第漆話『物の怪と子供たち』
「仙……紫水? 大丈夫カ?」
仙人であることを隠していると知った手前、水虎は遠慮がちに紫水を見下ろし気遣った。
「ひぃっ、げっほげほ!! うっぷ……ええ、ごっほ……な、何とか、生きていますよ……」
息苦しいのは一瞬だったが、何しろ逞しい獣の腕がぐいぐいと引っ張り腹を圧迫していたのだ。
そのため弾みで鼻に水が入り、穴蔵に到着した紫水は盛大に噎せ返していた。
しばらくして多少鼻のつんとした感覚が薄れてきた紫水は、咳払いを一つしてから辺りを見渡す。
「はぁ……しかし、これは凄い。鍾乳洞ですか」
足元には石筍と呼ばれる刺々とした石が生えており、天井にも幾つもの鍾乳石が垂れ下がっていた。
その尖端から静かに一滴また一滴と滴る水音が木霊し、涼しさを通り越し肌寒い空間に、ある種の神聖さすら感じさせる。
「そういえば真っ暗ではありませんね?」
紫水は穴蔵というからには、すっかり暗闇なものだと思い込んでいた。
だが、そこそこ薄暗い程度で、意外なほどに視認性には困らないことに気づく。
それどころか、水面がきらきらと反射光を発し、鍾乳石にゆらゆらと波紋が写し出される様子が、余りに綺麗でもあった。
「天井ニ穴、有ル。木々オオッテル、ココ深イ。人ニ気ヅカレナイ」
たしかに、水虎の言う通り天井にぽっかりと穴が空いている箇所がある。
西日の木漏れ日が差し込むが、とにかく高い所に穴があるため、万が一発見しようが、あんなところから降りてみようとする人間はそうそういないだろう。
それも、大人一人入るのがやっとくらいな大きさしかないように見受けられる。
「よくよくみれば木だけではないですね。蔦……? でしょうか、穴に簾のように……」
そこまで言って、紫水は水虎の目を振り返り見た。
「ひょっとして、水車を絡めた術ですか?」
水虎はまるで悪いことをした子供がばれた時のように、肩を竦め顎を引く。
「下水、流レ悪クシタ。佑佑父、海ニ行クノ防グタメ。迷惑カケタ」
「やっぱり! あれはアナタだったのですね。立派な妖術です。何も恥じることはありませんよ。本当によく機転の利く方ですね」
怒られるかもしれないと思っていたのか、紫水の言葉を聞いた水虎は、安心したように、またあの不器用な笑い方を見せる。
「ねえ、そこに誰かいるの?」
「えっ、亀龍、誰か連れて来ちゃったの?!」
こちらの声が聞こえたのだろう。
様子を窺いに、奥からペタペタと小さな足音と声が二人分近寄る。
見れば杏花が佑信の腕を掴みながら、一緒に提灯を持って歩いて来るではないか。
全体を見た限り、二人とも目立った外傷などもない。
紫水の身体は深い安堵から力が抜けていく。
「ああ……良かった。本当に」
前へ進もうとした足が縺れ、よれけ倒れそうになった紫水を、隣にいた水虎が支え、杏花が慌てて駆け寄る。
「昨日のお兄さん!? 大丈夫?」
「いやはや、面目無い。探しに来た側がこのような体たらくでは格好が付きませんね」
引きこもりの身体を二日連続で歩き回らせたツケがここで来たのか、情けない事に膝が笑っていた。
「まあ、ビチョビチョ! 水の中を亀龍と来たのね? 風邪引いちゃう。こっちに来て」
見れば奥でパチパチと音を立てる小さな焚き火が灯っている。
天井に穴がなければ危険であっただろうが、丁度風通しが良い場所を子供たちなりに探したのだろう。
「杏杏、そいつ……誰?」
友好的で優しい杏花であったが、佑信までそうとは限らなかった。
何しろ父と共に殺されかけたのだ。
他人に警戒心を持つのは当然であろう。
「ああ、佑信くんですね? 私は紫水と言う者で、杏花さんのお蕎麦屋さんの客です。君の事は星鸞――大道芸のお兄さんから聞いていますよ」
紫水はなるだけまったりと落ち着いた雰囲気を出しつつ、自身の濡れた袖を絞り語りかけた。
「あの兄ちゃんの知り合い?」
「ええ、はい。昨日友人になったばかりですが、一緒のお宿に泊まっております。杏花さんのご親戚の民宿です。その節はお母上様に大変お世話になりまして……ふふっ、今は娘の貴女にもお世話になってしまっていますね」
