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第参話『爪痕』

 面倒見の良い蕎麦屋の女将に渡された簡単な地図を片手に、紫水は紹介された宿の玄関口にぽかんとつっ立っていた。


「う、う~ん? 私の聞き間違いでなければ、確か民宿と言っていた気がしますが……」


 紫水が困惑するのも無理はない。

 安価であれば助かると話したのだから、流れとして民宿ともなれば、質素で部屋数も少ない、例えとしては失礼かもしれなかったが、よくある民家に毛が生えた程度を想定していたのだ。

 だが、こうして到着してみれば、町一番と言っても過言ではない程の、立派な三階建ての豪邸である。

 その玄関と来たら、大の大人が一〇人は余裕で寝そべることが出来そうな程に広い。

 内装は赤墨色の格子に合わせ落ち着いた統一感があり、受付に飾られた花瓶にも宿の主人の細やかな気配りが感じられる。


「なんだ、まあまあな民宿だな。ついてるじゃないか」


 何となく横並びにここまで一緒に来てくれた星鸞は、特に驚く様子もなく中を見渡してこざっぱりとした感想を溢す。

 何なら「これのどこに文句があるのだ?」などと口走りそうな面である。


 ――ええと、私の民宿に対する想像が間違っているのでしょうか? それともこの国の民宿はこれが標準だったり……?


 一瞬そう思い込みそうになるが、蕎麦屋の辺りにあった民家は非常に質素で、土作りが剥き出しになっている壁のものも多かったように思う。


「あのぅ、どうも私の希望とは違って、些か値が張りそうな予感のする佇まいなのですが……」

「お前、金がないのか?」


 何も包み隠さない問いかけに、一国を背負う将の息子としては、些か腑に落ちないような微妙な気持ちが浮かび上がってくる。

 だが、間諜というお役目を授かっている以上、本来の生まれを悟られぬよう、やや相手の下手に振る舞うのが吉であろう。


「いえね、旅に出るのに無一文というわけではないのですよ? ただ長旅の予定ではあるので、節約出来るところはなるだけ節約に徹したいと申しますか……」

「なんだ、そんなことか」


 星鸞は口角を片方だけつり上げる形で、不敵な笑みを浮かべると、さっと玄関から出ていってしまう。


「お客様?」


 不意に後ろから宿の従業員に声をかけられ、紫水はあたふたと何度か玄関の外と内側を見比べた挙げ句「先程知り合った友人の様子を見てきますので、少々時間を置いてまた来ます!」と、自身も星鸞と同じく外へそそくさと出て来てしまった。


