第壱話『出立の日』
事件の真相解明から三日後、今日も今日とて紫水は蕎麦屋でお守りに勤しんでいた。
とはいえ、実際にはお茶をしながら軒下で揺り篭を揺らし、可愛い寝顔を見ながらのんびりしているだけなのだが。
――私にも孫が出来ていたなら、こんな感じだったのでしょうかねえ。
そんなことを思っていると、赤子の顔がじわりと歪む。
「おや、この顔は……」
「ふ、ふにゃあぁ……ああ~」
「ふふっ、じいじは分かっておりますよ。そのお顔はおしめでしょう? よしよし、少々お待ちくださいね」
赤子の泣き声についつい祖父の気持ちに成りきり、替えのおしめを手元に置かれた世話道具一式から出していると、呆れ果てた声が後ろから掛けられた。
「……お前、到頭自分でもじじいと認めたか。枯れるには早すぎないか?」
「あら? これはこれは、おはようございます星鸞殿」
紫水のことをじじいなどと言うのも、今のところ星鸞くらいなものだが、言われた本人はさして気にせず赤子をあやしながらおしめを替える。
「しかも何やら手慣れているな?」
「甥っ子が二人いまして。乳飲み子の頃にお手伝いを少々しておりました。今は二人とも大きくなって、私に世話をされていたことなど、すっかり忘れてしまったでしょうけれども」
「ほう、甥っ子たちは今幾つだ?」
「長男が七歳、次男が四歳ですね」
星鸞は暫く黙ったかと思うと、すーっと何やら細く息を吸い込み、腕組みをしながら顎に手を添えた。
「ちなみに、その長男はお前が幾つの時に生まれたのだ……?」
「あれは十六歳の時でしたね。いやあ、兄たちはまだそう言った話が出ないので、初孫に父と母は大層喜んでおりまし――」
「お前っ、二十歳を越えていたのか?!」
話の途中で食い気味に驚く星鸞に、紫水は何時もの如く、へらへらと笑って見せた。
「はい、よくそうやって驚かれます。これでも元服済みですよ」
「色々と本当にちぐはぐな奴だな。しかし、そうか、二十三か……いっていても俺より一つは下くらいに思っていたのだが、そうか……」
何やらそれなりに深い精神的傷を負ってしまったようだが、この反応を見てしまうと、なんとなしに彼の年齢を当ててみたくもなる。
紫水はおしめ替えを終えた赤子を抱っこしながら、何気なく聞いてみた。
「星鸞殿は堂々として自信に満ちていらっしゃいますから、丁度元服したてと言ったところでしょうかね?」
「……この流れで白状すると思うか?」
「寧ろこの流れで明かさないのは些か狡いのでは?」
暫し星鸞は考え込む。
それはもう、眉間に皺が寄る程に。
「……言わねば卑怯者との謗りは免れんか」
「へ? いえいえ、流石にそこまでは言いませんよ。人には他人に言いたくない種類の事情もございましょうし」
下を向き、下唇を噛み、遂に目線を反らしながら星鸞の口から言葉が漏れる。
「…………こ、いや、来年」
――来年と来ましたか……。
普通は今年でと切り出すものだが、悪足掻きもここまで来たものかと内心驚きすらある。
だが、若者からしたら一年の重みとはそこまでのものなのだろうとも感慨深い。
だとするなら、結構な意地悪を言ってしまっただろうかと、紫水は何やら申し訳なくなってしまう。
「じゅ……じゅうはち、だ」
消え入るような声を、紫水は「成る程十八ですか」などと素直に一度受け入れたが、わざわざ来年などと言った理由に、じんわりと勘づいてしまった。
「因みにお誕生日は?」
「ぐっ、聞くな……」
こればかりは言うものかという強い意思を感じ、紫水は確信した。
――成る程。まともな親なら、つい去年お酒を召されたばかりですね。
詰まるところ、彼は現在花の十六である。
――素直な子ですねえ。それだけ信頼を勝ち取れたと自惚れても良いのでしょうか。
並みの大人以上の高身長であるから、元服済みだと嘯いたところでバレはしないだろうに。
何にしろ発育が大変良い事が判明し、紫水としては羨ましい限りだ。
「ええいっ、そんなににやけた面をするな! だから言いたくなかったんだ……」
