第肆話『水路の怪異』
あれから眠れる訳もなく、紫水は一度椅子に座り、これからどうするべきか思案する。
――明らかに人間以外の者が来た形跡がある以上、あまり目立って騒ぎ立てるのも得策ではないでしょうね。一般の方々は殆ど、そういったものに耐性や真実味を受けないでしょうし、何とか私一人で先程の声の主の目的を探らねば……。
けれどもと、紫水は頭を掻いた。足跡型の水溜まりは拭けば証拠は残らないが、問題は窓枠についた爪痕である。
「野良猫が……などというには流石に無理がありますよねぇ」
ほとほと言い逃れ作りに困り果てながら、宿の従業員が入れて置いてくれた、湯冷まし入りの水差しを傾ける。
湯呑みに注ぎ、口をつけた途端、紫水はその水の異様な味に気づいて思わず吐き出した。
「うっ、ごほごほ! こ、これは……」
味……と、紫水には感じたが、ざらりとしたようなその違和感の正体は、おそらく常人には分からぬ程の変化である。
紫水が地上に遣わされた天上人だからこそ、五感以外の器官に触れたのだ。
鳥肌すら立つその感覚が知らせるもの、それは――。
――死者の、気配……。
ぞっとさらに広く背中が粟立った。
死者が何らかの形で触れたものを、ここの町人たちは何も知らずに口にしている事実に、生々しい程の戦慄を覚える。
しかし、ただそれだけで物事に蓋をしてしまっては、常人と幾ばくも変わりはしまい。
この特殊な感覚を持って気づいてしまった己の責任を果たすため、紫水は極めて冷静に努め記憶を浚う。
――先程の物の怪の仕業……に、してはこの感覚、妖気というには人の情念を強く感じます。飲料用水路に何かあったのでしょうか? けれども午後にお茶などをした際は、全くこんな感覚はいたしませんでしたね。
ともなれば、感覚に頼れる事もごく僅かである事から、後は自ら調査あるのみである。
紫水はため息混じりに下足置きの敷物で床の足跡を拭き、それを乾かしている体で、窓枠に敷物を掛けた。
一先ず爪痕を隠すにはこれくらいの事しか出来ないため、後は野となれ山となれである。
「見つかって弁償をとなった折りには、いよいよ私も何か芸を考えねばなりますまい……と、言ったところでしょうか。まったく、困りましたねぇ」
肩を落としながら着替えを済ませ、貴重品だけを持って部屋の鍵を外から閉めた紫水は、ぴしゃりと一つ両手で頬を叩くと、少々足早に部屋を後にした。
先ずはこの宿の飲料用水路を確認しに行く事にしたのだ。
人工の小川が家々の間に流れており、そこと隣接する川端の水槽が、三段並んでいる。
石作りのそれは、上段、中段、下段に別れており、下段は最後に小川に水を流していることから、上段が飲み水として使われているようである。
山から湧き出た水を濾過させながら、このような水道設備に管で送り届けているらしい。
そのような水道拠点が、大体民家十件に一つ程の割合で並んでいた。
「これだけ供給出来るとは、山に水源が豊富な証拠ですが……」
暁の空の下、しんと静まり返った町には、さあさあと水が流れる音と、遠くでは水車の回る音が聞こえてくる。
こんなことでの外出でなければ、その風流な町並みを丁寧に観光するのも大変結構であったのだろうが、今は当然それどころではない。
紫水はこそこそと宿が使っている水道拠点とは別の、周辺にある川端の設備もいくつか順繰りに探るが、やはりどこもあの死者の気配が漂っていた。
――山からの長い濾過を経ているわけですから、死者の触れているものが湧き水の貯水池であっても、人体に影響はないでしょうが……。
確かに山の貯水池であるから、自然生物の遺体などが落ちてしまう事もあるだろう。
そういったものは大概池の底に落ち沈殿するか、浮いているなら水守が処理をするのだから、日常で町人が気にすることはないはずだ。
しかし、明らかに人間の死者の思念である以上、黙っていれば誰も困らないという話ではない。
――もしも私がその遺骸の遺族でしたら、ちゃんと弔いをしたいと考えますでしょうし、行方不明ならば事の顛末を知りたいと思うに違いありません。
しかし行方不明の人相書きや、捜索願いの貼り紙がないか、鎮衛所へは後程確認するとして、今はとにかく山の水源を目指すべきだろう。
感覚だけでは周囲に説明などつかぬのだから、先ずは実際のところを確認すべきだ。
紫水は昨日の水車小屋方面へと足を向けた。