座れそうな岩に案内し、濡れた上着を甲斐甲斐しく受け取る少女に、紫水は礼儀正しくお礼を述べると「気にしないでね」と、可愛い笑顔が返ってくる。
「ところで、子供たちには亀龍と呼ばれているのですね?」
皆各々に座れるところを見つけ、火を囲むように腰掛けたのを見計らい、紫水は水虎に声をかけた。話を振られた水虎は誇らしげに、だがやや照れ臭そうに頷いてみせる。
「俺がつけたんだ。亀みたいな甲羅つけてるし、鱗もあるから、龍ってつけたらカッコいいだろ?」
やや緊張が解けたのか、佑信は少年らしい理由を堂々と教えてくれる。
「それはそれは、良い名前ですね。逆なら龍亀という御目出度い霊獣になるではありませんか」
「……立派スギテ、ハズカシイ」
「いいじゃん、実際お前は凄いやつじゃないか」
「そうよ。アナタがいなかったら、佑佑兄が今頃いなかったのだと思うと、あたし本当に怖いわ。アナタは立派なのよ、亀龍」
紫水は火に当たりながらうんうんと三人の話を聞き、束の間ほのぼのとした気持ちになってしまっていたが、こんなところでのんびりしている暇はないと、姿勢を正す。
「杏花さん、私は貴女のお母上様に頼まれここに来ました。佑信くんは退っ引きならない事情とお察ししますが、貴女はなぜここに?」
はっとして少女は口許を抑え、口ごもったかと思えば、片方ほどけた髪を弄りもじもじとしてしまう。
「お母さん、怒るわよね。あたし、実は三、四日に一回くらい、亀龍におやつを上げに来ていたの。大人にバレちゃうと水虎は悪い生き物だって、追い出されちゃうかもでしょ? でもお友達でいたかったし……だから佑佑兄と一緒に、まだ暗いうちにこっそりここに来ていたの。大人が起きる時間にはいつも布団に戻っていたのよ? あっ、でもでも、いつもの待ち合わせに佑佑兄が来なかったから、今日は一人でここに来ちゃったけど……」
一生懸命に事の次第を説明しながら、どうかこの事は黙っていてくれないかと、幼い潤んだ瞳が訴えかけてくる。
どうやら夜中に部屋を抜け出す常習犯であったようだ。
子供が闇夜の、しかも山中を歩くなどと言語道断ではあるが、そうでもしないと水虎の安穏を脅かすやもしれぬと訴える内容も、確かにと頷ける。
そのため紫水も帰宅後の言い訳を、一緒に捻り出さねばならないかと内心苦笑った。
「俺が事件に巻き込まれたって話しちゃったから、心配していつもの時間に杏杏は戻らなかったんだ。俺は戻った方が良いって言ったんだぞ?」
「だって大好きな佑佑兄が困っているのにほっとけないよう」
二人の仲睦まじい様子に、まるで小さな恋人同士のように紫水には映り、その尊さに胸が打たれる。
だが、なぜかそれと同時に、とうとう腹の虫が辛抱ならずに情けない悲鳴を上げてしまった。
キュー……と響いた間の抜けた音に、子供たちの笑い声が鍾乳洞に響き渡る。
「……重ね重ね面目無く」
「兄ちゃん本当に格好つかないなぁ。芸人の兄ちゃんとは大違いだ!」
「うふふ、お兄さんごめんなさい。沢山探してくれたから、お腹空いちゃったのよね? 少ないけど、まだあるから、これどうぞ」
そう言いながら杏花は肩に掛けた風呂敷から、竹の皮の包みを取り出した。
それを開くと、なにやら味噌の良い香りが漂ってくる。
「これはなんとも、空腹な私にはあまりに惹かれる匂いがしますね。貰ってしまって良いのですか?」
「もちろん! これはね、お母さんが小腹空いた時用に焼いとく蕎麦がきに、こっそりお味噌を塗って来たの。軽く炙るととっても美味しいのよ」
「オレモ、ソレ、好キ」
「あら、亀龍は佑佑兄ともう食べたでしょ?」
「ム、残念」
どうにも場が和みがちだが、紫水は焼き蕎麦がきを棒に刺して焚き火で炙っている間に、佑信の顔つきを見つめた。
喜怒哀楽の反応は子供らしくはあるものの、ふと会話が途切れた瞬間に、やはり表情に影を落としている。
「佑信くん、大変心苦しいのですが、お父上様は……」
「ん、分かってるよ。悔しいけど、信じたくないけど、あんな様子じゃ生きてない事くらい分かるよ。母さんが最後、病気で死んだ時も、あんな感じで身体に力がまったくなくて、だらっとしてて――だから、父さんも死んだってことくらいは、分かってるんだ……」