「良いではありませんか。可愛い子には旅をさせよと申しますし、それを早いうちから実践なさる親御様は実にご立派」
「うるさいぞ、くそじじい――と、言うか、だ。そんな話をしに来たんじゃない! くそっ」
「うふふ、はいはい。そうでしょうとも」
そうは軽く流しつつも、紫水はある程度予測が着いていた。
「護送の手筈が整いましたか?」
「その通りだ。だがそれだけではない」
「書簡の返答がないのでは?」
あっさりと予測してくる紫水に、星鸞は舌を巻く。
子守りと蕎麦屋の番をしているのには、それなりに訳があったのだ。
つまり、本来の紫水の仕事である情報収集である。
人は旨いもので空腹が癒えると、口が元気になるもので、噂話を聞くには事欠かない場所であった。
「最近になって、度々王都へ向かう旅人や、中継地点の山間に住む村人が消えるそうです。よもやとは思っていましたが……」
「やはりそうか。いや、俺もここへ来る際その村を利用したが、本当にたまにある事らしくてな。現地じゃ神隠しなんて言われていたが、まさか官営の伝達にも支障が出るとは思いもしなかった」
最初に星鸞が噂を聞いた際は、所謂村民に向けた言い伝えや、夜間の外出を控えるような、一つの教訓染みた話だとばかり思っていたらしい。
しかし、こうなってはただの噂話と聞き流さずに、あの時に調べていたら良かったと、少々後悔している様子が窺える。
紫水はうとうととし出した赤ん坊に視線を流しながら、優しく諭した。
「星鸞殿の強さは理解しているつもりですが、一人で解決出来るかどうか、物事の程度が分からないことには余りに危険です。先ずは慎重に探りませんと」
山はそれこそ何が潜んでいるか分からない。
野生動物は勿論、有象無象の物の怪が蔓延り、その存在を仄めかし利用する山賊悪漢の類いまでもいる。
だからこそ、あの水虎のような存在は、本来稀有であると子供たちを引き離したのではないか。
そこでふと、紫水は提案する。
「山の事は山の主に聞いてみましょうか。ここから出立するなら、挨拶がてらに――いかがです?」
「ああ、確かに一度会ってみたかった」
「では決まりですね」
すると丁度佑信たちが、挽きたての蕎麦粉を荷台に乗せて帰ってくる。
「あ、星大兄! 来てたんだ!」
佑信からすっかり懐かれ、憧れの存在になっていた星鸞は、親しみを込めていつの間にかそう呼ばれていた。
まだ掌くらいの大きさにしか見えないところから、佑信は蕎麦屋の亭主と明るく手を振ってくれる。
店先に小走りに寄ってきた少年の期待に応えるように、星鸞はわしわしと頭を撫でてやった。
「しっかり働いているな。偉いぞ」
「うん! 急に弟と妹が出来ちゃったからな」
蕎麦屋の亭主は笑いながら「頼りにしているぞ長男」と、佑信の肩を叩いた。
「へへっ、そういえば二人でどっか行くの?」
「ええ、明日にはここを立ちますので、最終準備や各方面ご挨拶をと思いまして」
「えっ! もう行っちゃうの?!」
佑信の大声を聞きつけ、客におかわりの茶を配っていた杏花が外へ顔を出す。
「佑佑兄ってば、どうしたの?」
「二人とも明日にはまた旅に出ちゃうって……」
「まあ、もっとゆっくりしていったら良いのに」
二人の子供たちの懇願するような目線に、紫水と星鸞は苦笑する。
「このままでは居心地が良すぎますからね」
「尻に根が張っちゃ動けん」
「ちぇ~……もうちょっとで飴玉を隠す術くらいなら見破れそうだったのになあ」
「本当か? じゃあ、そこにいつから入っていたか当てられるか?」
首元を指差されると、ぎょっとして佑信は自身の肩にかけた手拭いをバサッと振りほどいた。
ころんとひだになっているところから飴玉が飛び出し、佑信はむきになって地団駄を踏む。
「もうっ! 気づかなかったけど入れたのは絶対さっき頭撫でた時じゃんか! 雑だぞ?!」
「あはは、それはどうかな?」
からかう星鸞に頬を膨らませる佑信の姿を、紫水が微笑ましく見ていると、女将までも店内から顔を出す。
