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第弐話『豊穣祭と貴公子』

 景麗泉国は縦に長く横幅もある国土で、まだ本当に幼い頃地図を見た紫水は「太った猫さんが寝そべっていますね」と言って周囲に笑われた事がある。

 そんな猫の下腹辺りが首都の港であり、そこからやや南寄りの東に船を進ませれば火鳥山国が開く港がある。


 ――初めから思い切り北に進んで翠瓏安国に入れたら楽なのでしょうが……。


 いきなり目的地である最北に舵を切れないのには当然訳がある。

 先ず火鳥山国に比べ、海路が長く険しい。

 挑戦したものは過去にそれなりに居たものの、荒波に揉まれ、寒さで凍てつく氷山まで目にすると、怖じ気づいて帰ってくるのが関の山であった。

 追い討ちのように、例え厳しい一帯を越えたとして、目にするものは一面切り立つ巨大な崖である。

 つまり、翠瓏安国は景麗泉国側から来ると、壮絶な山脈により行く手を阻まれ、人里を拝むことすら叶わぬのだ。

 以上の事から急がば回れの言葉通り、陸路を火鳥山国から着実に北上し、最終目的地に到着した方が圧倒的に現実的である。


 ――世界の見聞を深めるにはなるべく多くの文化に接したいですしね。まずは火鳥山国の人々が、北方へ抱いている気持ちを探ることといたしましょう。ああ、ついでにうちの国に対してもですね。海を隔てているとはいえ、お隣さんですし、過去に争った歴史もあるようですからね。


 今でこそ景麗泉国と火鳥山国両国の関係性は安定しているものの、昔はそれこそ領海や航路のいざこざが絶えず、ついには火鳥山国側から本格的に海戦を強いられ、長引くあまり陸地での戦闘にまでもつれ込んだ危うい時期もあったのだそうだ。


「雨降って地固まるとは、まさにこういうことなのでしょうかねぇ」


 紫水は火鳥山国の西南に位置する港に上陸すると、賑わう周囲を見渡してそう感想を漏らした。

 海鮮市場からは競りの声が響き、その中からは景麗泉国産の海産物を取引する姿。

 船から下ろされる沢山の大きな木箱の荷物には、景麗泉国の焼き印が付けられており、多彩な品を輸出していることも分かる。

 さらに、積まれるのを今かと待ち構える火鳥山国の荷は、景麗泉国の人々が数を確かめていた。

 このように、戦があった日々を感じさせぬほど、今や両国の信頼関係は強固であると言って良い。


「綿密な外交こそ平和の礎。これからもそうあれるよう、微力ながら私もお役に立たねば成りますまい」


 一人頷きながら祭りの行われている土地の場所を地図で確認していると、浜焼きであろうか。なんとも香ばしく磯の香りが煙とともに立ち上る。

 匂いをつい追ってしまえば、そこには栄螺に蛤浜、帆立に魚の干物、さらには立派な海老まで網に乗せられ焼かれているではないか。


「ううむ、祭りの前に誘惑に負けてしまいそうです……」


 ぐうっと鳴き出した腹の虫を宥めるため、一番安かった貝柱の串焼きを一本買い、歩きながら食べる事にした。


 ――このような作法、母上が見たらさぞお怒りになったのでしょうけれども……ふふふっ、まったく自由とは素晴らしい!


