178 父の影、弟の真実
エドガーは、苦虫を噛み潰したような顔でアンナの話を聞いていた。
「……わしも人のことは言えぬな。ヴァルターがどんな過去を背負ってきたか、確かめようともしなかった。いや、もしかすると――王城であいつを孤立させたのは、わしかもしれん」
その言葉に、アルフレードは息をのむ。
父の名が出た瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
「父上のもとで……ヴァルターは、何をしていたのでしょうか?」
アルフレードは、抑えきれずに問いかけた。
フェリックスは政務に興味を示さず、エドガーとの関係も常に緊張を孕んでいた。
その父と、あの弟がどんな時間を過ごしていたのか――想像がつかない。
「最後、王城から帰って来ないフェリックスを何度も訪ねた側近だった男がいただろう。今は枢密院議員を務めておるはずだ」
エドガーの声は低く、どこか遠くを見つめているようだった。グリモワールの枢密院議員は、政策会議に出席し、政務の助言をする一人で、政務のブレーン的ポジションにいる一人だった。
「そいつは首にはせなんだ。フェリックスの時代を知る者として、重用しておる。そもそもあいつに家督を譲る時、わしがあいつを側仕えに選んだ。鋭く、よく気がつく男だった。フェリックスの補佐にはうってつけだと思ったのだが――」
苦い記憶を噛み締めるように、エドガーは言葉を切った。
結果的に二人は対立し、エドガーが選んだ家臣の大半がフェリックスからエドガーに寝返った。
それでも、その男――ルシアンは最後までフェリックスの側を離れなかった。
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フェリックスが暮らしていた別邸。
その門をくぐるのは、アルフレードにとって初めてのことだった。
久しく人の気配が絶えた建物は、静まり返っていた。
石造りの外壁は戦火を耐えたが、内部は黒く焦げ、煤と灰に覆われている。
壁のひびから入り込む風が、かすかに焦げた匂いを運んだ。
「……馬に乗らなくても行ける距離だったのですね」
アルフレードは、建物の窓だった場所から王城を見やった。
目と鼻の先――四キロほどの距離。
けれど、父と交わすことのなかった言葉の数を思えば、あまりに遠い。自身はここに来ようと思ったこともなかった。
ヴァルターは、アルフレードがいなくなってから、ここへ何度も脱走して来ていたという。
その足跡の一つひとつが、アルフレードの知らなかった家族の歴史だった。
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「アルフレード王、エドガー様。お呼びと伺いました」
翌日、王城にはルシアンが現れた。
当時は子爵、いまは伯爵。
年齢を重ねても、眼光は鋭く、感情を押し殺した表情に知略が滲む。
すでに――何を問われるか悟っている顔だった。
「お前は、この家に出入りしていたのだったな」
「はい。フェリックス王は政務を好まれなかったゆえ、私が城と別邸を行き来しておりました」
「では、ヴァルターが別邸へ出入りしていたことも知っていたのだな」
「……はい」
「なぜ、それを黙っていた?」
短い沈黙。
ルシアンは目を閉じ、長い息を吐いた。
そして、アルフレードへ視線を向ける。
「ルシアン、本当のことをすべて話してほしい」
アルフレードの声は、静かで、けれど確かに震えていた。
その決意を感じ取って、ルシアンは静かに頷く。
「……どこから話せばいいのでしょうか」
彼は低く呟いた。
「アルフレード様とヴァルター様が生まれてまもなく、フェリックス様は別宅に移り住まれました。エドガー様ともアンジェリカ王妃とも、良好な関係ではありませんでした。私は定期的にご家族の様子を報告しておりましたが……フェリックス様は、王妃の苛烈な性格を嫌われ、アルフレード様がエドガー様から帝王学を学ばれていることを殊のほか忌み嫌っておられました」
エドガーは目を伏せ、静かに言う。
「そうだろうな。わしが“二人の王子に教育を”と求め続けたから、あれはあれで当てつけのように感じておったのだろう」
ルシアンは、さらに顔を曇らせた。
「ある日、フェリックス様が珍しく、アルフレード様のことを詳しく知りたがられました。どのように学び、何を身につけているのか――。私は、ようやく息子に興味を持たれたのだと思い、詳細を報告してしまったのです。
学ばれる時間、日取り、授業の内容……そして、五歳にして自らの学びを文字にまとめられる才をお持ちだと、誇らしく」
アルフレードは、胸の奥に冷たい痛みが走るのを感じた。
「それは、俺の目のことと関係しているんだな」
ルシアンは、静寂のあと頷いた。
「アルフレード様はご存知だったのですね。」
ルシアンは、苦しげに目を閉じた。
「アルフレード様のご病気――そして、左の目を失われた一件。その背後に、フェリックス様の手があったことを、私は後に知りました。外向けには、王妃アンジェリカ様が原因とされましたが……真実は違います」
重い沈黙。
空気が一瞬、凍ったように感じられた。
「なぜ全部、ヴァルターのことも、アルフレードのことも黙っていた?」
エドガーの声が低く響く。
「このようなこと、皆様が知らないのであれば、胸に留めておくべきだと思ったのです。……それを知ったのは、ヴァルター様が突然別宅に訪ねてこられ、フェリックス様と対面したときです。当時、あの方は十三歳ほどだったでしょうか。王城内ではうつけと言われていましたが、無邪気に見えて、すでに侍女や侍従を操る術を知っておられました。」
十三歳?その頃には、すでに懐柔できる侍女を作っていたということか?
アルフレードは、ヴァルターという人間がわからなくなる。
十二歳の自分が、ヴィオラの頬に軽くキスがやっとできるかどうかだったのに。
自分の知らない弟がそこにいるーーー今まで知ろうともしなかったヴァルターの過去は、知らない誰かのようだった。