「はあ、やれやれ。昨日は祭りで高揚していたせいで忘れかけていましたが、元来引きこもりで病弱だったこの体に、歩いてばかりいるのは少々堪えますね」
体力をつけねばいけないとぼやきながら、紫水はようやく棚田を目視出来るほどの距離にまで来た。空は朝ぼらけ。
農民や朝早い職のものは、しっかりと起きている頃である。
「うおっ?! なんだこれ?」
突如野太い大きな独り言が聞こえた。
「おや? あの方は昨日の……」
見覚えのある人物は、棚田の水車とは別の、揚水式の水車前で頭を掻いていた。
「もし、確か昨日のお馬の持ち主様ですよね?」
「んん? ああ、あんたは昨日の! いやぁ、あの時は迷惑かけたなぁ」
暴れた馬の持ち主である農家の男は、困り顔のまま紫水へ頭を軽く会釈するように下げる。
「いえいえ、それよりも大きな声を出されて、一体どうしたのですか?」
「いやぁ、どうも何も……」
目の前を見てくれと男が指差す水車は、なんと完全に水草や蔦でもって下が雁字搦めになっており、一切機能していないではないか。
これには紫水も「おや、まあ」と声を出した。
「これは何とも……普段はこんなことになるほど放置している訳ではないのですよね?」
「ああ、そうさ。この水車は下水の流れを良くするための給水用なんだがな? 俺の家ら辺は比較的山に近いが割に平坦で、便所の流れなんかが悪くなりがちなんだ。こいつが動いていれば問題なかったんだが、見に来てみればこの有り様よ」
話を聞いて、紫水は顎に触れながら考えた。
――つまりこの要所を抜ければ下水の流れは本来大変良いわけですね。水を足している場合より、今は下の町の下水処理能力も衰えているのでしょうか?
次に絡まっている水草と蔦に注目する。
「普段この水車はこんな風になりがち……というわけではないのですね?」
「そりゃあそうさ。水守の旦那もよくこのあたりは見て下さるから、定期的にゴミも綺麗に濾し取ってくれているんだ。大体、ちょっとばかり掃除をサボったからって、こうはならねぇよ。恐らく誰かのいたずらだな。自分だって困るだろうに、訳の分からねぇヤツがいたもんだ」
いたずらにしては手が込んでいると、紫水は眉を寄せる。
何しろ水に浸かった水車の羽に、ぐるぐると水中から巻き付いているのだ。
農家の男を無駄に怖がらせてしまうので、あえて紫水は黙っていたが、水草はどうにも川底から生えているように見え、とても数日で育ったような大きさではない。
――水中……部屋の足跡、同一のものの仕業のような気がして仕方がありませんね。微かにこの水草からは、妖気が漂っている気がしますし……。
一体何のためにと疑問は尽きないが、一先ずこれでは農家の男だけならず、周辺の人々が困るだろうと、紫水は水草と蔦を取るのを手伝う事にした。
しばらく鍬や鋤などの農工具を借り、引っ掻けてはちぎり退けという作業を繰り返す。
そのようなことをしている間に、周囲ははっきりと日が昇りきり、ようやくあって水車が回り始める。
自身の役割を再開した水車に、農家の男はすっかり喜んだ。
「いやぁ、助かった! ありがとさんよ。お礼に朝飯食って行ったらいい」
確かに暗いうちから歩き通しな上に肉体労働で、紫水の腹は素直にくうと鳴ってしまう。
しかし早いところ貯水池へ行きたい気持ちも強く「ありがたい申し出なのですが……」と、断る素振りを見せたあたりで、何やら下の町がにわかに騒がしくなってきた事に気づく。
すると、何やらその方向からどたどたと誰かが大股で息を切らしながら、早足で近づいてくるのが見えた。
「ちょいとぉ! なあ、ちょいと! あんたたち~!」
「な……っ?! 蕎麦屋の!」
紫水は仰天して蕎麦屋の女将に走り寄って歩みを止める。
「まあまあ、なんという無茶を……そのお体で走って転んだら、一大事ではありませんか!」
妊娠中の彼女のぜえぜえと上下する背を撫でながら、紫水は農家の男に椅子を持ってくるように頼んだ。
男も大慌てで、普段自分が休憩用に使っている、簡易な一人掛けの椅子を用意する。
「女将さんがいくら丈夫でもあんまり無茶はいけねぇよ。長椅子なら昨日の内に業者に頼んだからよお」
「ち、違う違う! そんな話じゃないんだよ」
座っても尚、肩で息をしている女将を、男二人で気遣う。
飲み物を用意したり、冷やした手拭いを額に乗せてやりなどしながら、途切れ途切れに事情を説明する女将の言葉に耳を傾けた。