 タレのついた貝柱を噛み締めながら暫く進んでいると、はたと真横に響いた羽音に気がつく。

 確認すると、林のある方に白い塊が吸い込まれていった。


「あれは……」


 紫水はごくりと最後の貝柱を飲み込むと、残された串を懐の手拭いへ収め、道を外れ林へと歩を向ける。


「これはこれは、尹左に尹右、御苦労様です。御使いですか?」


 両名の名を出すが、目の前に居るのは一羽の白鷺でしかない。


『御明察です燦浄様。天上界ではないため、此のような姿での顕現に制限されておりますことご了承ください』


 しかし流暢に人語を返したその鳥は、長い首で丁寧なお辞儀をして見せた。

 紫水もしゃがんで小さく頭を下げ応じて見せる。


「お疲れ様です。して、ご用事は?」

『はい、現世のお父上様とのお約束、覚えておいでですか?』


 その様に訪ねると言うことは、船が出港する以前から紫水を見守っていたようである。

 薄々感づいてはいた紫水はにこりとして答えた。


「お手紙のことでしょうか?」

『その通りでございます。貴方様は一応旅行者と言うのは建前。しっかり任務をお勤めになられるよう、私めを伝書鳥として御使いくださいと、提案しに参った次第です』


 確かに其々の国の内情等をつぶさに書き示せば、万が一他者に手紙を検められた場合、下手をしたら捕縛の後死刑などと最悪なことに成りかねない。

 あくまでも任務は間諜であることは、肝に銘じて置かねばならないのである。

 そうでなければ、平和な時勢を己が原因で壊しかねないのであるから……。


「そうですね。その方が安全で確実でしょう。ただその姿でくれぐれも狩られるようなことがないよう、そちらも気を付けてくださいね」

『お気遣い感謝します。しかし心配には及びません。私ども鳥獣精霊の類いは、幻術こそが得意とするところ。けして下手は打ちません』


 自慢げにくくっと喉を鳴らして見せる尹たちを微笑ましく思っていると、遠くから祝いの爆竹が鳴り出したことに気がつく。


「随分朝から賑わっているようですね」

『燦浄様、羽目を外し過ぎて油断してはなりませんよ? 何かありましたらすぐお呼びください。今は常人ではありますが、こうして私たちの声が理解出来るのですから、問題なく念くらいならば送りあえるはずです』


 師から賜った宝具のお陰か、そう言った表立って目立たない能力は使えるらしかった。

 特に意識したことが無かったため、実のところ紫水は初めてその事に気づいた。


 ――と言うことは、この姿を人に見られた場合、ただの鳥に話しかけている変人に見えてしまうわけですね……気をつけねば。


 ともあれ、それならば表面上無言のまま彼らとは会話が出来るのだから、便利と言えば便利ともとれる。


「大変心強い味方を持てて、私は幸せです。どうぞ宜しくお願い致しますね」

『御意にございます。それでは程ほどにお楽しみ下さいませ』


 真っ白な翼を広げ、どこかへと飛び立って行ってしまった尹たちを見送り、紫水は再び歩き出した。



 町に着くなり大音量の爆竹が紫水を出迎え、至る所で多彩な獅子舞たちと楽団が練り歩き、中央の広場には金色の鳳凰像が飾られていた。

 そこを中心に石畳の大通りが十字へ広がり、道々には食べ物だけではなく、装飾品や日用品、さらには子供の玩具なども扱う露店が並び連なっている。

 人々はいかにも楽しげに皆笑顔を浮かべ、獅子舞が太鼓の合図で跳びはね、曲芸を披露する度に歓声が上がった。

 民家もこの時期ばかりはと伝統的な張り子に色紙や花など色とりどりな飾りつけを行い、まさに活気と煌びやかを絵に描いたような、大盛況且つ幻想的祭りの光景である。

 紫水は思わず目を見開き、そのキラキラとした喝采の渦に自身も飲まれていく。


 ――これはなんと素晴らしい! この賑わい、豊かさ、人々の活力溢れる表情! この国は非常に潤っているのですね。平和とは斯くあるべき姿なのでしょう。


 しかもここは主たる都に近い港町とはいえ、都中心では決してない。

 そこがこれほどの情勢ならば、火鳥山国とはどれ程優れた国なのか――しかし紫水ははたとして両頬を自身で戒めるよう、軽くぴしゃりと張り叩いた。


 ――いけないですね。こんなに浮いた気持ちでただただはしゃいでいたのでは、父上の命に応えられぬ以前に、尹たちに呆れられてしまいます。日が当たるところには必ず影が落ちると言うもの。日ばかりに当たっていては、目に見えるはずのものも眩むばかり……はてさて、如何様に動いてみせましょうか。


