19
「私は中学の頃から陸上部に入っていて主に中距離をやっていたの。成績はいい方で県大会とか東海大会によく出ていたし、何より走るのが好きだった。それは高校に入ってからも変わらなくて、迷わず陸上部に入ったの。これは自慢じゃないんだけど、私自分で思っている以上に足が速いらしくてね」
「岩屋さんもそのことで褒めてたよ」
「そうなんだ……。それでね。去年の夏の大会の出場選手を決めるために記録会をして、個人種目の400Mとは別に、1年生で一人だけリレーの選手に選ばれたの」
「2年生は何人いたの?」
「2年生はいなかったし、メンバーに選ばれなかった3年生も何人もいた。顧問の先生は実力主義の先生で私ならこのチームの中でも申し分ない実力で、むしろこのチームを引っ張っていってほしいって」
「プレッシャーがかかりそうで、僕ならもう逃げ出したくなるな」
僕がそう言うと、河井さんは照れたように小さく笑う。
「陸上部ならプレッシャーがかかる時はたくさんあるから、その辺りは慣れたかな。でも3年生の最後の大会なだけあって、真剣な2、3年生の先輩に何度か練習の合間とか終わった後に呼び出されて、リレーの選手を3年生に譲るよう言われたこともある。先輩方からよく思われていないだろうなっていうのは日々の練習で薄々感じてたの。だからね、リレーの選手を辞退しようとしたこともあるよ」
河井さんは懐かしむように言う。
「でも岩屋さんが私に話しかけてくれて、『河井なら絶対大丈夫だし、むしろ河井がいないと勝てないんだよ。先輩たちは自分の実力を理解できていないだけで、それでリレーの選手になろうだなんて陸上なんだと思っているわけ? それにさ、河井は速いのに、それで手を抜こうだなんてそれこそ陸上やってる人たちへの冒涜だねって」
なんだか岩屋さんそう言っている様子が思い浮かぶ。彼女は人を鼓舞するのが上手そうだった。
「私だって本気でリレーの選手狙いにいったのに、選手になれたのは河井でしょ。同じ一年として応援してるし、ライバルとしていつかは記録を抜いてやろうと思ってるからさ。今はリレーの選手として胸を張れ』ってね。岩屋さんに背中を押されてリレーの選手を本気で頑張ることにしたの。岩屋さんほんとにかっこいいよね。私から見ても凄く足速いし、状況判断もいいし、なにより岩屋さんに応援されているだけでとても心強かった。二人で残って遅くまで自主練したり、遠くまで一緒に走りに行ったりもした」
「ここまで聞くと、すごくいい話に聞こえるね」
「そうだね。…………でね、あるとき事件が起きたの。リレーのチームも何チームかあって、合同で模擬試合をしたの。そこで私は私の前を走っている先輩を抜かせると思って、外から追い抜こうとしたの。実際ギリギリの勝負じゃなくて、私はもうその先にいる人を見ていた。私が抜かした瞬間、先輩の下ろした脚が私の脚に当たって、そのまま私の脚に絡んでもつれて、先輩は転倒した。私も全力で走っていたものだから、急には減速できず脚の回転はリズムを崩されちゃって。着地に失敗して、私は右足首をひねっちゃった」
陸上部の中で、そんな足の引っ張り合いが行われていたことに驚いて、僕は何も言えないでいる。
「右足がすっごく痛くて、倒れそうなったけど、辛うじて次の人へバトンを渡した。私、頑張ったんだよ。でもみんなの注目は倒れた先輩にあって、私じゃなかった。何人かがすぐに先輩に駆け寄っていった。幸いかすり傷だけで大きなけがはしていないようだった。だけど私が思うにあれは故意だったと思う。
私のことをよく思っていない先輩が私にけがをさせて、補欠の3年生を代わりに選手にさせるつもりだったんだよ。私はまだ1年生でこの大会に出られなくても次があるから、なんていう気持ちで罪悪感はないように見えた。その先輩は倒れたまま、私に向かって笑っていたように見えたんだ」
河井さんは当時のことを思い出しながら、ひどく悔しそうに話していた。
「だから私はそのことを岩屋さんに話した。岩屋さんは先輩に怒ってくれたけど、実際派手にこけたのは先輩の方で、先輩方は誰も本気で私たちの話を聞いてくれなかった。唯一キャプテンだけは、大会前にけがをするなと先輩と私を平等に叱った。右足首は腫れていたけれど、4,5日で治ったし、普段の生活で違和感を感じることはなかった。右足首を大きく曲げた時だけはちょっぴり痛かったかな」
「今はもう大丈夫なの?」
