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そんなこんなで僕が“歴史渡り”になって実質活動時間は8年、世間では24年の月日が経っていた。
三十代だったヤマモトさんはいつの間にかスーツを二回りも大きく新調するほどの筋肉をつけ、軽くあごひげまで生やした五十代になっていた。
袖口からのぞかせる肌は褐色に日焼けしているが、相変わらずのデスクワークなワークホリックだった。
一体いつの間にトレーニングをしているのやら。
チリも積もればマッチョらしい。
僕は今、ヤマモトさんやその他宮内庁に勤める公務員の方々にお願いして、宮内庁庁舎の一角を借りている。
宮内庁庁舎は地下鉄千代田線の二重橋前駅、又は地下鉄三田線の大手町駅から徒歩15分ほどの距離にある坂下門をくぐって皇居に入り、そこからさらに少し歩くとある。
平日は皇居見学の観光客がいるものの、皇居内は広く自然豊かでいつ来てものどかな場所だ。すぐそばに見えるビル群とは一線を画したこの物静かな場所自体が、俗世との関わりをまるっきり絶っている僕のためのシェルターだった。
僕は普段新聞やネットニュースを読み漁ったり、宮内庁にある過去の文献を“歴史書”と読み比べ、内容を精査をしている。
たまに新聞社の社長や著名な社会学者に来てもらって今後の情勢を聞いたりもしているが、苦労はなく、もはや日常のルーティンみたいになっていた。
ごくたまにヤマモトさんと皇居から歩いていける距離にある穴場のイタリアンに行くこともあったが、基本は一人行動することが多かった。
大人になったということだろうか。
とはいえ。
暇だった。
何か歴史に関する重大な出来事が起こらない限りはやることがない。
今に始まったわけではないが、とにかく暇だった。
そんなに時間があるのなら勉学に励めだの、趣味に打ち込めだの言うかもしれない。けれども僕は社会的には秘密の存在であり、ヤマモトさんと宮内庁上層部しか秘密を知らないだろう。
僕が社会に対して何か発信したり行動するには、ゴーストなんちゃらになる必要があるのだ。
つまりは僕が書いた論文や歴史書、芸術作品だって誰か別の人が書いたことにされる。
めんどくさい。
三月初頭にしては、やや冷ややかな風が皇居の堀沿いを吹き抜ける。
その冷ややかさが意識をより鮮明にする。
相変わらず宮内庁庁舎でひきこもっていたため、今日庁舎から出て外を歩いているのは三ヶ月ぶりくらいかもしれない。
外界の変化が眩しい。
東京駅の丸の内中央改札からぞろぞろと出てきては吸い込まれるようにビル群に消えていくサラリーマンたちを遠目に見ながら、あと一ヶ月もすれば皇居も桜が咲き渡るのだろうかと思いを馳せる。
今年は例年まれに見ない寒波の影響で桜の開花は遅れるかもしれない。
それも悪くないなと思う。
僕は人混みの多いところには行かないようにしていた。
集団にいると考え方が平凡化するし、そもそも人は自ら考えようとしなくなる。
これは僕が大学時代に得た知識と経験則。
僕は”歴史書”の桜開花の観測記録を心のうちで開きながら、花見という毎年起こる普通の現象に集まって馬鹿騒ぎする現代人の観測が今年は遅れてくれてもかまわないなと来週の風景を想像した。
一度だけ僕も花見に行ったことがある。
昔、まだ“歴史渡り”になりたての頃に当時付き合っていた彼女と行った。
満開で見事な桜と彼女が作ってきてくれたサンドイッチの美味しさは印象的だった。
そんなことを思い出していると、突然ポケットの中に入っているスマホがバイブレーションを始める。
見るとヤマモトさんからの着信だった。珍しい。
「すぐに宮内庁庁舎に戻ってきてください。込み入って話があります」
こういう日に限って戻らなければならないのなら、庁舎から出なければ良かったと後悔する。
特にない予定を変更して、急いで戻ることにする。
別に行く当てもなく散歩していただけなのでどうってことない。
ひんやりと冷たい風は走ると余計に切り裂くように身に滲みる。
“歴史書“には気温の記述はないが、時代が進むにつれて人というぬくもりは、益々寒化の一途を辿っているはずだろう。
「朝霧高校に行くのです」
単刀直入にそう言われた。
思いやりなんてものはあったもんじゃなかった。
「講演会とか何かですか? それとも誰かのアシスタントとか?」
日本史の知識なら僕ほどの者は他にいないだろうし、由緒ある学校で大きな発見の瞬間に立ち会えということも十分にあり得る。
今まで講演会というものをやったことはないが、しゃべる題材ならいくらでもある。というか普段人としゃべらなさすぎて話のネタは飽和していた。
「いや、朝霧高校の生徒としてです。具体的には二年生ですね」
ヤマモトさんは右手であごひげをさすりながら、にまっと笑う。
右腕の上腕二頭筋が盛り上がるのが見えた。こう見えて書類は紙で細かく管理していて、几帳面だというのだから今も違和感しかない。
「なぜ僕がまた高校生をやる必要があるんです? 僕って一応は大人ですよ」
「君ほどの適任者はいないでしょ。それに外見は高校生だから、学生に溶け込めるだろうし」