「星鸞殿~?」


 情けない声で呼びかけながら、相手の姿をきょろきょろと見渡せば、ひらりと角を曲がって大通りに向かった縹色の裾に見覚えがある。

 見失わないうちに慌てて追いかけると、不意によく響く指笛の音が鼓膜を震わせた。


「寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 俺は天下の旅芸人――」


 慣れた様子で口上を述べる星鸞の姿に、意表を突かれ棒立ちしていると、その溌剌とした声とただでさえ目立つ容姿にか、ちらほらと周囲の視線が集まっていく。


「兄ちゃんなに見せてくれんの?」


 一番に寄って来たのは子供たちで、先ずはほんの試しにと、袖から取り出した飴玉を見せる。


「これがどうなるかよおく見てな」


 すると、ひょいひょいと両手の中に飴玉を行き来させつつ、背中に回したり時折投げてみたりと、一つの飴玉が忙しなく動き回る。

 子供たちは星鸞を輪になり取り囲みながら、真剣に観察しており、その様子を見に来た大人たちも、手捌きの見事な素早さに惹き付けられていた。


「さあ、どっちだ? 当てられたらあげるぞ」


 にっと歯を見せる姿は、まるで悪戯っ子のように無邪気で、子供同士が遊んでいるような和やかな錯覚が起こる。

 やがて考え抜いた子供たちの中からバラバラと声が上がり始め「右手!」と、一際は大きく元気な声に注目が集まる。


「お、じゃあそこの坊主、ちょっと前に来てみろ」

「坊主じゃないやいっ! 俺は水守の息子で佑信(ゆうしん)ってんだぞ!」

「はははっ、じゃあ小生意気な小佑(シャオユウ)、手を出してみな?」


 佑信と名乗った男の子は、他の農家の子たちよりも体格が良く、服装もそこまで汚れて等いない、どうやら中流家庭の子らしかった。


 ――水守と言うことは、彼の父上は下級役人辺りのはず……けれども蕎麦屋の女将が説明していたように、この町の水源には大琰王時代からの誇りがあるのでしょうね。


 皆の生活を守る職業の父親が大好きな少年なのだなと、紫水はいつの間にか子供たちを取り巻く大人たちの隙間に交じりほっこりとした気持ちになる。


「あっ、あれ?!」


 そんな佑信からひっくり返った声が上がる。

 星鸞の右手が小さな掌の上でぱっと開くが、何も落ちては来なかったのだ。


「残念! 外れだな」

「えぇ……おかしいなぁ、しっかり見てたのに左かぁ」

「さぁて、それはどうかな?」


 そう言うと、少し勿体ぶるような手つきで、星鸞は左手の指を順にゆっくりと開いて見せた。


「ああっ! こっちもなぁい!」

「ひっでぇ、イカサマじゃん!」


 子供たちから野次が飛び交うのを、笑顔で「まあまあ」と、静粛にするよう手の素振りで伝えると、徐に右手で輪を作り、そこにふっと息を吹き入れる動作をして見せる。


「小佑、袖の中を見てみな?」

「えっ……うそ」


 ごそごそと長袖のたわんだ部分をまさぐると、そこには間違いなく、先ほどの飴玉が入っていた。


「ふふん、そいつはお前が選んだ右手から出たわけだから、約束通りやるよ」


 佑信は当然飴を貰える嬉しさよりも、こんなところに物が入った感覚などまるでなかったことへの驚きの方が勝っていた。


「す、すげぇ……な、なぁ、兄ちゃんもっかい! もっかいやって!」

「母ちゃん、おひねりあげても良い? 私ももう一回観たい!」


 子供たちのはしゃいだ歓声に混じって、女の子にねだられた母親が、やれやれという顔つきになる。


「よしなさい、あんなのただの子供騙しだよ。飴玉より高いお金なんか払えるもんかね。大体良く見なさい、腰に剣を提げているじゃないか。なんだってあの派手な髪色! 旅芸人というより、どっかの危ない流れ者だよきっと」