 決意を改め歩を進めたのは、居住区を抜けると見えてくる山の斜面に当たる方角だ。

 屋台の如何にも旨そうな香りを運んでくる煙に、多少後ろ髪を引かれそうになりながらも、そこはぐっと我慢した。


 ――腰を据えての食事は御褒美として、はてさて、この辺まで来れば……。


 紫水が目指していたのはこの豊穣祭の要ともなる田畑や家畜などの一次産業の見学である。

 食とは生きることに直結するため、何を育て、何を利用してきたかは、その土地柄を知るための大事な一歩と言えよう。

 そして今目の前に広がる光景は、海の光を受け輝く見事な棚田だ。

 水鏡となったそれにほうと息を漏らし、しばし見惚れていると、水路でカラカラと回る水車に気がつく。

 隣接した小屋を覗き見れば、石臼が回り、何かの粉を引いていた。


「おや、お前さんこんなところにどうしたい?」


 その声に振り向くと、ふくよかで人当たりの良さそうな女性が、重そうな麻袋を担いで立っていた。


「ああ、どうもすみません。仕事のお邪魔でしたでしょうか」

「別にかまやしないよ。ただ見たところ海向こうの人だろう? 旅行でこの時期に祭りじゃなく、わざわざ田んぼを見に来たのが珍しくてね」


 確かに黄金の稲穂が揺れる時期ならばまだしも、祭りが開催されるなか、見た通り何もなくなった水田では、余計に観光としては味気ないのかもしれなかった。


「美しい棚田の水面もまた、なかなかの見ごたえがあるもので、風情があるなと眺め感心していたのです。それに豊穣の祭りであるならこの土地の名産品も知っておきたいと興味が湧きまして、失礼ながらこのあたりをぶらついていたのです」


 女性はしばらくぽかんと話を聞いてくれていたが、やや間があってから紫水に質問を投げ掛けてくる。


「はあ……随分と若いのに殊勝だこと。坊やは一人でここへ? あたしゃてっきり迷子か何かだと思っていたけれど」


 紫水は思わず顔が引きつりそうになるが、もはや他人からのこう言った勘違いは慣れっこであるからして、ひとつ咳払いをしてから平静を保った。


「はい、自由気ままに一人旅です。情けない話ですが、こう見えても私は成人済みでして、親も見てくれが供わず録な仕事につけない私に呆れ、多少貫禄をつけてこいと外へ出されたのです」


 嫌な顔ひとつせず、寧ろ人懐っこい笑みを交えて答えた紫水に、女性は快活に笑い返す。


「そりゃあ悪かったね。ご苦労さんなこった。精々この土地のもんでもたらふく食ってよく寝て、身体をでかくして帰ってやんな。ここは山ばっかりと思われがちだが、この通り食べ物には恵まれているからねぇ」

「ええ、ここで働く方々の努力あってこそでしょう」

「勿論それもあるけれど――」


 女性はそう言いながら水路を辿って山の上を指差す。


「水源をあそこから引いて、土壌改良して下さったご先祖様と、それを指示し先導した大琰王様がいたからこそさ。元々この土地は火山灰だらけで作物は育たない何て言われていたそうだからね」


 そう、かつてこの地は作物を育てるには不毛の地とされ、人気ひとけのほとんどない寂しい場所であったのだ。

 少なくとも紫水が燦浄として飛昇する前、つまり六○○年前まではの話である。

 しかし凱家の紫水として地上で再び人生を歩み出し、学び直した世界史は、この大琰王とやらを建国の祖とする火鳥山国の目まぐるしい躍動の歴史が大半であった。


 ――まさにこの国の方々にとって英雄であり伝説なのでしょうが、わりに謎の多い偉人なのですよね。


 元々この土地にいた人間ではなく、他所から彗星の如く現れた人物であっただの、落ち延びた武人であったのだのと、まず出生が不明であったりする。

 さらには建国にかけた歳月であるが、大体六〇年以上とされている。

 土壌などの開拓の件を思えば、驚異の早さではあるが、平均健康寿命が同じく六〇とされる世の中で、かなりの長寿者であったことを予想させる記録だ。

 一体この地に着手したのは、何歳の時であったのか――ともかく信心深い者ならば、上神様が遣わされたと流布する人物に当たることには違いない。


「真面目で働き者な国民性は、その大琰王様の教えが受け継がれている証拠ですね。ところで、先程からその袋は重いでしょう。この水車小屋で挽く作物か何かですか?」


 立ち話に付き合わせて申し訳なかったと荷物を預かろうとするが、女性はすぐ小屋に置くからと、紫水の申し出を断り、代わりに石臼から落ちる粉を袋に詰める作業を一緒にやってくれるかと持ちかけた。


