102 乳母の証言
エドガーは静かに椅子を引き、侍女頭のアンナを呼んだ。
扉が開き、控えめに入ってきたアンナは、深々と頭を下げる。
「お前は……アルフレードの乳母だったな」
エドガーの低い声に、アンナは背筋を伸ばして答えた。
「はい、陛下。」
「アルフレードはな、少し昔のことを覚えていないようでな。その頃の話を聞かせてやってほしい」
促されて、アンナはゆっくりアルフレードに視線を移した。どこか懐かしむような、母のような目だった。
「はい……。あの頃の私は、夫を亡くしたばかりでした。行くあてもなく、生活にも困っていました。そんな私を、政治的な影響が少ないという理由でフェリックス王が選ばれたのです」
「父が……?」
アルフレードは眉を寄せた。
まだ父が王城の内政に関わっていた頃のことだ。
「はい。ですが、私自身、子育ての経験などまるでなくて……。アンジェリカ様と二人で、手探りでお世話をしておりました。アンジェリカ様は寝る間も惜しんで書を読み、調べたことを私に教えてくださって……。それを実践していたら、いつの間にかアルフレード様はすっかり私に懐いてしまわれたのです」
その言葉に、アルフレードの胸がざわめいた。
――嫌な予感がする。
「まさか……アンジェリカから嫉妬された、とか?」
アンナは口元に苦笑を浮かべた。
「はい。『もう乳母はいらないわ』と、解任されてしまいました」
アルフレードは小さくため息をつく。
ありがちな話だ。
セバスティアンだって、俺が抱っこするよりヴィオラが抱っこする方がずっと嬉しそうだ。
目もはっきりしない赤ん坊ですら、匂いなのか抱き心地なのか、普段世話する人がわかるらしい。
「だけど……俺が流行病に罹った時、お前はそばに来てくれただろう」
「はい。本当はアンジェリカ様が行くとおっしゃっていたのです。でも医師が、接触は絶対に禁じると……。それで、アンジェリカ様がこっそり私を呼んで、『どうか、あの子が苦しんでいたら助けてやって』と頭を下げられました」
「……そうだったのか」
俺の胸に、冷たく覆われていたものが剥がれたような気持ちになった。
あの時、自分の枕元に来てくれた優しい手。
果実水を飲ませたり、マメに世話をしてくれた。
これ以上悪化しないように手袋をして、謝りながら掻きむしる俺の手を拘束していた。
それがアンジェリカの頼みだったとは。
「禁止されていたのに、よく世話をしてくれたな」
「我慢できなかったのです。あまりにつらそうで……。でも、すぐにフェリックス王に知られてしまいまして。罰として、長く洗濯担当に回されました。ヴァルター様が生まれ、王が王城を離れた後、ようやくアンジェリカ様が私を侍女に戻してくださったのです」
エドガーは腕を組みながら、静かに頷いた。
アルフレードは、複雑な思いでテーブルの木目を見つめた。
――父が城にいた間、母は人事に口を出していなかったのか。
意外にも、彼女は貞淑な妻だったのかもしれない。
「……あまり、俺とは近い距離にいなかった気がするが」
「アンジェリカ様とアルフレード様の関係がうまくいかない中で、私まで優しくしてしまえば、あの方はますます意固地になってしまわれます」
なるほど、と俺は頷いた。
努力しても報われないことがある。それが子育てだ。
「当初、アンジェリカ様は――嫡男のアルフレード様を流行病に罹らせてしまったことを、深く悔いておられました。
片目の見えない子が、王になる以外に生きていく道はないのかと……。必死にお考えだったのです。
ですから……その、本当にアンジェリカ様がアルフレード様に流行病をうつされたのでしょうか? 私には、今でも信じがたいのです」
アンナの言葉に、部屋の空気が少しだけ沈んだ。
外向けには、俺の病は「アンジェリカが仕組んだもの」とされている。
そして、実際に手を下した父は――ヴァルトシュタイン出身の妻に殺された、哀れな王として扱われ続けている。
「……その頃からだったのでしょうか」
アンナは静かに続けた。
「アンジェリカ様は、フィレンタの芸術に触れられてから、芸術家たちに関心を持つようになられました。
『目が悪くても、それなら生きていけるのではないか』と……。
どうしてあれほどアルフレード様を案じておられたのに、あんなに厳しく接してしまわれたのか――。
私には、最後まで分かりませんでした」
「不器用なんだよ。アンジェリカはああみえて」
俺は曖昧に微笑んだ。
俺はアンナの話から少し救われていた。
もちろん、ヴィオラは許さないだろう。
俺だって、完全に許す気にはなれない。
けれど――愛がなかったわけじゃない。
子育て経験のない侍女をあてがわれ、懐かれずに悩み、夫の裏切りに苦しみながら、それでも片目が見えない息子を生かせる場所がないか探そうとした。
でも、息子は王になるための訓練を怠らなかった。
そのすれ違いと不器用さが、たぶん全てだったのだ。
俺はふっと息をついた。
「……せめて、ヴァルターと良い関係を築いてくれたらいい」
心から、そう願った。
そして、全てが許せなくても、俺だけでも、これ以上恨まなくてもいいんじゃないか。
アンナのまっすぐな瞳を見て、アルフレードは確信した。
この人は嘘をついていない。
彼女なら――信じられる。
だから、俺は静かに切り出した。
「アンナ。俺の子が生まれたんだ。……乳母について、相談がある」
一瞬、アンナは息を呑み、それから小さく頬を染めて頭を下げた。
「それでしたら――エドガー様、アルフレード様。わたくしでは、いけませんでしょうか」
彼女の声は震えていたが、その瞳はまっすぐで、どこまでも優しかった。