 そうだそうだとちらほら頷く大人たちに、子供たちの盛り上りが消沈しかけた時、星鸞の朗々とした声が響いた。


「さあて、さあて! ここからがお立ち会い。この腰に提げた剣は飾りじゃあない。先程まではほんのお遊び。本職を観たいやつぁ寄っといでぇ、見ておいで!」


 その声ににわかに大人たちがざわつく。


「ほら、やっぱり危ないじゃないか。振り回した剣に当たりでもしたら大変だ。離れなさい」


 そんな声が聞こえてくるが、星鸞は構わずさらに続ける。


「此より魅せるは風陣の剣による胡蝶の演舞。我が斬るは人にあらじ、風の道なり」


 剣を鞘から静かに抜くと、不思議なことに辺りから涼しい風がふわりと星鸞に向かい、纏わりつくような円を描き始める。


 ――これは……。


 紫水はすんっと鼻を鳴らす。

 舞い込んだ風から微かに花のような香りがしたのだ。

 その甘めの芳香に誘われるように、なぜか祭りで使われていた紙吹雪が舞い上がり、星鸞のゆったりと優雅な剣舞の回転に合わさって空中で揺れ動く。

 しばらく狐につままれたような顔をして見守っていた大人も子供も、次の瞬間に息を飲む。

 星鸞がさっと一太刀空へ向かって切っ先を掲げる動きをすると、それまで漂っていた紙片たちが、徐々に数枚ずつ寄り集まり、姿を色とりどりの蝶の形に変化させたのだ。

 それも、まるで意思を持ったように、紙で出来た羽をひらひらと動かしているように見えるではないか。


「どうなってるんだこりゃあ……」

「綺麗……」


 気づけば老若男女関係なく、星鸞の剣舞は辺りを魅了していた。

 紫水はというと、周りとさほど変わらぬ驚きの表情ではあったが、明らかに剣舞の起こす風に乗る蝶たちを見て、一人納得もしていた。


 ――やはり、これは仙術の一種! 只者ではないとは思っていましたが、まさかこんな事まで出来るとは……是非とも芸当の教えを乞うた師の名を伺いたいものですね。


 紫水の思案は余所に、剣を納める所作もそれは美しく、鎺が口金に触れる音が静かに響く。

 同時に蝶は急に魂が抜け、ただの紙と成り果てたのか、虚しくはらりと地に伏した。

 やや間があり、人々ははっとして我に返る。

 終演を察し、ある者は拍手と惜しみ無い称賛を、またある者は慌てておひねりを準備し、深々とお辞儀をする星鸞の足元へ投げ入れた。


「何だよ兄ちゃん! 今のって幻術ってやつか?!」


 佑信が瞳をきらきらとさせて、興味津々とばかりに星鸞に詰め寄る。


「さあて、どうだろうな。また子供騙しかも知れないぞ?」


 少々先程の母親に当て擦ったような意地の悪いしたり顔を浮かべながら、星鸞は佑信の頭を少し雑に撫でてやった。


「くっそぉ……絶対タネ明かししてやるかんな!」


 ぐしゃぐしゃにされた頭髪を押さえつけながら宣戦布告する少年を、余裕綽々と細めた碧色の瞳が見下ろす。


「暫く滞在する予定だから、また見たかったら声かけな」

「わかった! そう言っといて逃げんなよ?!」


 帰ろうとして振り返り様捨て台詞のように言いはなった佑信に、やれやれと肩を竦めながら、星鸞は貰ったおひねりを集めた。

 去り始めた人だかりの中から紫水を発見すると、その儲けをなんとすべて押し付けてくる。


「ほらな、金なんてもんはこうすれば直ぐに現地で調達出来る。心配なんてする必要ないだろ?」

「な、なんと!? い、頂けませんよ! 私は何もしていないのですから」

「ははっ、じゃあ、今度俺に何かお前の芸を見せてくれよ」


 それはそれで何とも難しい話なのではと、頭を捻る紫水に星鸞は何やら含んだ笑みを漏らす。


「それがダメなら同じ民宿に俺も泊まらせてくれるよう口利きしてくれ。勿論相部屋にしろなんて事は言わない。どうだ?」

「寧ろ相部屋にしなくては意味のない話のような気がしますが……それで貴方がよろしいのでしたらそういたしましょう。ただ、夕食くらいは奢らせてください。そうでなくては、私は助けていただいてばかりになってしまいますからね。友になるには持ちつ持たれつの関係でなくては不平等と言うものでしょう」