「この粉は蕎麦だよ。うちで取れた蕎麦の実は、ここで挽かせてもらっているんだ。祭りにも挽きたての蕎麦粉を使った饅頭を店で出しているから、ぜひ食べてっておくれよ。高菜を挟んだのがおすすめだが……あんたはしっかり角煮も詰めてやろうかね」


 朗らかに笑い声を上げる女性の調子に合わせ、せっせと粉を詰める手は絶やさずにいると、紫水はいつの間にか会話の流れに乗り、気づいた時には町の蕎麦屋へ粉袋と一緒に連れてこられてしまった。


「外の椅子に掛けてなさい。今お茶と饅頭持って来てあげるからね」


 土蔵造りで漆喰塗りの店内をちらりと覗けば、客が五人ほど其々に料理や茶などを楽しんでいる。

 決して広々とは言えない店内を、家族経営なのだろう、まだ小さな女の子も一生懸命お盆で品物を運んでお手伝いをしているのが微笑ましい。


「うふふ、はい。ありがとうございます」


 まだまだ見聞の旅は始まったばかりである。

 そこまで慌てて情報収集に奔走せずとも、あの父なら許してくれるであろうとたかをくくり、女性に言われるがまま、ぼんやりと席に座り本日の晴天を仰ぎ見た。


 ――そう言えば、大琰王と呼ばれるのは初代のみでしたね。あとは戴冠時琰王の名を襲名するのがこの国の王族独特の仕来りでしたか。初代の指導者を絶対としつつも、その名に肖りたい験担ぎなのでしょう。


 成ればこそ、現在の琰王の在り方というものが気になるところであるのだが――時は昼過ぎ、腹の虫は貝柱の串焼き一本では満足せんと、いよいよ煩く鳴き始めた。


 ――仙道の修行中には断食などもあり慣れているはずですが、この身体ではどうにも堪え性がありませんね。


 情けなさに影で苦笑いを浮かべていると、先程の女性ではなく、女の子の方がお盆に饅頭とお茶を乗せて来てくれた。


「いらっしゃいませ! お母さんが手伝ってくれたお礼に、蕎麦茶は無料にしといてくれるって」


 高い位置で三つ編みにした左右の髪を揺らしながら、女の子はあの女性とそっくりな笑顔を見せてくれる。


「忝ないとお伝えください。貴女はお店のことをやっていてとても偉いですね。お母上様もさぞ助かっているでしょう」

「えへへ、あたしあとちょっとでお姉さんになるんだもん!」

「まあ、そうでしたか。身重であの袋を……」


 そうと知っていればもっとこちらも積極的に手伝いようがあっただろうかと呟くと、女の子は悪戯っぽくまだ乳歯であろうつんと尖った犬歯をちらつかせた。


「心配しないでお兄さん、うちのお母さんあたしがお腹にいる時も、畑仕事休まなかったんだから!」


 母の強さを誇る娘を見て、きっと将来この子もそんな母になるのだろうかなどと、つい想像してしまう。


「羨ましいことです。私などはよく母に身体が弱い事で心配をかけすぎていましたから」

「そうなの? うちのお蕎麦は身体に良いから、お兄さんも元気になるよ!」

「ふふっ、では沢山いただかないと……ああ、けれどもどうかご無理だけはなさらぬよう、お母上様を気遣って差し上げてくださいね。私からは操安太吉津児様のご加護があるようせめてお祈りいたしましょうね」

「ありがとう! なんだかお兄さん優しくてお坊さんみたいね。ゆっくり休んでって!」


 仙道の修行を経たからか、はたまた精神年齢が高齢にもほどがあるからか、何れにしろまだ七つになっているかも定かでない少女にとって、紫水は異質なのだろう。


 ――成る程、確かにこの体躯や出身地は、行くところにより不便を感じるかもしれません。場合によっては修行中の僧侶ということにしても良いではありませんか。ふむ、妙案を思わぬところからいただけるものですね。


 今後の身の振り方に一定の方向性を見出しながら、少女が長椅子の端に置いていってくれた湯気の立つ蕎麦茶をまずは頂いた。


「はあ、これは何とも癒されますねえ。さあて、蕎麦饅頭のお味は――」


 持ち上げればふわふわもちもちとした感触の生地は如何にも旨そうである。

 そこに挟まれている高菜が、はらりと少々皿へ落ちてしまうと、後から追うように豚バラの肉汁が滴った。

 中身が崩れない内に慌てて一口かぶりつくと、脂の旨味と塩気、そして具材に負けない蕎麦の香りが舌と鼻を喜ばせる。


 ――これはなんと美味な……母上も料理は上手でしたが、健康を気遣い薄味でしたから、この地域の味付けの濃さはなんとも癖になる。改めて素晴らしいじゃないですか、火鳥山国!


