第四話/01
戦わなければ生き残れない。
──その朝、古志護子は己が眼を疑った。
止める間も無く魔獣討伐の任務に駆り出され、帰宅するなり泥の様に眠ってしまった義娘……基、主人は今日一日ゆっくりと静養させようと決めていた、そんな矢先の出来事である。
朝食のメニューを考えながらダイニングへと降りた時、庭で動く影を見つけたのだ。
何事か──まさか宮簀媛を狙う不届き者かと、最悪の事態を想定して薄いカーテンと共に窓を開け放った護子の眼に飛び込んで来たのは、信じられない光景だったのだ。
「あ、護子さんおはよう」
「……何をしているの?」
「素振り。今日からよるに特訓付けて貰うから」
呆気からんと言ってのける鵠の手に握られているのは、紛れも無く草薙剣だ。
先の戦いにおいて剣の召喚方法……己が血によって呼び出すことを習得した鵠は、何と朝の素振りを日課に入れたのだと言う。
何しろ、昨夜イデアスに提示された戦闘訓練の条件──それは「よるに一撃を喰らわせる」ことだと云うから。
── 魔獣ならいざ知らず、並みの魔術師よりも戦闘能力が劣っているのでは俺が稽古を付けてやる以前の話だ ──
── 故に宮簀鵠よ、お前がよるに一撃を与える程度に成長できたのならば俺が面倒を見てやろう ──
── 魔力の使い方、肉体強化の魔術、基礎中の基礎から全てその体に叩き込め ──
── ああ、それと、人間の身体の使い方について俺が教えられることは何もない故、そのつもりでな ──
面倒見が良いのか悪いのか分からない第一号機の物言いに、ただ「分かった」としか返答できなかった鵠。
魔力の使い方も、魔術も未だどう扱えば良いのか分からない分野ではあるが、草薙剣を意のままに召喚できる様になったことは一歩前進だろう。
よるも態々付き合ってくれるのだから、自分にできることは何でもやっておこうと、故にこうして慣れない剣の素振りを始めたのだ。
──そんな主人のお転婆が過ぎる姿に、護子は言葉を失ってしまう。
宮簀媛とはあくまで神剣の守護者であり、自らその剣を手に戦いに赴くなど二千年の時の中でさえ目にしたこともなかった。
型破りな面もあるとは知っていたがまさかここまでとはと、最早脱力さえ感じながら、それでもなお気掛かりなのは鵠の体調である。
「こんなに早くから動いて大丈夫なの?疲れているんじゃない?」
「ううん、むしろ凄く元気。ちゃんと学校にも行けそう」
「……」
「護子さん?」
「何でもないわ、無理はしちゃ駄目よ?」
そう言い付けて朝食の用意へと向かった護子の背を見送った鵠は、ふと己の右腕を見下ろした。
──やはり、そこにあった筈の傷は跡形も無く消え去っている。
土蜘蛛の爪に引き裂かれた腕は、クルスが施してくれた治癒魔術のお陰で治りは早いと聞いていた。
しかし、幾らなんでもたった一夜でこんなにも綺麗に治るものなのだろうか?
