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「河井さんと話がしたいのですが」
先生は突然の僕の訪問に少しだけ驚いた表情を見せる。
「河井さんが学校に来ていないことは古久根君も知っているよね。河井さんね、何か悩み事があるみたいで。しばらくは気持ちが落ち着くのを待ってもいいんじゃないかな」
「だからといって河井さんがいなければ劇の方向は一向にまとまらないですよ」
「今、河井さんが来てないことでクラスが困っていることは先生も知ってる。でもね、河井さんも今、苦しんでる。先生がその理由を聞こうと頑張っているけれど、電話越しで河井さんは毎回必ず言葉に詰まって、上手く話せないの。古久根君は三日に一度しか学校に来ていないから分かるとは思うけど、少しでも休んだりすると、その瞬間学校が急に馴染みのないところに感じちゃって、途端に学校に行くのが怖くなる。そういうのだと先生は思ってる」
先生はいつもの優しげな先生だったが、いつもに増してどことなく真剣だった。
「古久根君は何か心当たりがあるの?」
「河井さんが脚本を書くって決意したところをみているので。何か怖くなったことでもあるのなら、相談に乗れるかなって」
それを聞いて先生は黙って、少し考え込む。
それからメモ用紙を取り出して、何かを書き込む。
「そういうことなら、古久根くんを信じてみようかな」
そう言って手渡されたメモ用紙には住所が書かれていた。
「別に住所じゃなくて携帯番号で十分ですよ」
「せっかくなら会いに行ってあげて。学校って休んじゃうと、人と会いにくくなっちゃうから。それに私が引きこもっていた時も、直接会いに来てくれる人がいると嬉しかったから」
先生は少し熱く懇願する。
「そういうものなんですか?」
「そういうものなの。脚本の話も大事だけど、まずは学校に来れない理由を聞いてあげてほしいかな。それに休みがち仲間として、休み明けの学校に来られるようになるアドバイスをしてくれると先生も助かる」
学校休みがち仲間か。
なんて結束力の強そうな名称なんだろう。
河井さんはこれまでも何かに悩んでいたのかもしれなかったのだ。
僕は近くにいながら何も知らないことに少しだけ後悔する。
女の子の家を訪ねることになるなんて、二度目の高校生をやると聞かされたときに思いもしなかったし、今だって驚いている。
最近は驚きの連続だ。
こういう時は三日に一度の人生がすごく悔やまれる。
「古久根さー。河井と仲いいらしいじゃん。今、河井のために何かしてやろうってわけ? 悪いことは言わないけど、あいつに関わるのはやめときなよ。あいつは自己中心が過ぎるから」
河井さんの家に向かおうと、僕が昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
振り返るとクラスで僕の左隣に座っている岩屋葉月だった。
どうやら僕が職員室に向かうところを見られていたらしい。
岩屋さんの鋭い眼光がまっすぐに僕を射貫く。
力強い透き通った真っ黒な目だった。
長い黒髪を後ろ手一つに束ねている彼女は陸上部のエースだと聞いている。
自分の意見を臆せず言える強気な姿勢は男子だけでなく、女子からも人気がある人だった。
この人といると安心できるみたいな類いのものだろう。
昼休みによく近くに集まってくる女子たちの輪の中心にいるような人だった。
お弁当は片山と二人で食べている隣で、大人数で談笑しているから半ば別世界の住人のように僕は勝手に思っていた。
僕は今まで授業外ではほとんど話したことがなかった。
そんな彼女から話しかけられたことに結構びっくりしている。
「河井さんって自己中心なのか? 普段あんなにおとなしいのに」
僕はいたって平静を装って言う。
「古久根って去年ちょっと有名になったあの事件覚えてない? まあ、いまさら蒸し返すつもりはないけどさ。あいつおとなしいし、普段から一人でいることが多いから。仲間のためとかクラスのためなんて全く思ってないんだよ。今だってクラスを放っているわけだし」
やけに強い口調だった。
それだけ彼女にも何か思っていることがあるのだろうと分かる。
「岩屋さんって河井さんとどんな関係なの?」
僕はそこが気になって訊ねた。
「あいつ、元陸上部で、私は今も陸上部。去年の夏の大会での失敗以降全く部活にこなくなって……。張り合いのあるやつで一緒に頑張っていたのに。正に今と同じ。こんなことを繰り返すとはね。変わらないんだよ、あいつは。自己中心的で急に態度を変えて、また裏切るようなことをする」
「本当にクラスのためを思っていないのか、それとも何か事情があるのか。それを今から聞きに行ってくるよ」
片山や先生に頼まれてしまったからには僕はやるべきことをする。
「古久根が行くのを止めはしないけど、これだけは言っておく。河井は皆のことを考えるようなやつじゃない」
岩屋さんの澄んだ声が僕の芯まで響いた。
片山や河井さんと違って、僕が隣で見ていた岩屋さんは授業も真面目に受けるし、人からの相談を受けることも多い。
そんな彼女の言葉はある種の正しさがあるように感じたが、こればっかりは自分で判断したかった。
岩屋さんはまだ何か言いたげだったが、陸上部員らしき生徒から声をかけられて、そのままグラウンドに向かって走っていった。
僕はいつもと違う方向の電車に乗る。
二駅乗って物静かな駅で降りる。
駅から先生に教えてもらった通りに進んでいくとあっさりお目当ての家が見つかった。
青みがかった灰色の屋根が目印の二階建てで、金属の柵で囲われた中庭の先に屋根付きの駐車場がある。
車通りの少ない道路に面し、一軒家にしては敷地が広い。
駐車場に一台も車は止まっていない。
僕は少しだけインターホンを目の前に躊躇する。
一体なんて話せばいい。
河井さんの方が苦しいのなら、僕が些細な事情で躊躇することなんて何もないじゃないか。
そう思って僕はインターホンを押した。