「確かにこの外見だと高校生に間違われるだろうけど。大人としてのプライドはあるからな」
「そんなことを言っても。そうです、仕事のついでに高校生でやり残したこととか後悔してることの一つや二つくらい……」
「例え後悔していたとしてもやり直したいってわけじゃないし。もう振り返らないという選択肢もある」
「目を背けて勝手に終わったことにしているだけですよ。君は運良くやり直せる機会があるのですから。羨ましいくらいです。まだ心も若いだろうし、上手く溶け込めますよ」
「だからってもう立派な大人だよ? 今から高校生をまたやるなんて心の準備が」
「決断を遅らせているといつの間にかおじさんになってしまいますよ。私みたいに」
ヤマモトさんは僕と会ってからの年を指で数え始める。
ちょうど24回指を折り曲げを繰り返し、案外あっという間でしょ、と笑顔で僕に語りかける。
四半世紀。
思えば長い付き合いだ。
「先ほど入った情報なのですが、朝霧高校で“歴史渡り”に関する情報を知っている者がいるらしいのです。詳しい情報は分からないですが、もしかすると阿久津君に関することかもしれません。それを調べてきてください」
「何で僕が直接高校生をする必要があるんだ?」
「君最近、暇していますよね。そんな若々しい外見で引きこもりしやがって。更生してください。自分たち“管理人”だって暇ではないのです。と、まあ冗談はこのくらいにしておいて。君は高校在学中にだって“歴史渡り”を並行してできていた実績がありますから。あくまで生徒のふりをして、“歴史渡り”を知るターゲットの懐に入り込んでください。歴史書の空白を埋めるっていう君の仕事をこなしに行ってきてください。きっと上手くいきますよ」
「そうかな」
「そうですよ。そしてもう少し個人的に社会と関わるべきです。引きこもってないで」
初めから暇を持て余している僕に拒否権はないようで、話はどんどん先に進んでいく。
「ちなみにもし、ターゲットが何らかの偶然で“歴史渡り”に関する情報を知ってしまった場合には、わかってますよね。特定機密保護法令に基づいて速やかに記憶の消去を行うので、自分に知らせてください。それと社会に関わるべきとは言いましたが、あくまで程よくですよ。高校生と仲良くするのはよいのですが、君はいずれ彼らの記憶から薄れていく存在なのです。君について知りすぎると記憶消去という手段もあります。どうなるかは君の情報管理次第ですけど。的確な判断を頼みますよ」
ヤマモトさんはにっこり笑って、サムズアップする。
何を隠そうヤマモトさんは秘密保護のエキスパートなのだ。
実際過去に“歴史渡り”に関する情報を知った何人もの記憶を消してきた。
消すかどうかの判断は僕とヤマモトさんの両方にある。
この人は宮内庁職員でありながら、警察庁ともつながりがある。
なんなら武術だって警察官とも劣らないだろう。
不都合な真実は警察庁でもみ消す。
こうして“管理人”は代々“歴史渡り”の秘密を守ってきたらしい。
今後も秘密漏洩の恐れがある人物の記憶は容赦なく消す。
僕には仲が良かった幼馴染みや小中学校の同級生だっていた。
僕についての記憶が消されないよう、”歴史渡り”になったことを一切話していない。
そもそも最後に会ったのが何十年も前ではあるが。
「学業の方はどうすればいいんだ? 流石に日本史以外の教科はさっぱり忘れたぞ」
「そこは適当にやってください。留年してもらってもかまわないですから」
「いやそこはかまえよ。というか僕の人生長いのに、留年したという不名誉をこれからずっと背負っていくことになるんだぞ。いやだからな」
他人が留年したことなんて周りはそこまで気にしないとは思うが、僕のプライドが許さなそうだった。
「すでに新幹線のチケットとっておきました。あとこれが君の住むマンションの書いてある地図です」
そう言ってヤマモトさんから手渡されたチケットと書類を見る。
新幹線の指定席の日付は今日だった。
「今から行けってこと?」
ヤマモトさんはそうだとばかりにうなづいている。
「早めにけりをつけた方がいいかもしれないですよ。思い入れも思い出も、こっちの生活へ戻ってくる時には邪魔になるだけですからね。君はお節介焼きなところもあるので、案外高校生を長くやると言い出したとしても納得はいきます。ただゆっくりしていると、自分が退職してしまっていることは忘れないでくださいよ」
「留年しないしそんなに長く高校生をやったりもしないからな。“歴史渡り”を知るターゲットを見つけ次第、速攻で高校生やめていいんだよな?」
「はい、もちろんです。上手く高校生に溶け込めるといいですね。帰ってくる頃には若さを取り戻して更生してきてくださいよ」
そんなにだろうか。ちゃんと決められた仕事はしているのに。
ヤマモトさんは楽しそうに、どこか名残惜しそうに、いつもより声を抑えめで笑う。
思えばなんだかんだ、この人と一緒に仕事をすることが多かった。
歴史に関する資料を集めて二人で研究した。一緒に遠出して現場検証もした。
だからその都度、彼の身体的変化に僕はいち早く気づいて指摘したものだった。
「僕はそんなに簡単には変わらないって」
そう言い残して、僕は宮内庁を後にした。