。
いや、身近なものにはあったが…グリモワールは国が大きくなり過ぎていた。
その祖父は、俺に愛情を注いでいる感じではなかった。
家臣たちに対する言い訳のため――「孫を駒に育てるから、もう少し支えてくれ」そう言わんばかりだった。
そんな俺が片目を失ったとき。
母アンジェリカは「ヴァルトシュタイン家の陰謀ではないか」と疑われ、激しく責められたという。
以降、母にとって俺は「汚点の元凶」になった。
弟に家督を継がせたい、そのための障害。
それは間違いなく理由の一つだ。
だが、ふと脳裏に浮かぶ。
父フェリックスは、俺が片目を失ったとき、確かに笑っていた。
――ざまあみろ、と。
あれは、いつの記憶だったか……。
「おいっ! 何をぼーっとしている!」
ヘルマンの拳が飛んできた。
「す、すみません!」
殴られた衝撃で、ようやく我に返る。
訓練でもここは戦場なのだ。油断すれば死ぬ。
愛しい人を守るためにも、生き残らねばならない。
ぼーっとしていたら死んでも文句は言えない。
そのとき、風が吹いた。
「提督、強い雨が来ます!」
「そうだ。自然にやられる前に、陸へ戻るぞ!」
突然の拳に呆然としていたヴィオラへ、俺は声をかける。
「すまない。考えごとしてた。嵐が来たら危険だから、撤収だ」
やがて雨粒がぽつぽつと落ち、たちまち本降りになる。
木製のオールは重くなり、声を張り上げて漕がねばならない。船底には雨水が溜まり、ロープも水を吸ってずっしりと重い。
ヴィオラの顔は恐怖で固まっていた。
必死に動こうとするが、体力が持たずに動けない。――あのときの俺と同じだ。
「みんなと一緒に動きたいのに、体がついていかない」その絶望に打ちひしがれていた。
俺は彼女のそばに膝をつき、声をかける。
「ここからがスタートだ。悔しいって気持ち、忘れるな。俺も悔しかったから、強くなれた」
涙目のヴィオラは、悔しさを押し殺して小さく頷いた。
こうして――姫にとって屈辱的な初めての海の訓練は、幕を閉じたのだった。