「ほらほら、引き留めたら迷惑だよ。せめて今日は送り出すための晩御飯でも一緒にしたら良いじゃないか」
「ああ、それは良いな。二人とも、お店が終わったらご馳走の準備をしよう」
夫婦親子一丸となり、微笑ましく献立を相談し出したので、紫水は赤子を返して、星鸞と共に山へ向かうことにした。
紫水たちが山に入り、暫く歩いて行くと、沢の前の立て看板が、以前とは違うものになっている。
「左は禁則地に指定。新たな貯水池は右より使用すること。また一般人の立ち入りは変わらず固く禁じる――と、成っていますね」
「ほう、予備の貯水池があったのか」
「昨日佑信くんに聞きましたが、生前のお父上様が指揮して新たに水源を確保していたそうです」
確かに人の遺体が沈んでいた池ともなると、畏怖と鎮魂のため、旧水源を閉鎖するのもやむ無いことであろう。
だがそれよりも、感心すべきはやはり佑信の父の仕事振りだ。
楊蘭が亡くなったあの夜、水守は直ぐに自己で判断し、旧水源の水門を封鎖した後、新たな水源の門を開いた。
紫水が星鸞と茶を飲んでいた時に、水の味が気にならなかったのはそのためだ。
では何故、湯冷ましで提供された水差しは死者の気配があったのか――それは、言わずとも知れたあの水虎の仕業であった。
彼は誰か敏い者に楊蘭の死を知って欲しかったのだ。
人間側の思惑はどうあれ、住処の入り口にずっと遺棄され朽ち行く死体を眺めると言うのは、彼の良心も重なり耐え難かったに違いない。
その為に旧水源の門を再び開き、水源を切り換えていたわけである。
この事情は化け術を教えついでに本人から聞いたわけであるが、まったくどうして先手先手に気を回す事に長けたことか。
紫水と知り合ってからは、しっかりと元に戻した几帳面なところも評価に値する。
――あの方が居なければ、今回の事件がこうも円滑に解決はしなかったでしょうね。或いは郡守が狙っていたように、誰にも気づかれず年月が流れていたか……。
亀龍の機転には本当に驚く。
彼が紫水の寝床へ現れた事もそうだ。
あれは彼曰く、夜中白鷺と窓辺で会話している様を見て、もしかしたら天と関わりのある人物ではないかと察したのだそうだ。
流石にたった一言鳥に向けて発した言葉であったので、駄目元ではあったそうなのだが、そこは見事見破られた結果であった。
そのため、実は尹たちに少々怒られてしまったのだが……。
――夜中だからと言って、声に出しての会話は禁物ですね。隣にいた星鸞殿に聞かれずに居たのは運良く幸いでした。
あの時、気分良くほろ酔いであったこともあり「気を引き締めてください」との単純明快にして鋭さのある注意であった。
弟弟子をひやひやとした気持ちにさせてしまったことに、紫水は深く反省の念を抱く。
――自由に浮かれていたのではいけませんね。もっと私も色々なことに気を向けておりませんと……。
そうこう考えているうちに、星鸞は足取り軽く紫水の前を行き、石階段の上から手を差し伸べる。
「疲れたか?」
「すみません、今日はここまで全部徒歩だったもので……思えば移動手段は牛さんにお世話になりっぱなしでしたから」
「ははっ、明日からの移動は馬があるそうだから安心しろ」
「それは正直助かりますね」
旧貯水池につくと、紫水は一息深く深呼吸をする。
小さな祠には、お供え物をした痕跡として、皿が一枚と、萎れかけた花が残されていた。
水守の仲間たちが、ここを封鎖する前に死者を供養し、山や川の神を恐れ拝んだのだろう。
皿が空なのは、わざわざ予想するまでもない。
「はてさて、出て来てくれますかね」
紫水はその辺りにある石を拾うと、池の縁の岩をコンコンと叩いてみる。
だが、辺りはしんと静まり返り、聞こえてくるのは風が木を靡く音ばかりだ。
「あら、気づきませんかね?」
「お供え物でもしてみるか」
星鸞は得意の飴玉を取り出すと、水面に軽く放り投げた。
すると、暫くして水面が泡と共に膨れ上がる。