少年の頬には微かに涙が乾いた白い筋が残っていた。
人の死というものを理解していると言葉で繰り返す事で、自身を無理に律しているのだろう。
あまりにも気の毒な事ではあるが、彼なりに懸命に事態に向き合おうとしている姿勢には、素直に舌を巻くしかない。
「君は頑張り屋さんですね。そんな君に報いるために、そしてお父上様の無念を少しでも晴らすために、私は是非お手伝いがしたいのです。お辛い事とは重々承知致しておりますが、どうか貴方の身に何があったのか、お聞かせくださいませんか?」
佑信は下げていた目線を紫水に向け、何やら一巡すると、手元を指差し「焦げるぞ」と指摘する。
はたと気づけば、蕎麦がきの味噌が良い具合に香ばしく焼き上がっていた。
「いまいち兄ちゃん頼りにならないんだけど、大丈夫か? まあ、あの芸人の兄ちゃんが後で手貸してくれるなら少しは……」
「これは手厳しい。仰る通り私はこの通りかもしれませんが、彼は今色々と調べて下さっている最中です。そこに貴方の証言が加われば確証が得られると言うもの。どうかよろしくお願いします。一言一句、逃さず彼にも伝えましょう」
少年の小さな手は、膝の上で閉じたり開いたりを繰り返していたが、やがてぐっと力強く握られた。
「じゃあ、頼むよ。あんな奴早く捕まえてくれ」
その言葉を皮切りに、佑信は自身に振りかかった災難を、順を追って語り出すのだった。
***
昨夜の事。
佑信は父の帰りを自宅で待っていた。
祭り準備の打ち上げで遅くなるとは聞いていたので、予め覚悟はしていたが、その覚悟よりも随分と帰りが遅い。
佑信は少々焦っていた。
「杏杏、今頃待ちぼうけしてるかな。それか、一人でもうあそこに行っちゃってるかも……」
今日は丁度二人で秘密の穴蔵へ行って、亀龍に会うと約束していた日だった。
いつもなら互いに親が寝静まったのを見計らい、こっそり食べ物をいくつか持って出かけるのだが、この様子では、杏花との約束が守れそうにない。
「どうしよう、待ち合わせ場所に行って、今日は無理そうって言おうかな? う~ん、でもその間に父さん帰ってきちゃったら困るし……」
佑信は悩んだ挙げ句、役職の大人はいつも大体お決まりの店で酒を飲んでいる事を思い出し、そちらに向かってみることにした。
もしすれ違いになっても、あまりに父が遅かったからだと言い訳も立つと思ったからだ。
幸い祭りの期間中は提灯が普段よりも多く、町の飲み屋街へ行くのに手ぶらでも何ら問題無かった。
「あの、すみません」
夜な夜な少年がひょっこりと居酒屋の厨房を覗き込んだので、調理担当も給仕も驚いてしまう。
「まあまあ、坊やこんな夜中に一人でどうしたんだい? お父さんか、お母さんは?」
店長だろうか、年配の人の良さそうなお爺さんが相手をしてくれた。
「父さんの帰りが遅いから迎えに来ちゃった」
「おや、そうなのかい。どんな人かな?」
「水色の巾の……」
「ああ! 水守のお子さんだったか。ちょっと待ってな」
こういった他人の反応を見ても、父は町の役に立っている有名人なのだと、自分事のように嬉しくなってしまう。
だが、そんな気持ちとは裏腹に、店内を一通り見て確認を終えたお爺さんは、申し訳なさそうに戻って来た。
「こりゃあ、入れ違いだな。帰りなさったようだ。坊や一人で帰れるかい?」
佑信は思わず「ええ……」と、あからさまに声を出しがっかりしてしまう。
お爺さんも「しゃあないさ」と励ましてくれ、一緒に帰るか提案してくれるが、佑信は一人で来たのだから一人で帰ると意地を張り、そのまま踵を返した。
――なんだよもう、上手く行かないなぁ。
すれ違いの場合も考えてはいたものの、出来たら大好きな父と一緒に帰りたかったのが本音である。
佑信はぷっくりと頬を膨らませたまま、帰路に転がる小石を蹴った。
「アッ、イタイ……」
「えっ?! 亀――」
「シィー、ヒミツ、ヒミツ!」
田畑用水路の暗がりから顔を出したのは、今頃は穴蔵でのんびり来るか来ないか分からない子供たちを、何となく待っているだけのはずの亀龍だった。
どうやら小石はたまたまこの生き物の頭頂部に当たってしまったらしい。
「な、何でこんなところに?」