 幸福な食事につい己の真の目的が霞みかかった時、急に人々の甲高い声とドカドカと妙に腹へ響く音が、此方へと向かってくる。


「おや、祭りの何か催しで――」


 呑気に皿から顔を上げた瞬間、其処にはあまりにも屈強な農耕馬の前足が迫っていた。


 ――あらら? そういえば、お師匠様が言っていた役目を果たす前にこの身体が朽ちた場合、私は"今度こそ"死を賜るのでしょうか……?


 あまりにも唐突な出来事に、思考が生存本能よりもすっとんきょうな疑問を優先し、身体が反射的に動かなかった紫水は、傍目から見たらただぽかんと座っていただけだった。

 馬が嘶き仰け反り、蹄が顔面を踏み貫く。

 或いは馬の巨体に小さな身体が弾き飛ばされ粉々に……。

 そんな最悪の事態を周囲は想像しただろうが、実際にはそのような考えすら過る前に、事態は思わぬ決着が着いていた。


「――っと、間一髪だったな」


 何故か紫水は背を一人の青年に抱き止められていた。

 いや、正確に言えば、実のところ紫水には全て一連の動きが見えていた。

 何故このような状況になったかについては、寧ろ他人に説明すら容易な出来事である。

 しかし、あまりのその内容に、今は唯目を白黒とさせるので忙しかったのだ。


 ――なんと、この方は……。


 さらりと頬に触れた青年の髪は、まるで最盛期の稲穂を彷彿とさせる、まさに黄金色に輝いていた。

 また、何故か舞台役者のような朱色に縁取りの化粧をつけ、此方を睨むように見下ろす瞳は非常に爽快な碧色へきしょく

 自国どころかこの国の人種にもあまり見られぬ色の組み合わせに、紫水はもしかすると、この青年は最終目的地である北方の国々の人間ではないのかと思い当たる。

 この青年もなにか事情あっての旅行者だろうか――などと見つめあったまま熟考するのはあまりに無礼だろうと、紫水ははたと気づいた後、そそくさと相手の腕から抜け出した。


「ええと、これはどうも……危ないところを助けていただき大変助かりました。はい」

「おい、随分とすっとぼけた面をしているが、頭を何処かにぶつけたか?」

「いえいえ、お陰様でこの通り。奇跡的に饅頭とお茶も無事ですし、ほら」


 片手にちゃっかりと逃がしてあったお盆を上げて見せる紫水に、周りで冷や汗をかいて見守っていた店内や周囲の人たちは、一先ず安堵し溜め息をもらした。

 その様子を確認した青年はというと、束の間置いた後、ぶっと音を立て吹き出してしまう。


「おまっ、馬鹿か! 食べる奴が死んだら、その食われかけの饅頭も浮かばれないだろうが! はははっ、本当になにを考えているんだ。このだアホめっ」


 優先順位がまるで頓珍漢な小男に、逞しく背の高い、さながら物語の貴公子を絵に描いたような青年は、その端正な顔に似合わぬ程一頻り呆れながら笑い倒した。

 そうしてややあってから、強めに紫水の肩を叩き「何にしろ無事で良かった」と、にっと男前な顔で得意気に振る舞って見せる。


 ――言動は少々粗雑ですが、なんとも溌剌とした気持ちの良い若者ですね……などと今の私が言ったら変な顔をされてしまうでしょうか。


 そんな青年の背に、ようやく追い付いたとばかりによたよたと走って来た農家の男性が声をかけた。


「やあ、兄ちゃんよくやってくれた。暴れ馬を押さえつけるなんて――」

「あんたふざけんじゃないよっ!」


 間髪いれずに怒り心頭な蕎麦屋の女性が、店の奥から出てきて怒鳴り散らす。


「なんだい、でっかい音がしたから来てみたら……うちの客と娘に何かあったらどうしてくれるんだいっ! 外の椅子は壊れちまってるし!」


 小走りに駆け寄って心配してくれる彼女を、紫水は「お身体に触りますから」と必死に宥めた。

 確かに紫水が今まで座っていた長椅子は、無惨にも修理不能な程ぼろぼろに折れてしまっているのだから、彼女の怒りは尤もである。