「うん、今はもう痛くないよ。でね、私のリレーチームに一人ものすごく足の速い三年生の先輩がいたの。個人戦では全国で上位に入る程の実力で、リレーですら全国出場を目標に練習していたくらい。地区大会は余裕のタイムで突破していた。これから県、東海、全国へと続いていく前に、学校で部活動激励会なんてのもあって、足の速い彼女が登壇して喋ったの。彼女は個人戦、団体戦ともに全国大会に出場して良い成績を持ち帰ることを全校に約束すると言ってた」
「だから、全校生徒が陸上部のことを知ってたわけね」
「みんな、期待してたんだよ。でも先輩の言葉はただの戯言ではなくて、自信に満ちていて、きっと良い成績を取ってくるだろうってみんな自然と思っちゃうくらい。元からあった先輩の知名度がさらに学校中に知れ渡り、陸上部への感心も高まった。同様にリレーの選手である私に対しても頑張れ、と声をかけてくれる生徒さえいたぐらいに。この学校が陸上以外に強い部活がなかったからかもしれないけどね」
河井さんは思いを打ち明けるように所々感情を昂ぶらせながら話すと、そこで一息をおいた。
薄い赤色だった部屋が徐々に濃さを増してきている。
「話すのが辛かったらここまででも大丈夫だよ」
これから何か事件が起きるのだろうと思って、僕は一度話の中断を提案するが、河井さんは小さく笑っただけだった。
「まあ、ここまで話したからね。全部話すよ。県大会の日、私は無事に個人種目の400Mで東海大会への切符を手に入れられたの。もちろん足の速い先輩もそうだった。あとはキャプテンもそうだったかな。部として県大会は眼中になかった。もっと先の大会を見据えていた。そのあとにリレーでがあったの。私は二番走者だった。先輩たちはみんな早くて、バトンが二位で回ってくる。どきどきしたし、楽しくもあったよ。私の番からオープンレーンで、いつもより調子が良かった私は一位を走っている人を抜かせると思った。前の人との距離は徐々に縮まり、隣に並び、ようやく抜かせると思った。ちょうどカーブにさしかかっていた時にその選手と体が接触しちゃったの。外に軽く投げ出された私は、まだその選手を抜くことが出来ると全身に力を込めた。だけどその時踏ん張った右足首は変な方向に負荷がかかったんだと思う。右足首から激痛が駆け上った。そして私は倒れた」
少し感情的になった河井さんは呼吸を整える。
「チームメイトからの声援が聞こえ、私は立ち上がろうとした。だけど無理だった。今度は激痛がずっと続いてた。練習中にひねったところがちゃんと治っていなかったんだと思う。私がバトンをつなげず、リレーは失格となった。その時のメンバーの絶望した顔は今でも覚えてる。私は2、3年生から嫌みを言われた。キャプテンや岩屋さんは、気にするなと私に肩を貸しながら言った。だけど内心はどう思っていたのか分からない。嫌みを言いたかったかもしれない。一番絶望していたのはアンカーを走る予定だったあの先輩だったと思う。結局、私に何も言うことはなかったけど、そんな顔をしていた。私のけがは全治一ヶ月で、東海大会は諦めた。唯一残っている先輩はリレーがなくなったことでより一層個人種目に力を入れているようだったけれど、全国大会本番前に故障してだめになった」
河井さんは至極淡々と話していたが、少し無理をしていることがその顔を見れば分かる。
眼は少しだけ赤くなっていて、声は鼻声がその存在を隠しながらも混ざり始めている。
「それでね、そんな残念な結果に終わったことを学校中の生徒も知っていた。知らない先輩から嫌みを言われたこともあったし、お前のせいで負けたとも言われた。だんだんひどくなっていって筆記用具や靴や教科書などいろんなものを隠されたこともあった。私のせいで負けたのは事実だと思う。靴や教科書は大きな問題になるのを恐れてか大体は戻ってきたけど、ほかのものは戻ってこないものもたくさんあった。多少汚れていたり、傷ついたりしていた。そんなことはたいして気にならなかった。ただもう一度思い切り走りたかった。でも走っても全然楽しくなかったし、上手く走るやり方が分からなくなっちゃった。私はけがが治って部に戻ると3年生は引退していた。なんだか急に物寂しい部になっていた。前に比べて活気もなかった。チームメイトからはこうなったのはお前が原因だというような嫌な目で見られた。もとから部活の一年生の輪に入っていなかったけど、今はすごくあからさまに敬遠されているみたいだった。クラスにも陸上部の子は多くて、クラスメイトはそういう彼女たちの態度を見て、同様に私に関わろうとしなくなった。