最小限に声を抑えて尋ねれば、亀龍もまたこそこそと屈む佑信に耳打ちする。
「マツリ、気ニナッタ。チョットダケ見ルツモリダッタ。ソシタラ、見覚エアル人イタ」
「どんな人?」
「水色ノ巾、男。ヨク湧水見ニ来る」
「えっ、それうちの父さんだったりしない? どっちからどっちに行ったの?」
「佑佑父?」
水虎特有の獣の鋭い爪先は、確かに居酒屋の方向から路地裏を指差した。
それは家からは随分と方角が違うことに、佑信は首を傾げる。
「モウ一人、大男イタ。剣、持ッテタ。兵隊? 知リ合イカ?」
「いや、わかんないよ。とにかく見に行ってみよう。亀龍は……水路が続いているとこ上手く渡ってついて来て」
「ワカッタ」
裏路地に入って暫く行くと、川端の水槽が幾つか並んでいる住宅地に出る。
「居ないなぁ……」
住民は大概が既に就寝しているため、家々の明かりは消え、飲み屋街と比べると随分暗かった。
亀龍はその暗さに乗じて小川へささっと移動し、また水の中に隠れる。
しかし、そこに来てフンフンと尖った鼻先を水面に出し、何やらよく嗅ぐ動作をした。
「コノ水、サッキノニオイ? 佑佑父……カ?」
流石水虎、やはり物の怪と言われるだけはある。
小川に沿って泳ぎ出した亀龍は、音もなくすうっと進んで行ってしまうのだ。
「まっ、待てよ!」
小声で呼びかけ、早足に今度は佑信がついて行くと、其処は小さな寺院であった。
「こ、ここ?」
「ウウン、コノ裏」
しかし亀龍が指差した方向は、寺院所有の川端の水槽から流れる水路に枝分かれしており、亀龍が泳いで行くにはやや狭かった。
「裏だな……よし、俺見てくる」
「気ヲツケテ、何ダカ尻尾ノアタリ、ビリビリスル」
嫌な予感――と、言いたかったのだろうか。
佑信は半ば亀龍の言葉を無視するように、寺院境内の裏手へと歩を進めた。
すると、何やら妙な水の跳ねる音が聞こえてくる。
――なんだろう?
ザブンと何かを水面に叩きつける音に、何度かゴボゴボと不穏な泡の音が混じっていたが、その二種類の音に近づくにつれ、後者の音が消えて無くなった。
「……え?」
佑信の口から思わず漏れた声に、大きな体躯の男がぎろりとこちらを睨んでくる。
男の足元には、ぐったりとしてぴくりとも動かない、紛うことなき佑信少年の父親がいた。
「おじさん……何、してるの? 父さんは――」
「佑佑、ダメ!!」
瞬時に腰の剣を抜いた大男は形振り構わぬ様子で、佑信の肩口目掛けて凶器を振り下ろす。
しかし寸前、水虎の強靭な腕がそれを阻んだ。
「なっ、バ、バケモノだと?!」
「グルルル……ッ!」
佑信は初めて友人である水虎の獣らしい唸り声を聞いた。
だが、其よりも視線は倒れ伏す父に釘付けであった。
「い、嫌だ……父さん、何で? 動いて、ねぇっ!?」
呼び掛けも虚しく、父は青白い口元から水を伝らせ、完全に白目を剥いてしまっている。
「ぐっ、このぉお!!」
「ガァアアアッ!!」
父に駆け寄ってしまった佑信の背を再び大男は剣で狙うが、亀龍の渾身の力で、太い刀身がぐにゃりと曲がりくねる。
瞬間、振り返った佑信の目の前に、友人の手から血が降り注いだ。
「あ……あ、や、やだ……」
がくがくと震え、思考が停止してしまった佑信を助けるべく、亀龍はとにかく一心不乱に奮戦した。
激しく揉み合った後、何とか大男を剣ごと横倒しにすることに成功し、その隙を逃さず、佑信を抱え、小川へと走り飛び込んだ。
水にさえ浸かってしまえば、とにかく後は早い。
人間には到底追えぬ速度で、海に接している河口へ向かい、佑信をすぐ近くの入り江の隅へ座らせてやった。
「大丈夫、佑佑? 苦シイ? 寒イ? イタイ?」
水の中を移動する際、顔だけは水面から出るように運んでは来たが、佑信の酷く白くなった顔に、亀龍の不安が募る。
「……亀龍」
「ウン?」
「父さん……死んじゃった。殺されちゃった……なんで? どうして?!」
「佑佑……」
亀龍はどう答えて良いものなのか分からず、唯々佑信と共に項垂れ「ゴメンナサイ」と一言、ぽつりと呟いた。
「――っ、なんで……なんでお前が謝るんだよぉお……っ!!」
佑信は亀龍の顔を頭ごと抱きすくめ、震え裏返る声で慟哭するのだった。