「……アマイ、ウマイ」
頭と赤目を出し、紫水に向かって獣の手を広げ、亀龍は挨拶した。
「亀龍殿、お邪魔しております。此方の方を紹介がてら、少々お尋ねしたいことがありまして」
「星鸞だ。此度の事件への協力ご苦労だったな。感謝する」
「エッ……?」
急に亀龍は目を皿のように見開き、星鸞の頭の天辺から足の先までを凝視する。
「すみません、いきなり連れてきてしまいましたが、彼は佑信くんにも信頼されている方でして、それに今回の事件では――」
「王様……?」
紫水はてっきり初めての人間に驚いていると思っていたが、亀龍の驚きはそこではないようだ。
「オ、オ久シブリデス。王様……マサカ、生キテイルナンテ……オレ、オレ、ガンバッテ言ワレタ通リニシテマス! ココ、守リマス! ズットココ、居タイデス……許シテ下サイマスカ?」
その言葉にやや困惑しつつも、星鸞は冷静に微笑んで見せた。
「俺なんかをそんな立派な方と勘違いするとは、よっぽどの年月、その言われた言葉を守り続けて来た証拠だろう。許すどころか、俺が王様なら、お前を山や川の神として祀ってやるところだ」
「違ウ? 違ウ人間、王様ジャ……ナイ?」
「すまんが、人違いだな」
星鸞の言葉にふっと肩の力が抜けたように、亀龍はぷかりと力無く水面に腹を出して浮かんでしまった。
「……確カニ、王様ソンナ若クナカッタ。ヨクヨク見レバ違ウノニ――星鸞、カ。不思議ナ感ジガスル人間」
独り言を空に投げ掛けるように呆けてしまっている亀龍に苦笑しつつ、紫水は本題を話したい旨を述べる。
例の人の消える噂を尋ねれば、亀龍は直ぐに遠い記憶を手繰ってくれた。
「オレノ知ッテル奴ジャナイ気ガスル」
「水虎の仕業ではないと言うことでしょうか?」
「ウン。ソレコソ王様怒ッテ逃ゲテ行ッタ奴、ソンナ近クデ悪サシナイ。モット狡クテ小心者。馬デ荷物運ブ大人ノ男ナンテ狙ワナイ。大概、川ニキタ女、子供狙ウカラ」
亀龍は水面を片手で掻き、くるくるとゆっくり回転しながら考えを続けてくれた。
そもそもの話、この辺り一帯の地域は、大琰王が直々に視察して回ったらしく、その際に粗方の厄介者は追っ払われたのだそうだ。
つまり、行方不明者を出している犯人がもし物の怪の類いならば、新参者か出戻りである筈であり、亀龍が言う水虎の特性から、出戻りはあり得ないという事らしい。
「被害者は確かに子供よりも成人が多いらしいですからねえ」
「とは言え全部の統計を取ったわけではない。数十年、下手したらそれ以上続いているが、現象が稀だからこそ言い伝え程度しかないと言うことかもしれん」
「ウ~ン……デモ彼処ノ山ニハ、確カ何カヲ建立シテタ筈。港カラ王都ノ大事ナ通過点ダカラ」
「いつ頃だ? 場合によっては其処が何かしらの住処に成っていたりするのではないか?」
「確カニ、人間ニハ大昔ノコト……カモ?」
ここから言いつけ通り、一生に一度も離れていない亀龍にとって、情報を得るのは一苦労であろう。
この程度が限界であろうと見切りをつけた紫水は、しゃがんでいた腰を上げ、一つ伸びをする。
「ありがとうございます亀龍殿。その情報だけでも少なくとも生半可な覚悟で相手をしない方が身のためである予測は立ちました。村へついたら、その昔の建立物とやらを調べてみても良いかも知れませんね。星鸞殿が言うように、人々に忘れ去られ、何かいけない者が住み着いていてはよろしくありませんから」
「そうだな、一先ずやることの指針は立った。重ね重ね感謝するぞ」
「明日行クノカ?」
二人が頷くと、亀龍は一呼吸置いてからしばし待つように言い、水底へと潜って行く。
「コレ、オレノ古クナッテ剥ガレタ鱗。佑佑ト杏杏ニ一枚ズツアゲテ。長生キシテル妖怪ノモノ持ッテルト、弱イ妖怪近ヅカナイラシイ」
紫水と星鸞が唐突な申し出にどうするかと、互いに顔を見合わせていると、亀龍は続ける。
「脅カシテゴメン、遠クカラ二人、応援シテル。危ナイコトシナイデ、仲良ク暮ラシテ欲シイッテ……オレ、アレカラ色々考エテミタ。ヤッパリ悲シイ別レ方嫌――ダメ?」