「まったく律儀な奴だな。節約はいいのか?」

「使うべきして使うからこその節約ですから」


 二人は互いに笑い合いながら民宿へ戻り、宿泊の手続きを済ませた。

 相部屋は避けたものの、結局隣の部屋同士にはなったので、荷物を棚に預けた後に、紫水の部屋で茶の席を設けることと相成った。


「お、それは工芸茶か?」


 机を挟んだ向かい側に、足を組んで座った星鸞が、小さな麻袋から出した紫水の持参した茶葉を見て興味を示す。


「ええ、母と姉の趣味でして。これならば散らばらないので、旅の持ち運びにも便利かと、少々家の茶箪笥から頂戴してきてしまいました」

「茶を趣味にするあたり、さては其なりに裕福な家庭の出だな? 姉弟は姉だけか?」


 些か詮索するような話方ではあるが、この程度はこれから友人になろうという為の他愛ないものであろうと、紫水はさして気に止めずすんなりと受け答えてみせる。


「まあ、衣食住に困らぬくらいには。お陰様で、生まれは脆弱な身体も無事にここまで育てて頂けましたから。私は末弟で、他には兄が二人おりますよ」

「ほう、ちびの末っ子のひとり旅をよく皆許してくれたものだな?」


 その言い方からしてこの青年は、己のことを相手より年上だと思い込んでいるのだなと紫水は察する。

 会う人会う人に一々確認の上訂正するのも面倒なので、紫水は滞りなく会話を進める事に専念した。


「父には申し出ましたが、実のところ他の家族には内緒で出て来てしまいました。今頃父が皆に恨まれているかも知れません」

「はははっ、それは親父殿は災難だ。案外罪作りな度胸のある奴だったのだな」

「僧侶になろうと思い立ちまして。今は個人修行の身と言ったところですね」


 これは蕎麦屋の娘の言を参考に、今しがた思いついた旅の理由付けである。


「ほほう、益々面白い奴だな」

「そう言う貴方は如何様な旅の目的がお有りで? 先程の剣技からして実に見事でしたから、既に達人の域に達している方なのでは?」


 湯を宿から借りた茶器に注ぎ、花開く茶葉を見ながらなんとなしに聞いてみたところ、星鸞は少し目線を遠くにやって、今までは見せなかった物思いに耽るような表情を浮かべ答える。


「俺にも兄がいる。腹違いだが、俺にも分け隔てなく接する非常に聡明な良い奴でな。ただ、病弱で度々床に伏せってしまうため、どうにか体質を直す万能薬はないかと、各地を回ることにしたのだ」