「ふぅ……まず、ええと、とにかくね? 私の娘の……杏花って言うんだけど、ああ、本当に……どこにいっちまったんだか。本当に早くから居なかったみたいで……私たち親が寝ている間に……で、あんたらも何か知らないかと思って……探してて……」
ばらばらになりがちな文脈を察し要約すると、娘が朝寝床にはおらず、周囲を探して歩いたが知っている人も見当たらないので、僅かな期待をかけ、紫水たちにも捜索を手伝ってくれるよう願いに来たのだということが分かる。
「分かりました。必ず協力いたしますから、どうか落ち着いて。きっと大丈夫ですよ。聡いお嬢さんではありませんか」
落ち着けるよう、紫水は座っている相手に目線を合わせ、両手を優しく握ってやりながら励ました。
「そりゃあ自慢の娘だよ? ただね、あんまりなことが今朝あってさあ……それもあって、余計に心配なんだよ……」
「あんまりなこと?」
「ああ、よりによって汚いドブにね。倒れていたんだそうなんだよ。優しくて親切だったのに……娘にもよく挨拶してくれてね。水守の――」
そこまで聞いて、思わず紫水は「えっ!」と声を上げ身を強ばらせた。
「お亡くなりに……なっていたのですか?」
「ああ、そのまま海にでも流れちまっていたら気付きもされなかったんだろうが、今日は排水の勢いが悪くてね。肥取り屋が蓋を開けて詰まり具合を点検したら……そん時にゃあもう……」
その話を一緒に聞いていた農家の男もがっくりとした様子で、しかし首を傾げながら疑問を投げかける。
「そりゃあ、気の毒になぁ……足でもすべらせて、打ち所が悪かったんだろうか? しかし蓋はしっかり被さっていたんだろう?」
「そうなんだよ。だから余計に問題さ。殺されたんじゃないかって、今皆噂はそれで持ちきりだよ」
事故死であるなら、滑り落ちてから蓋が閉まるなどという偶然はなかなか起こらないだろう。
何者かに殺され、隠すために蓋を閉じたとするのが自然である。
つまり、未だ殺人犯がうろついている可能性が十二分にあるのだ。
そんな中、娘が行方知れずともなれば、母が輪を掛けて心配するのは至極当然であろう。
「なるほど、状況は理解しました。しかし心配ばかりしていてはお体に触ります。私がお宅まで送りますから、今日はお店も閉めて、安静に過ごしてください。旦那様はいらっしゃいますか?」
女将は深いため息と共に、ゆっくりと首を振った。
「あの人も娘を探しに行っているから、当然家には居ないよ」
「では、なるべく頼りになる方に側にいてもらって下さい。察するに、臨月に近いのでは?」
紫水の言葉にはっとして、彼女は母として、今の最善は何かを悟り頷く。
「ああ、そうだね……そうだとも。悪いけど、あんたを頼りにさせてもらってもいいかい?」
「ええ、勿論。中途半端なことは決していたしません。お約束いたします」
すると、農家の男が何かを思いついたのか「ちょっと待っててくんな!」と二人を引き留め、小走りに牛舎へ向かった。
「これなら女将さんを運べるだろ?」
そう言いながらぽんぽんと一頭の牛の背中を撫で、引いてきたのは、普段は作物や薪を積むための簡素な牛車であった。
「まあ、ありがたいです! これなら楽な姿勢をとっていただけますね」
「俺が牛を引くから、あんたは荷台に女将さんと乗って支えてやってくれ」
しかし、当の女将はそれを見て、何やらじっとりとした目付きで男を睨む。
「……今度は暴れ牛なんてのはごめんだよ?」
「なっ?! こいつめは大丈夫だって!」
その慌てぶりに、女将は冗談だと笑う。そのやり取りを見て、紫水は思った。
――ああ、母は強しですね。
だが、同時に無理をしているのも伝わる。
早くこの女性には安心して過ごして欲しい。
そして、元気な赤ん坊と無事対面し、その時には当然、娘には隣で一緒に喜んでいて欲しい……そう願わずにはいられなかった。
紫水たちが蕎麦屋に到着し、裏手にある住居側に女将を支えながら移動する。
そんな折、部屋の寝台へ横にしてやろうとしていると、家の玄関扉が叩かれた。
「紫水っ! 居るか?!」
その良く通る声は星鸞である。
「はいはい、居ますよ。どうしてここが?」
玄関まで急いで行って出ると、青年の顔は何処か渋い。
「……隣の部屋なのに、黙っていなくなるのはどうなんだ?」
紫水は一瞬きょとんとしてしまう。
目の前にいるのは、昨日暴れ馬をたちどころに制止させ、見事な剣舞を披露した、絵に描いたような男前であるはずだ。