私は途端に人が怖くなった。私は部活をやめ、学校をしばらくの間休んだ。その間、岩屋さんはたまに私の家に来て、部活に戻ってきてほしいとか、まだあと二年もあるんだから一緒に頑張っていい成績を残そう、と言ってくれた。でもなんか疲れちゃって。学校行くのも部活も、考えること自体面倒くさくなって……。岩屋さんが家に来ても無視するようになった。今思えば、あの頃の私は最悪だったと思う。冬が始まる頃にはだんだん学校に行けるようになった。その頃には私に対して嫌な態度をとる人はいなくなっていた。皆の興味はもう私から移っていて、以前のような嫌なことはされなくなったけど、逆に私に関わろうとする人もいなくなってた。私も人と関わるのをやめた。別に丁度良かった。人と関わらない方が穏やかな生活が送れるから」
一度堰を切ったように話し始めた河井さんは、感情のままに当時のことを話してくれた。
その苦しそうな表情を見ていると、辛い思いをしてきたのだなといやでも伝わってくる。
「………………今まで隠していてごめんね。どう、私に幻滅した?」
河井さんはかすれた笑みを浮かべる。
「そんなことがあったなんて、今日僕は初めて聞いたよ。でも……。僕からみた河井はおとなしくて、穏やかで、話すと面白い。物事をよく考えていて、それを表に出さないように必死になっているけど、隠し切れていない。ちゃんと可愛いとこもあって、愛想もいい。全然幻滅するとこなんてないよ。河井は本当に人と関わらない方がいい、なんて心の底から思っているの?」
僕は静かな声で、でもはっきりとそう言った。
僕は彼女が自分に自信が持てるように、僕の言葉がまっすぐ届くように彼女の目の奥の方まで見つめる。
「えっ……。どうしてそんなことが言えるの?」
「僕から見た河井は別に嫌なやつじゃない。それに本読むのも書くのも好きなんでしょ? あのときの言葉は河井の本心だと僕は思う。そんなやつに嫌なやつはいない」
「それは本当の私を隠していただけなんだよ」
「本当の河井はちゃんと悩めるくらい優しいよ。河井はその嫌な自分から変わろうと努力した。そうでしょ?」
「そう…………だけど。私ってちゃんと変われているの? 私はいつ、また昔みたいに皆から嫌われるような私になっちゃうのが怖い。夏が来るって思って、ふとちょうど一年前の出来事が頭に浮かんで……。それから何度も頭から離れなかった。私は人と関わるのが怖い。私が失態をするのが怖い。それになにより私が嫌いな、私にいつの間にか戻っているのが怖い」
そう言って河井さんは泣いた。
僕は軽く背中をさすりながら静かに泣き止むのを待った。
高校生らしいなと思った。
悩んで怖くなって。大人の僕はいつの間にか他人嫌われるのも、自分が変わってしまうのもどうでもよくなっていたと気づく。
いろんな人との関わりがある高校生というものが、少し羨ましいなと今更ながらふと思った。
五分。十分。
十五分は経っただろう。
河井さんは赤く腫れた目を軽くこすって、ごめんと言った。
長く伸びた黒髪は所々はね、頬は濡れて赤く染まっている。
僕を見る瞳は自然と上目遣いになっていた。
そんな夕陽に佇む河井さんを見て、僕は不意に触れてはいけないような綺麗さと優しさを感じた。
「大丈夫。河井さんは変われているよ」
「なんでさんつけたの?」
河井さんは少し怒ったように言う。自分でも無意識なことだった。
「なんとなくだよ。前話してくれたみたいにそんなときこそ創作世界なんじゃないのか」
「それもそうだね。だけど今はとても書けそうにないかな。藤城君にはめちゃめちゃな脚本渡しちゃったし」
河井さんは少し後ろめたそうに不器用に笑って言った。
「そんなに、なの? 僕からしたら完成しただけでもすごいと思うけど」
「私、今はこんなふうだし、クラスにこれ以上迷惑かけるのも悪いかなって思って。無理矢理でも書いてみたんだけど、多分ぼろぼろだよ」
「気持ちが落ち着いたら創作は再開する?」
「どうしようかな。途中でやめるのは後味悪いし」
「それならさ、劇の脚本、書き直せばいいじゃん?」
「それはやめとく。本当にクラスにはたくさん迷惑をかけたし、藤城君の言うとおりにしようと思う。他の人の脚本にするなら私は別にかまわない。私が言うのもあれだけど、やっぱり既存の有名作をやった方がクラスとしても劇としても成功すると思う。一から作るのは見ている人がどう思ってくれるのか、ちゃんと伝わって理解してくれてるのか、書いていてすごく不安になるし、私には書ききれそうにないから」