伺いを上目遣いに立てる健気な物の怪に、二人はふっと鼻で笑い合った。
「全く、仕方のない奴だな」
「貴方は甘いと仰るでしょうが、私から彼に協力を求めたのもまた事実。せめてもの恩返しということに致しませんか?」
「あとは子供たち次第だな」
「怖いもの知らずで無茶なところが目立ちましたが、同時に自発的に行動出来想像も働く賢い子たちです。今回の事で学ぶところも多かった筈ですから、それを信じてみましょうか」
二人のやり取りを聞いて、亀龍は希望にぱあっと目を輝かせた。
鱗を嬉しそうに紫水へ託す姿は、約六○○年生きた妖というより、あの子供たちと同じくらいの純粋さを持つ、尊き一つの生き物でしかなかった。
翌日、護送される馬車を取り囲むように、鎮衛所脇の公道に人々が集まった。
紫水と星鸞は、出発前の警備隊に混ざり、馬上から辺りを見渡す。
馬車に乗せられる罪人の顔を見た町民の大多数が、悲しさや虚しさを表情に湛えていた。
皆のためにと、弱い立場の者達を取りこぼさぬ良き政治をして来たはずの郡守が、まさかこのような事件を引き起こしてしまうとは、あまりに予想外だったに違いない。
「宗濱清!」
宗俊の字を呼ぶ凛としたその声に、しんとその場が静まり返った。
代わりにその声のした方へ、人々は目線を移す。
「伯養公……?」
両手を前に麻縄で拘束された宗俊が、ぼんやりと親友の顔を認識すると、その隣には、謝罪したくともしつくせぬ、かつての想い人の両親が立っていた。
瞬間、宗俊はがくりと膝を折り、額を地に擦り付けた。
軽はずみな謝罪の言葉など出ようはずもない。
涙を流す資格もありはしない。
そう言った感情が、周囲にも伝わったのか、石を投げるような者は一人も居なかった。
その光景を目の当たりにした伯養公は、ただ無言で拳を強く握りしめた。
彼と星鸞から既に全ての事情を聞いたのであろう夫妻は、ぐっと唇を噛みしめ何か声を掛けようとしては躊躇った。
互いの愛情の深さ故にすれ違ってしまった若者たちの悲劇を、一言に表現し得る言葉など思い当たる筈もない。
ただその代わり、夫妻は星鸞に最後の頼み事をしていた。
『宗俊殿、私たち夫婦が貴方を許す事は、残念ながら出来はしないでしょう。けれども、娘の楊蘭であれば、きっと変わらず貴方に微笑むはずです。こちらを貴方に差し上げます。どうか娘を最後のその日まで、想い続けてあげて下さい』
今、宗俊の胸元には、両親が星鸞に託した、あの楊蘭の日記が入っている。
その中には両親の手紙が添えられ、以上のように書かれていたのだ。
――悔いて一生詫び続けろとも取れますが、果たしてそれだけの意味でしょうか。
星鸞は日記を再び受け取って来た際「酷なことを」と思わず紫水に漏らしたと言う。
しかし、紫水には、娘が心底愛した男への、せめてもの同情とも受け取れた。
娘を愛した故に、不幸のどん底を這いつくばらねばならなくなった彼に、こんなにも愛されていたのだからと、生きていくための杖を渡した――きっと、そのような気持ちも含まれているはずである――と。
皮肉にも息子を守ろうとする、父の愛情でもって、事故という事実を証明する人物は亡くなってしまっている。
宗俊へ掛けられる容疑はけして軽くはならないであろう。
彼ら罪人を全て乗せ、重く暗い空気を背負ったまま、馬車の車輪がぎしりとゆっくり回り始めた頃、その空気を破るように、非常に明るい声が、紫水と星鸞の背中に投げ掛けられた。
「兄ちゃんたちぃ!」
「またいつか、会いに来てね!」
佑信と杏花が、ぶんぶんと元気に手を振り、その大振りな動きに隠すようにして、ちらりと胸元から、例の"お守り"をこちらへと見せ付けてくれる。
「ああっ! 次の祭りはお前らが盛り上げるんだぞ!」
「どうか皆様健やかに、弟くんの成長も楽しみにしておりますよ」
護送の最後尾に居た二人は、馬の背から振り返り、二人の子供に合わせて手を振り返すのだった。