「め、面目ねぇ……祭り飾りを着けようとしたら、いきなりうちの馬が暴れだしちまってよお。普段は大人しい牝馬なんだがなあ」


 男性はとても悲しそうに膝を着き、店の前に倒れ伏している愛馬の鬣を撫でた。


「よく働く愛嬌のある奴だったんだよ」


 予測がつかなかったとは言え、自身の不注意で殺さざるを得なかったと嘆く男性に対し、青年は飄々と悪びれる様子もなく、倒れている馬の手綱をひょいと握り取る。


「安心しな、殺しちゃいない。ほらっ、起きろよ」


 すると、まるで息を吹き返したように、馬はきょとんとしながらゆっくりと立ち上がった。

 その光景には飼い主の男だけならず、周囲も思わず感嘆の声を漏らす。


「こりゃあ、何て凄い! 奇跡のようだ……俄には信じ難い。いや、本当にありがとう!」


 男性は興奮しながら青年の手を取り何度もお辞儀し、その際路銀にと幾らか謝礼を渡した。

 蕎麦屋の女性には後日似たような長椅子を用意し持ってくる約束をして、大人しくなった馬と共に、尚もへこへこと周囲に頭を下げつつ帰って行った。


 ――この青年、なかなかの技の使い手のようですね。


 この中で紫水だけは、青年の神業を目撃していた。

 それは横から馬に体当たりし、紫水から僅かに狙いを反らしたのとほぼ同時に、点穴と呼ばれる急所のツボを的確に指で突いていたのだ。

 この急所は正しい場所と深さを順番に突かれることで、仮死状態のようになってしまう。

 つまり、馬は体当たりに驚く暇もなく、身体を硬直させられてしまったというわけである。


 ――それにしても馬に人が体当たりとは、単純に腕力も相当ありそうですね。しかも直後椅子が壊れる反動で、後ろにひっくり返りそうになった私まで助けたわけですから……。


 これは何ともすごい人物に出会ってしまったと、改めて青年の格好を見ると、確かに腰には立派な鞘を提げ、旅の剣客であるように伺える。

 だが、どうにも頭飾りの羽根が大きく派手な色であったり、先程も気づいたほんの部分的ではあるが顔の化粧など、ただの武人らしくはないのが気になってしまう。


「失礼ですが、助けていただいた方の名前すら知らないのはどうにも寂しいと思いまして、どうぞお名前をお教えいただけないものでしょうか。ちなみに、私は気儘に一人旅をしております紫水と言う者です」


 青年はその申し出に、ほんの少し狼狽えたような素振りを見せたが、すぐに平静を装い何か思いついたかのように答えて見せた。


「ただの紫水か? では俺もただの星鸞せいらんと名乗ろう」

「ほう、名は体を表すと申しますが、貴方にぴったりの良い響きです。それに鳳凰に並ぶ瑞鳥の鸞とは、なんとも目出度い。肖りたいものですねえ」


 お互いに旅人であることに配慮し、家の名は出さずにすんなりと相手の名を知れたのは実に僥倖である。

 しかし鳳凰の名を出したところで、少々表情がぴくりと動いたように紫水には見えたが気のせいか。


「……なんかお前、赤ん坊みたいな顔に似合わずじじいみたいな話し方をする奴だな」


 似たようなことはよく言われ慣れている紫水であったが、赤ん坊とはまた随分と可愛らしい喩えになってしまったものだと苦笑する。


「災難だったねお二人さん。ところで旅人なら今日の宿は決まっているのかい?」


 蕎麦屋の女性が問うので、紫水は「おお!」と声を上げ、全く考えていなかったとばかりに振る舞った。


「すっかり失念しておりました。宜しければ心当たりのある宿を教えていただいても? 出来れば安価であるとありがたいのですが」

「そんなこったろうと思ったよ。任せておきな。うちの親戚が民宿をやっているから、地図と手紙を書いてあげるよ」

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