189 血塗られた誤解
ヴァルターは、グリモワールが侵攻されたあの日を思い出しながら、もう一度ジュリアンの遺体の顔を見下ろした。
あの時と違い、いまのジュリアンの表情には狂気はなかった。
どこか、やりきれない静けさがあった。
「当時、母上はいつまでもヴァルトシュタインに来ない。何が起こっているのか、まったく分からなかった。
ジュリアン王には怒鳴られるし、仕方なく城の者から情報を得ようと侍女を追いかけ回していたが……。クレア王妃の息のかかった者ばかりだったな。だが、あなた方とは会った覚えがない。」
ロウがうなずく。
「はい。侵攻はあまりに急でした。王城はグスタフ王が雇った者ばかりで、クレア王妃には全て筒抜け。
私たちは、侵攻に反対したことから、ジュリアン様から“信頼されない人間”に扱いが変わりました。
国内でも、雪国への侵攻やグリモワール攻めを非難する声が多く、特にクレア王妃の娘リリスとその夫が戦死したことで、王妃派の貴族たちの怒りは頂点に達したのです。
騎士団長の私も求心力を失っていきました。」
ヴィオラは眉をひそめた。
――祖母クレアは、ふたりの遺体を前にどう感じていたのだろう。自分たちの歴史が引き起こしたなんて思わなかったのか?
胸がもやもやする。
ロウは続けた。
「当然、騎士団を統率するのも困難でした。
それで、ジュリアン様と話をしようとしたのですが……お顔を合わせていただけなくて。
そうすると、決めなければならないオリヴィアン侵攻後の体制も、奪還されてしまったグリモワールの後処理も、何ひとつ決まらなかったのです。」
ロウは本当に途方に暮れたという。
バルザックも、頷いた。
「そんな状況ですから、我々もヴァルター様にお会いできぬまま、気づけば、クレア元王妃のもとへヴァルター様は行かれてしまい慌てました。
次期継承者を手にしたクレア元王妃たちがジュリアン王の退位を求め始め、国は内乱状態に――。
ですから、アンジェリカ様がようやくお戻りになった時には、本当に救われた思いだったのです。」
だが、ヴァルターはその言葉を遮るように言った。
「けれど、母はあなたたち騎士団に殺された。」
ロウは苦しげに首を振った。
「あれは、我々ではなく近衛兵の仕業です。あの日、私たちは、アンジェリカ様の護衛に同行していましたが、『王族は近衛兵が守る』と命じられたのです。
ですからおそばに騎士団の護衛はついていなかったのです。
ジュリアン様とアンジェリカの二人は、まるで他人のように変わってしまいました。
私たちはかつてのように、四人で穏やかに話すことを望んでいた。ですが、そんな場面は二度とありませんでした。」
バルザックが、言葉を継ぐ。
「それに、アンジェリカ様は、ヴァルトシュタインと交易のないフィレンタに滞在し長く帰国されませんでした。ジュリアン様も、その動きを疑問に思われたようです。
我々はアンジェリカ様の動向を調査するよう命じられ、荷を送っていたフィレンタの住所を中心に情報を収集させました。すると、オリヴィアンの提督ヘルマンとヘルマンの娘、そしてアンジェリカ様が、長く共に暮らしていて、しかも恋仲だと噂されていたのです。娘は妊娠していて、アンジェリカ様ご本人が“お腹の子の祖母だ”と語っていたと言質もとれています。我々は娘は“ヘルマンとアンジェリカの隠し子”と判断しました。」
「ヘルマンは、アンジェリカ様から送られたヘルマン宛の恋文や刺繍のハンカチを受け取っていました。その文には将来、ヴァルター殿と一緒に同居を願う文まであったのです。彼は、彼女の住居を借り続けていました。我々はそのことをジュリアン様に報告しました。」
ヴィオラが思わず口に手を当てる。
ロウが唇を噛みしめた。
「その後、アンジェリカ様は殺されました。
最初は“クレアに殺された”と聞かされましたが、血に染まった衣服を切り刻めと命じられ……その指示を出したのがジュリアン様だったとき、私たちはようやく悟ったのです――報告したことが原因で、アンジェリカ様を殺させてしまったのだと。」
「唯一信じていた妹が裏切っていた――そう信じ込んだジュリアン様は、完全に壊れました。ヴァルター殿にヘルマンの暗殺を命じ、その後は、クレア王妃の一族を国家反逆罪で処刑。自分の妻とその“愛人”までも粛清しました。」
ロウの声は震えていた。
「私たちも、もうどうすればいいかわからなかった。
そんな中、“オリヴィアンの姫とアルフレード様の間に子供ができた”という報せが入りました。
姫は戦乱で行方不明でしたが、オリヴィアン国内に潜んでいたと思っていました。ヘルマンは、戦火があった当初から国内にいなかったと聞き、二人が海に逃げたと思わなかった。
――アンジェリカ様が守っていたのがその姫であれば、腹の子の“祖母”という言葉にも納得がいきます。」
バルザックが小さく息を吐く。
「つまり、全ては誤解だった。
アンジェリカ様は不倫などしていなかったのです。
その真実を伝えましたが……ジュリアン様には届きませんでした。
“リリスの娘を守り、アンジェリカに刃を向けた息子の子を守る”――それは、彼にとって耐え難い怒りでした。
さらに、ヴァルター殿がヘルマンを殺し損ねたと聞いて、ヘルマンへの怒りも更に増してしまいました。」
「結局、オリヴィアンも奪還され、ジュリアン様のアンジェリカ様へ向けた唯一の信頼は、すべて怒りに変わりました。
“俺が助けた者たちは、皆、恩を仇で返した”――と。
ついには男女の関わりそのものを“悪”と断じ、娼館を閉鎖し、男女が交わる場をすべて禁じました。」
――狂気はもう止まりませんでした。
二人は肩を落として語ったのだった。
アルフレードもヴィオラもヴァルターも、ジュリアンが壊れていく経過をただ呆然と聞くしかなかった。
我々は、どこかで一本の線になる方法はなかったのだろうか?自分たちも含め、みんなが過去の被害者だった。




