136 母の名を抱いて
アルフレードは、動揺を隠しきれなかった。
.....いや、ヴィオラもヘルマンも、手が震えていた。
いなくなってわかる。
俺たちは、みんなアンジェリカにちゃんと会って話したかったのだ。
謝罪されても、受け入れられるわけじゃない。
帰ってきたって、多くの犠牲を出したんだ。
ヴァルトシュタインの人間も引き入れていた。
ギロチン刑は逃げれない。
結果は変わらないけど、それでも会いたかった。
アルフレードの目から涙が溢れると、ヴィオラも涙を流した。声にすらならない。
ヘルマンは呆然とまだ受け入れられてない状況だった。
ただ、みんな声にならない。
「ヴァルターは……なぜ船に乗らされたんですか? もうアンジェリカもいないのに」
誰に聞かせるでもない声で、アルフレードがつぶやく。
連れて帰りたいと思う人がいないのに、なぜジュリアン王はヘルマン宛ての手紙どおり、ヴァルターを都市国家まで向かわせたのか。
その理由が、誰にもわからなかった。
「それなんだがな……」
エドガー王は言いにくそうに口を開く。
「ジュリアン王から、ヘルマンを殺せと命令されたそうだ」
「えっ……?」
三人の顔が一斉にこわばる。
「な、なぜ俺が……?」
ヘルマンは声を失ったように呟く。
「アンジェリカの愛人だと思われていたらしい。その関係は長く続いており、二人の間には娘もいる、とヴァルターに告げられたそうだ」
「なんですか、その話!!」
ヘルマンとヴィオラが同時に叫ぶ。
「……あれかもな」
ヘルマンが思い出したように顔を上げる。
この間みんなで話していたことだ。
「アンジェリカがブリジットたちに、自分はヴィオラの腹の子供の“祖母”だと伝えたことがあったろう。俺はヴィオラの父親という設定だったから、二人がそういう関係だと勘違いされたんだ」
ヘルマンが呟くと、ヴィオラも眉を顰める。
「たしかにフィレンタでは、三人で長く一緒に暮らしたし、その間にヘルマンは遊ぶ暇もなかったわよね。余計に噂に信憑性が出たのかも。」
そんなふうに思われるとは...
「大丈夫だ、そんなに慌てなくても、噂だとわかってる。ヴィオラとヴァルターは同じ歳で産まれた。月日が違う。妊娠も出産も二人同時は時期的に無理だ」
エドガーが鼻で笑う。
ヴィオラとヘルマンがホッとする。
「ここでわかるのは、ジュリアン王は一緒に暮らしていた女の子がヴィオラ姫とは思わなかったし、歳も把握してなかったということだ。知ってたら、そんな噂を信じまい。
妊娠していたことが、いいカモフラージュになったのかもしれん。ヴィオラ姫の場合、あの時はまだ結婚したことすら周囲に知られてなかったわけだからな。」
「ヘルマンはヴィオラともプロポーズされる関係と思われてたけど...」
アルフレードは再び思い出したようにギロッとヘルマンをにらむ。毎回この話が出るたびに、アルフレードは嫉妬して、ヘルマンに対して怒りを爆発させる。
「だからそれは、あなたが全部否定して回って、散々私との関係を周囲に見せつけたから、とっくにないです。でも、娘の夫は片目が見えなくて眼帯で目立つんだから、ジュリアン王も気づいても良さそうに思うのに」
ヴィオラはため息をつきながら、訳がわからないと言う顔をした。
「ここまでの経過を見たらジュリアン王は独裁者だからな。アンジェリカとヘルマンのことを調べるように言われて、家臣たちは、本当にその二人のことだけを中心に捜査したのだろう。
だが、娘の夫のことは調べろと言われなかったらやらないだろうな。余計なことをして火の粉は浴びたくないものだ。」
エドガー王に言わせると、ジュリアンは恐怖政治の典型的なタイプらしい。
家臣は顔色ばかり見る。
やれと言われたことはきちんとやるが、言われなかったことは、いつ首が飛ぶかわからないからやらない。
もしくは知り得たことがあっても、聞かれないことは伝えない。
「いずれヴァルターがグリモワールに捕まったことや、お前たちの結婚や子供の存在を知れば、ヘルマンとアンジェリカの誤解は解けるだろう。
だが、アルフレードの子を隠し通したようだし、ジュリアンにとってはアンジェリカは最後まで裏切り者だ」
(ヘルマンはオリヴィアンの姫を守り、アンジェリカは自分の息子の子供を守ったという事実に変わるだけか...)
アルフレードは誤解が理由で、母アンジェリカが殺されたことが悔しくなる。でも、裏切ったことが変わらないなら、結果も変わらないのかもしれない。
「では、ヴァルター様にグリモワールが捕縛に来る可能性を、ジュリアン王は考えてもなかったんでしょうか?」
ジュリアン王は、アンジェリカ王妃より狡猾で賢いと聞いていた。
だがあまりに視野が狭すぎる気がして、ヴィオラは納得がいかなかった。
「ヴァルターとアンジェリカはグリモワールに追われているんだから、そこは思いもしなかったようだな。愛人のヘルマンが、みんなで暮らすためにアンジェリカを迎えに来ると思っていた。」
「だけど、顔がわからないだろう?俺はヴァルターを知らないし、向こうだって知らないだろう」
ヘルマンは困惑する。
オリヴィアンの提督としてならまだしも、まさかアンジェリカの愛人として、ヴァルトシュタインのターゲットになっているとは思いもしない。
そして、ヴァルターの顔なんて何もわからない。
「ヴァルトシュタインの海軍兵が同行していた。だからヘルマン殿の顔は把握されていたようだ。
兵に指示が出ていて、アンジェリカの死を伝えてこれを見せて動揺したところを刺せ――そう命じられていたらしい」
そう言って、エドガーは血まみれの布を取り出した。
三人は息を呑む。
それは服の一部、いや、服と呼ぶのもはばかられるほどの破片だった。
裂け目から刃が通った跡がわかり、助かるはずのない出血量を示している。
何より、女性の服が剥がされ、死後にまで刻まれるなど、侮辱以外の何ものでもない。
そこには、ジュリアン王の強烈な憎悪が滲んでいた。
「……ひどい」
ヴィオラは震える声でつぶやく。
あの気高いアンジェリカが、死んでなお、こんな仕打ちを受けるなんて。
アルフレードは黙って布を見つめていた。
冷静に見えるが、その指先は震えている。
やがて、黒ずんだ布地に手を伸ばし、そっと抱きしめた。
「母上……母上っ!!」
堰を切ったように、声があふれる。
アルフレードは泣き崩れた。
エドガー王は黙ってその肩を抱きしめる。
ヘルマンは拳を握りしめ、唇を噛んだ。
悔しさも悲しみも、何ひとつ言葉にならなかった。