「今日河井の家に来るまでは河井が急に変わってしまったんじゃないかって思えててさ。あんなに脚本に対してやる気とか情熱があるようだったのに最近学校に来ないから。でも変わってなかったよ、河井は。ちゃんと優しいし、全然嫌なやつじゃない。河井は皆から嫌われるような自分になるって言ってたけど、それは間違っている。だって多分、僕が河井を嫌うことなんてないから。僕も転校してきて友達もいなかったのに、すぐに河井と仲良くなれてすごく感謝してる。人と関わるのは怖いかもしれないけど、人と関わるからこそ自分の世界は広がるんだろ? 何かあれば僕は味方になるし、片山だってよく気にしてるし。クラスだって河井のことを受け入れてくれると思う。陸上部だってそうだよ。岩屋さんは河井が戻ってくるのを待っていると思う」
「でも岩屋さんは多分私のことを怒ってるよ」
「そうかもしれないけど。でもこんなことで岩屋さんと仲違いしたままだといつか後悔すると思う」
「そう…………だよね」
「僕は毎回学校に来ているわけじゃないけど、河井も色々落ち着いたら、学校においでよ。自分の居場所があって、一緒に同じことをする同年代の仲間がいる。そんなものは今だけかもしれないよ。家にいるより学校にいる方が一日は長いだろ?」
河井さんは静かに、時に頷きながら僕の言うことを聞いていた。
少し寂しそうな、悔いがありそうな、それでいて少し羨ましそうな顔で僕を見ていた。
「そうだよね。なんか明日は学校に行けそうな気がする。今日はありがとね。こんなに私の話をするつもりじゃなかったんだけど。やっぱり話を聞いてくれるだけで気分が良くなった気がする。なんかしゃちだからこんなに喋っちゃったっていうのもあると思う。先生からも色々と聞かれて自分のことをちゃんと喋ろうって思っても、上手く口に出せなかったもの。しゃちは凄いよ」
「僕なんて何もしてないよ。河井が勝手に気分良くなった気でいるだけ」
「勝手に、とは無責任だなあ。今後も何かあったらしゃちに相談するからね。っていうか私の事情をちゃんと知ってるのはしゃちだけだし」
そう言って涙で赤い頬のままふくれっ面をする。
あっそうだ、と言って河井さんは後ろのたんすの戸を開けた。
中には賞状やトロフィーが入っているようだった。
たくさんあった。
これ、もう一回飾ってもいいかな。
僕がどうしたものかと言いよどんていると、何か言ってよ。と笑いながら僕の肩を軽く小突き、中のトロフィーたちを取り出して部屋の隅に飾っていた。
僕にはトロフィーたちが色あせていないように見えた。
「これからまだ増える予定はあるの?」
「まあね。もう脚がなまっているかもだけど」
外はとっくに夕陽が沈み、その代わりに半月より少し丸みのある月が東の空から昇っていた。
「今日は急に押しかけてごめん。いろんな話聞けてよかったよ」
「こちらこそ、ありがと。そうだ、駅まで送るよ」
「それ男子の僕が言う台詞じゃない?」
「ええ、そう? 今、私外出て歩きたい気分なの。それに何かあったら私、走って逃げるから大丈夫」
「それ僕を置いていくってことじゃん。そこは二人で解決策を考えるでしょ」
「へへっ。そうだね」
家々の間を歩くと夕飯のいい匂いがした。
私、いつもは夕飯を親と一緒に食べているんだけど、両方とも帰ってくるのが遅いからいつもお腹すくんだよねと言って笑う。
駅までの間、最近起こった面白いことや発見したこと代わる代わる話した。
久しぶりだった。
少し会わないだけでお互いにいろんな体験をしていた。
夜道は電灯が余すところなく点り、空を覆っていた雲はいつの間にか跡形のなく消えていたが、電灯に明るく照らされて目に届く星は少なかった。
夜は世界が狭くなったように感じるね、と彼女は言った。
僕はそうだね、と答える。
夜になると悩み事なんてちっぽけなことのように思えた。
「しゃちも悩みがあったら相談してよ。私だけ悩みを聞いてもらって何か恥ずかしい」
そう言って笑った河井さんの頬は夜でも少し赤くなっているのが分かる。
目も少し腫れが残っている。でもその笑顔に曇りは一切無かった。
「悩みがあったらな」
こんな高校生の等身大の悩みを聞いたら、僕が一体何に悩んでいるのか分からなくなってくる。
悩みの方向が違うのだ。人に話すのは僕もやっぱり恥ずかしい。
それに僕の悩みは人と共有してよい類いのものではない気がする。
僕特有のもので、自分で答えを見つけるしかないものだ。
河井さんに、またね、と言って別れる。
晴れた夜空の下、駅までついてきてくれた彼女は僕に手を振ると背中を向けて、夜道を颯爽と駆け抜けていく。
その後ろ姿はやっぱり凜々しくて、その一歩一歩地面をしっかりと蹴る脚はとても力強かった。
もう僕の力は必要としていないように見えた。