「それはまた……難儀な旅になりそうですね」

「建前上はな? 実際は割りに楽しんでしまっているぞ。お前みたいのにも会えたしな」


 実に愉快とばかりに、蕎麦屋での一幕を思い出し笑う星鸞に、紫水もつられてやや苦笑う。

 夕食までの談笑に、茶と共に花を咲かせていると、外はあっという間に暗くなり、光源は細い月と街の赤い提灯が主体となる。


「お前酒は行ける口か?」

「はい、嗜む程度には」


 景麗泉国、火鳥山国共に、飲酒に明確な基準はないものの、大概は齢十五を過ぎてから認める家庭が主である。

 少なくともその程度には見られていたことに、紫水は人知れず妙に一安心してしまう。


「なら折角だ。地酒を楽しみながら海の幸と行こうじゃないか」


 今にも鼻歌まで交えそうな上機嫌で、赤提灯の並ぶ町並みを闊歩する星鸞の後ろにつきながら、紫水も海の幸の響きにわくわくとしつつ、一件の定食居酒屋の暖簾を潜る。


「いらっしゃいませ! 二名様ですね。只今団体客の方々で混み合っておりまして、厨房隣の細長い席になってしまいますが、よろしいでしょうか?」


 若い女性給仕が、前掛けで手を拭いながら接客してくれる。

 確かに彼女の後ろを見やれば、普段は固い仕事についているような服装の男達が、がやがやと無礼講に興じている。


 ――お役所仕事の方々でしょうか? ひょっとしたら運良く世の情勢を聞き齧れるかもしれませんね。情報を聞き出すのは酒の席と、相場が決まっているものです。


 紫水もそのような考えから「別段構わないよな?」と、こちらを振り返る星鸞に対し、間を置かずに頷いて見せた。

 二人とも通された席で、早速この土地で作られた米酒と、青菜の漬物に焼き魚を注文する。

 肴が提供される前に素早く渡された杯に、酒器に入った透明度の高い酒を並々と注ぎあった。


「それでは旅の無事と、兄上様の健康を祈って」


 紫水がそう言って杯を上げると「乾杯」と杯を軽くぶつけ合い、互いに煽って呑み下した。


「ん~、これは何とも、爽やかな喉ごしに夏の果物のような甘味を感じますね。うっかり呑みすぎてしまいそうです」

「おっ? 見かけによらず、さては生臭坊主の素質有りだな?」

「いやですねぇ、私は単純に美味しいものが好きなだけですよ」


 ほくほくとしながら二杯目を注ごうとした紫水の耳に、中年の太い声がいやに際立って届く。


「おお、水守の! 来たか来たか、さあさ駆けつけ一杯!」


 丁度遅れて来た者を迎え入れたのか、団体の宴席がより一層盛り上がりを見せた。


「私の見立てが正しければ、あの方々は祭りの責任者様方ですかね?」


 (けい)に被った役人の黒い冠を目線で指すと、星鸞もちらりと団体客の顔ぶれを横目で見て頷く。


「ああ、郡守(地方自治体の首長)とその元で働く役人達だな。今酒を渡されている水色の巾を被った男がさらに下請けの専門下級職……胥吏(しょり)あたりだろう。そう言えば、あの小生意気坊主の親父だったりしてな?」


 ほら、飴玉のと星鸞が付け加えるので、紫水も「ああ!」と手打ち、佑信少年の顔を思い出す。


 ――あれだけ歓迎されているのですから、やはりこの土地の水守は庶民の英雄的立ち位置なのですね。


 しかし、何となくではあるが、水守と呼ばれた男はひたすらにへこへこと頭を垂れ、顔は少し疲れても見える。


「庶民に愛されていても、所詮は上下社会だ。ああいうのは見ていて気の毒にも思うな」


 席に届いた青菜をつまみながら、星鸞はぼそりと役人職を皮肉った。



 夕食後、二人は其々の部屋へ戻った。

 酒と肴は確かに旨かったが、どうにも役人達の話し声がちらついて、星鸞と茶の席ほど話は弾まなかったように紫水は感じていた。


「確かに祭りの期間に入った途端、上司に酒の席に呼ばれれば、実動的職務の下級層なら、ああいった顔にもなるんでしょうかねぇ」


 人の出入りや使用頻度などを考えれば、水路全般、肝心の飲料用水も管轄内であるはずの水守は、かなり祭り中忙しいのではないだろうか。

 寝支度をしながら、ついそんなことをぼんやりと想像してみた。

 紫水は寝台に横になる直前に、ふと思い出し机に向かう。

 細い木炭と布切れを荷物から取り出し、父への文を(したた)める。

 筆と墨では布に染み渡ってしまうことを懸念しての筆記用具であり、紙より丈夫で竹簡などより軽いのが持ち運びに適していると考えて持参した物だ。

 何よりも、木炭であるから、布を強く擦り付けてしまえば何が書いてあるか分からなくなる。

 最悪読まれては不味い内容が暴かれそうになった時は、そうする事も考えておくのが間諜としての努めだろう。


 ――前略父上様、無事に火鳥山国へ入りました。母上様方は如何お過ごしでしょう。こちらは祭り一色で、大変賑わっております。田畑は満々と豊富な水源に守られ、行政の要は水守であろうと見られます。大変尊ぶべき職業ですから、ああいった下級役人にも働きに相応の報酬が行き渡っていたら良いのですが……。


