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朝はまだ肌寒く日中はずいぶんと暖かくなった三月の某日、春休みを持て余していた僕は、電車で一時間ほどの距離にある神社に行くことにした。

いつも同級生と初詣に行く馴染みのある神社だった。


田園風景が続く車窓。

予定がない日の世界はゆっくり動いているように感じられ、気を抜くと瞼が下がってしまいそうなくらい心地よい車内。通勤通学の血気盛んな戦場のごとく、殺気の飛び交う車内の名残はどこにも見当たらない。


神社に行くのに何か目的があったわけではない。ただの気まぐれだ。

強いて言うなら、勉学の疲れを癒やしたくなったとか。はたまた閑散な境内でしん、しん、と白砂を踏む、心地よい音が聞きたくなったとか。

そのくらいのなんでもない理由。


境内には古びた本殿と近年新たに作られた本殿がある。毎年、同級生と訪れるのは新しい方の本殿で、平日の昼間でもぼちぼち人がいる。

しかし少し奥まったところにある古びた本殿は人けが無い。その平たい屋根に威厳はなく、屋根を支える柱はむき出しで、いつ壊れてもおかしくないくらいか弱く見える。


本殿を隠すかのように周囲を鬱蒼とした大木が覆っていて、苔が生えて緑がかった鳥居を完全に飲み込んでいる。鳥居はその石らしさを消して木々に擬態し、木々で外縁を縁取られ、小さくなった青空の中で、真っ白な雲は足早に過ぎ去っていく。


ここに来るといつだって、世界がまるで自分一人になったような感覚に陥る。

出会う人すべてに彼らの物語がある。そんな現実の直視は人酔いのもとなので、適度な一人の時間が心地よい。


本殿の縁側に座っていた僕はふと、誰かに見られているような寒気を感じた。

はっとなって周囲を見回す。

少し離れた大木の木陰に、誰かの気配を感じた。立ち上がり、気配が感じる方へ歩いてみる。

そこには珍しく人がいるようだった。

二十代くらいの若い顔立ちで、目元が鋭く、長身で特に足がすらっと細長い男が、幹に背をもたれかけるようにして立っていた。


明らかにこちらを見ている、というか目をこらしているといった方が正確だ。

その三白眼は鋭さを放ってはいるものの、どこか精気の抜けた虚ろな雰囲気を醸し出していた。

ほどよく伸びた癖のある黒髪は若者特有のだらしなさで、ネイビーのドットシャツと白のパンツのヨレた着こなしがまだ若そうなその見た目の元気よさを帳消しにしている。


なんだか本殿の雰囲気と噛み合っていた。


しん、しん、しん、しん。


男は意を決したようにこちらへゆっくりと歩き出す。

僕は周囲を見渡すが、その男以外には誰も見当たらない。

静寂を突き破る白砂を踏む不気味な音だけが耳に届く。

僕は無意識に手を握りしめる。


しん、しん、しん。


ゆっくりと歩いてくる。

明らかにこちらへ向かってくる。

僕を捉えている精気の抜けた目が、誰もいない世界で人を見つけたような喜びを漂わせ、あたたかさすら感じさせる。

こわばっていたはずの僕の足が解凍され、滑るように一歩下がる。


あからさまに身構える僕に、男は世間話をするような口調で話しかけてきた。


「お前は生きているだけで価値を持つ存在になりたいか?」


男はあと数歩の距離まで僕に近づくと立ち止まり、そのように言ったらしい。

僕はその言葉の意味を捉えあぐね、聞き間違えたのではないかと思案する。


「生きているだけで価値を持った人間。お前はそれなりたいか?」


男は再び口を開くと、確かにそう言った。

見も知らぬ男によく分からないことを言われ、困惑するとともに恐怖を感じる。

僕は男からさらに二歩下がり距離をとった。


確かに僕は価値のある人間になりたい。

しかしこうも他人から言われると胡散臭いのはなぜだろう。

新手の宗教勧誘か何かなのだろうか。

のんびり過ごすはずだったのにな、と自らの時運の悪さを軽く恨んだ。


「言っている意味がよく分からないのですが……」


「お前はオレと同じことを思っているし、同じ眼をしている。価値があって求められたい。そうだろ。お前はそれになれるんだ。セカイの行く先を見てみたくはないか?」


『セカイの行く先』なんていう青臭い台詞を吐く男からは、明るい未来がまるで感じられなかった。

何一つ理解できなかった。見るからにだらしないこの男と僕が同じ眼をしているだって。そこが一番気に食わない。

戯言もいい加減にしてほしい。


「あなたはなんなのですか?」


図らずも声に苛立ちを帯びていることが自分でよく分かる。

僕はさらに静かに距離をとる。


「なってみればわかるさ」


男の言う“価値がある”とはつまはじき者的自己肯定、つまり世間から疎まれるような人が強く生きていくための独りよがりな考え方かもしれない。生きていればみんなに価値があるとでも説くのだろうか。


男の話を真剣に聞いてはいけないと思った。


「ただの“普通”の高校生に何を言っているんですか」


口にした言葉には少しばかりの怒気が孕んでいた。

普通の人にはなりたくないと思っている僕が、一番口にしたくはない言葉だった。


「普通?普通。普通…………」


男は少し何かを考え込んでいた。


やがて何を理解したのか、ほっとしたように軽く頬をかき、非常に軽くだが口元を緩める。


「普通を望んでいるのか? そうではないだろう。お前は物足りなく思っている。焦らなくても時間はあるからな。きっとこれから世界が広く見えるさ。誰よりも知識人になれるのだから」


「本当に意味が分からないのですが」


男は何も言わず、疲れたように笑った。


僕はなんだかその表情をどこかで見たことがある気がした。

全ての縁を切って家を飛び出し、今はどこかで一人勝手に生きているだろう兄が、昔にしていた笑顔にとてもよく似ていた。


あっけに取られている僕に近づき、その肩をぽんぽんと優しく、なだめるように叩く。

僕は男から背を向けて、境内の誰かに助けを求めようと人を探す。

しかし僕と男以外の人はいない現状は変わらない。


落胆しながら振り返った僕の目前に男の姿はすでに無かった。


…………。


驚いて腰が抜け、勢いよく尻餅をつく。

その白砂の音だけが誰もいない境内に静かに響き渡っていた。

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