クルスの腕が良いのか、それともリリンとしての力に目覚めたが故の治りの早さなのか、鵠には皆目見当も付かなかった。
……そんな時である。
何やら視線を感じて二階のテラスを見上げてみれば、そこでは不機嫌そうに眼を細めたアスラが鵠を見下ろしているではないか。
への字に曲げた口で物申したいことがあるのか問い質してみようかと、手招きをしたのが鵠の間違いであった。
テラスから身を乗り出したアスラが、そのまま庭へと飛び降り音も無く着地してしまったのだから。
「ア、アスラ!?何やってるの!」
「何って、鵠が「来い」って言ったんじゃないか」
「周りの目を気にして……!誰かに見られたらどうするの?」
ムーン・チャイルドの身体能力を鑑みれば二階から飛び降りるなど造作も無いことだろうが、問題は此処が住宅街のど真ん中と言うこと。
ただでさえその巨躯や美貌で目立つアスラが、先程の様にテラスから飛び降りる所や〝昨夜の様な移動手段〟を見られたらどうなることか。
よるや明貴曰く、リリンの存在や魔術は現代社会においては徹底的に隠匿しなければならないものだと言う。
これから先、神経を尖らせながら生きて行かなければならない鵠にとって、己の振る舞い一つ一つに無頓着なアスラは悩みの種となりそうな予感を齎したのだった。
「で?俺に何かご用命ですかマスター?」
「……言いたいことがあるのはアスラの方じゃないの?」
「……」
「どうして、そんなに〝これ〟が気に入らないの?」
アスラが機嫌を損ねたのは草薙剣を召喚した瞬間からだと、分からないほど鵠は鈍感ではない。
剣を「捨てろ」と要求したり、再び光の粒子となって鵠の中へと戻った瞬間から鵠を──否、〝鵠の中に眠る剣〟を仇が如く睨み付けていたり。
とにもかくにも、アスラが草薙剣を良く思っていないことだけは理解できたが、その理由までは推し量れない鵠は首を傾げて己が武器を見上げる。
「……鵠が戦えなくたって良いじゃないか」
「え?」
「俺がいるのに、そんな古臭い剣持ってる意味なんてあるの?」
その問いにぽかんと口を開いた鵠の顔の、何と間抜けなことだろうか。
考えもしなかったアスラの言葉にどう答えれば良いのか、そもそも何故アスラがその様な不満を覚えるのか、理解で追い付き答えを導き出すのに聊か時間が掛かってしまったのだ。
つまるところ、アスラは──
「鵠、朝食が出来たわよ」
「っ──!」
「……一応、ホムンクルスの分も用意はしたけれど」
「ア、アスラは食事はできるの?」
「出来るけど、鵠の魔力で十分に動けるから不必要だよ」
「じゃあ一緒に食べよう!そうしよう!」
「俺の話聞いてた?」
「食べられるなら食べた方が良いじゃない。護子さんのご飯美味しいんだから」
「『ニベルコル』じゃあるまいしなぁ……」
そう呟いた名は兄弟機の名だろうか、何処か面倒臭そうにしながらも鵠に続いてダイニングへ足を運んだアスラ。
……神話に語られる太古の魔獣、そして究極のホムンクルスが並ぶ食卓は、果たして他の魔術社会に精通するリリンの目にはどう映るのだろうか。
そんな益体もないことを考えながら朝食を──いつもより少し多めに──採った鵠は、いつもの様に制服のブレザーに袖を通す。
「じゃあ護子さん、アスラ、行って来るね」
「待って鵠、送らなきゃ──」
「もう土蜘蛛はいないから大丈夫だよ。学校には明貴もよるもいるし、それに……今は〝何かあったら〟アスラを呼べるから」
左手の薬指に輝く指輪を見せれば、仕方あるまいと言わんばかりに護子は小さく息を付く。
「鵠、〝がっこー〟って所に行くの?」
「そうだよ。アスラは留守番お願いね」
「……ふ~ん?」
またもや面白くなさそうに生返事をするアスラの、その胸中がイマイチ理解できない鵠は苦笑を浮かべつつ学生鞄を肩に背負う。
「学校が終わったらそのままよると特訓に行くから。晩ご飯までには帰ります」
「……気を付けるのよ?」
「……」
「は~い、行ってきます」
まるで何てことない日常の様に、護子と〝新しい家族〟に挨拶を済ませた鵠は玄関ポーチを出る。
先程まで太陽の陽射しを遮っていた雲は何処へと流れ行き、今は地上いっぱいに光を降り注がせていた。
──時折だが眩暈を起こしそうになる日光も、何故か今日ばかりは平然と浴びることができる。
あの激戦の一夜を超えた後とは思えない体調の軽快さに、自身でも疑問を懐きながら、それでも足取り軽く駅へと向かった。
束の間の日常かもしれないが、今日と云う日は平穏に過ごせるだろう。
……この時の鵠は、まだ呑気にそんなことを考えていたのだった。