 はたと紫水は、今日知り合った友人、星鸞の事をどう書き示すか悩んだ。

 有り体に「馬に蹴られかけ……」などという書き出しでは、無駄に心配されてしまうだろうか。

 悩んだ末、紫水は星鸞については「良き友人が出来そうな予感がしております」と、色々と書いた文末に、たった一言添えるだけに留まった。


『尹たち、私の声が届いていますか?』


 文をくるくると小さく巻終ると、尹たちに念を送ってみた。

 すると、窓辺にバサバサと羽音が響く。


「うふふ、本当に直ぐ来てくれますね」


 可愛い弟弟子たちに、思わずそんな声かけが漏れてしまう。

 それに対して真面目な尹たちは、至ってただの鳥だとばかりに、黙って脚を片方差し出した。


『仕事熱心で大変結構ですが、貴殿方もしっかりお休みは取ってくださいね?』


 今度は声に出さず気遣いの言葉をかけると、非常に簡素に『御意』とだけ念が返ってくる。

 片足にくくりつけた文を確認し、さっさと飛び立ってしまった白鷺の美しい後ろ姿を目で追いながら、少し視線を下へ向けると町並みが見渡せた。

 紫水たちの部屋は、運良く三階なのだ。


「はぁ……潮風が心地好いですねぇ」


 まだ酒の火照りが微かに残る頬に、夜風が柔らかく当たる。

 遠くからざざあっと波の音が聞こえ、非常に癒されていたのだが、暫くそうしていると、少々薄着の肩が冷えてきた。


「さてさて、流石にもう寝ましょうかね」


 窓をしっかりと閉め、腕を擦りながら掛布の中に潜り込む。

 程よい酔い心地と、旅の初日の疲れで、紫水はあっという間に夢の中へと落ちて行った。



 子供たちの笑い声が聞こえる。

 立派な家屋の広い庭で、池の回りでぐるぐると追いかけっこをしている二人の男の子がいた。


「あっ! 蛙が――」

「うわっ?!」


 急に立ち止まった背の小さい男の子に、追いかけていた男の子がぶつかってしまい、二人して地面に倒れ込んでしまう。


「おい、急に止まる奴があるか!」

「ごめんなさい兄様。でもほら、このこが……」


 言い訳をする弟の顔を見た兄は、ぶっと吹き出し大笑いし始める。


「お前、頭に! あははは!」

「え……? あら、まあ!」


 弟が言われた通り頭に手をやると、先ほど目に留まった蛙が乗っているではないか。

 兄は弟の驚き方までツボに入ったのか、笑い転げてしまっている。


「もう、そんなにお笑いになることないじゃありませんか! ……うふふ、でも、このこをぺしゃんこにせずに済んだようで何よりです」


 そのほっとした感覚と、兄の笑い声で、紫水は「ああ、これは昔あった出来事で、夢の中だ」と、自覚した。


 ――そう、私にも昔、腹違いの優しい兄がいたのですよね……。


 星鸞との会話から連想し、このような夢を見ているのだろうと納得する。

 しかし、夢であろうとも、眩しい程の兄弟仲を、今の紫水は直視することが出来なかった。

 いっそ早く目覚めてしまおうか――そう思った矢先であった。


『タスケテ……タスケテ……』


現実に無理矢理引き戻すような、不気味な声が聞こえてくる。

 沼の底から這い出て来たようなくぐもった低い声。

 微かに粘着質な水音も、同時に耳元に近づいて来ている気がする。

 直ぐに起きなければならない! そう警鐘を鳴らした心に従い、紫水はかっと瞼を押し上げ、掛布を跳ね除けた。


「――っ、どなたです?!」


 起きたと同時に、慌てて退散する獣のガリガリという爪の生えた足音が素早く遠ざかる。


「お待ちくださいっ!」


 さっと、音が消えていった方向へ行こうと床へ一歩目を下ろすと、ぴちゃりと足裏が濡れてしまう。


「これは……」


 よくよく目を凝らすと、点々と窓辺に向かって、水たまりの足跡が続いていた。

 しかしその足形は、獣というより、夢で見た蛙のような水掻きがあるような形状をしている。


 ――物の怪の類……で、間違い無いとは思いますが……。


 窓はしっかり閉めた筈であるのに、今はきいきいと音を立て、両開きの板が風に揺れていた。

 鈍色の月明かりが妖しく差し込み、それが照らし出したのは、窓枠にしっかりと刻まれた、獣の爪痕。


 ――虎の如く鋭い。寝首を掻きに来たのならば、わざわざ音を出す必要は無かったのでは?


 第一気になるのは、あの『タスケテ』との片言の言葉である。


「一体、なんの事だったのでしょう……」


 ため息のように呟きながら、窓枠の傷を確かめるように撫でると、僅かに指先が水とは違う湿り気を帯びる。

 鼻を近付け嗅ぐと、僅かに生臭く鉄錆と似た臭いがした。

 間違いない、血液であろうと紫水は判断した。

 問題は、これが人の物なのか、それとも、人ならざる者のか……。

 一応外も覗き見るが、夜と朝の境界線のような辺りの空気は、人っ子一人の影すら写しはしない。


「お師匠様、旅の初めから、何やら私が動かねばならぬ運命が動き始めたようですね」


 紫水はいよいよ気を引き締めたように、唇を噛むのだった。

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