けれども、今は差し詰め、単に拗ねた年下の男の子のようである。
「ええと、すみません。まだ大体の人々がお休みになっているような時間帯に目が覚めてしまいまして、ちょっとの散歩のつもりでしたので、わざわざ起こすのを躊躇ってしまい結局……はい」
うまく誤魔化せただろうかと、上目遣いにちらりと相手の顔を窺えば、かなり大袈裟に溜め息をつかれてしまった。
「本っ当に、見た目とはちぐはぐなくそじじいめ! 今の状況分かっているか? 殺しが疑われる死体が上がって、さらに子供が"二人"も居なくなっている状況なんだぞ?! お前まで居ないとなったらこっちがどう思うかくらい想像して――」
「ち、ちょっと待ってください!? 今、子供が二人と、そう仰いましたか?」
紫水の仰天ぶりに、逆に冷静さを取り戻した星鸞は、一呼吸置いてはっきりと頷く。
「ここにいるって事は、杏花の事は当然聞いているだろう? もう一人は小佑……佑信だ」
「そんな……」
口許を抑え、脳裏には表情豊かに溌剌とした様子の佑信少年を思い起こす。
いたいけな少年少女が共に消えるなど、常日頃からあってはならない事態だというのに、よりによって死人の出た日に重なるとは。
戦慄きそうになる唇を、どうにか隠れて噛み締めた。
そんな様子の紫水に追い討ちをかけるべきか星鸞は少しいい淀みかけるが、目をきっと吊り上げ口を開く。
彼もまた、この事態を重く、何よりも許しがたいと考えているに違いないのだ。
「紫水、俺は佑信が今一番危ないと思っている」
「なんですって?」
「死んだ者の顔を見た。あれは間違いなく昨日の酒場で見かけた水守本人に違いない。そして、予想が当たらなければ良かったと思うが……」
星鸞はどすの聞いた声音で告げた。
「近所に聞いてみて分かった。間違いない。死んだ水守は――佑信の父親だ」
衝撃的な事実に、軽い目眩を覚える。
つまり、星鸞が危惧している予想はこうだ。
まず、父親が何者かに殺された。
そして現状、その息子の佑信が行方不明である。
つまり、何らかの形で佑信が、犯人と接触しているのではないかというのだ。
確かに、あの少年ならば、自慢の父親を殺された事に憤り、無茶な行動に出てしまうのではという想像は容易に出来る。
そうなれば、次に起こり得るのは犯人による無慈悲な口封じである。
翌日の朝には佑信少年の亡骸が、父と同じくドブに浮いているか、さもなければ、人知れず海へ捨てられてしまうかも知れない。
「考えたくはありませんが、その線も心に留めて捜索しなければなりませんね。星鸞殿は馬を走らせ、港周辺に怪しい人物がいないか、または何か浮いていたりしないか、入念に視野を広げるよう、漁師たちなどに声掛けをお願いします」
「ああ、承知した」
「ちなみに、佑信のお母上様は?」
「いや、佑信のうちは父子家庭だそうだ」
それでは余計に危うい状態である。
なにしろ杏花のように、必死に探してくれる親すらまともに居ないということなのだから。
そうなると、町の治安を担う亭長とその徒、または軍属の捕吏などは、行方不明の男児一人より、殺人犯を捕り抑える事だけに注力するだろう。
そのような思案と共に、紫水はあの少年の父親へ寄せる信頼や憧れは、いかほどであったものかと、胸の内に思いがよぎる。
きっと親子二人きりで互いを支え合って生きてきたのであろうが、そんな上っ面の想像などで計り知れない喪失があったに違いない。
「星鸞殿、もう一つどうかお願いがあります」
「ああ、聞こう」
「必ず犯人を食い止めましょう。それには二手に分かれて調査と捜索を進める必要があります。私は山奥に子供たちが居ないか探してみますので、貴方は港から戻ったら町中を引き続き聞き込んでください。どんな些細な噂話でも構いません。過去の事件性がありそうな出来事も見逃さないで頂きたいのです――そうですね、例えば過去にも行方不明者がいたかどうか……などですね」
犯人の手がかりと、子供たちの発見、両面を網羅しようという紫水の提案に、星鸞はにっと口角を上げて挑戦的な表情を浮かべた。
「二兎を追うものは、一兎をも得ずとは言うが、俺もその提案に賛成だ。小佑には是非とも、俺の芸の種明かしをしてもらわんといかんからな。無事でいてくれなくては困る」
「それでは、決まりですね」
「ああ、山道に危険は付き物だ。注意を怠るなよ」
こうして二人は其々の行動を開始するのだった。