『天の遣い』
山河照らせし光芒の根源たるは、神仙道の住まう都とされ、古くから信心深き人々に天を仰がせしめた。
切り立つ山々の向こうのそのまた奥、そういった場所で修行を積んだ者が、道士、はては仙人として、天上聖神大帝君通称、上神様の治める天上界へと飛昇するのだという。
仙道は生物としての寿命の存在を消し去り神と同等に列席するため、飛昇の際徳の高い者等は地上にて神殿や寺院を敷かれる場合も多岐に渡る。
さて、ここに一つの宮がある。影蓮殿の名を冠するこの宮は、その名の表す通り光に溢れる天上界に置いても、ひっそりと端に追いやられ、微かに意地らしく咲く花のごとく、一等こぢんまりとした趣きで建っていた。
この宮に住まう事を許されているのは、三高神仙と呼ばれる最高位の仙人のうち一柱、遣天高主人士に選ばれた一部門下の仙道、または精霊の類いである。
『遣主様、お帰りなさいませ』
同じような声が二重に主の帰りを歓迎する。羽音を響かせ小さな宮の玄関口に姿を見せた二人は、恭しく両手を重ね礼をした。
しかし、その者らは各々片腕が白い翼になっており、人の形を取ってはいるが、明らかに何らかの精であり、正体は人ではない事を体現している。
「尹左に尹右、燦淨に話があります。彼はまた裏庭ですか?」
遣主様と呼ばれた仙人、遣天高主人士は、整った眉を少し困ったように曲げて見せると、彼から見て左にいた右手が翼の尹右が頷いた。
「はい、蓮池にいらっしゃいます」
遣天高主人士は頷くと、優雅な淡緑の長衣を柔らかに翻しながら、裏庭へと通じる戸を潜る。
「燦淨、またこんなに霧を出して」
言いながらもふうっと一息吹くと、裏庭全体に立ち込めていた濃い霧が晴れていく。
辺りは冴え渡る青葉が茂る竹林で覆われ、その中にぽつんと瓢箪型の池があった。
「お師匠様?」
池を跨ぐ階段状になっている橋の向こうから、若く可憐ではあるのだが、どこかぼんやりとした声が響く――と、同時に、チャポンと水面に何かが落ちる音がした。
「ああっ、いけない。蓮の実が……」
袖を濡らす事も厭わず水中へと、細く色白な腕が伸ばされるが、その手の平にはうっすらと古い火傷の跡のような痣がちらつく。
「まあまあ、貴方びしょ濡れではないですか」
師は何とも自由奔放な弟子の様子に、飽きれつつも親のように愛おしげな視線を送り見守った。
遣天高主人士の柔和な表情はさながら天女のようであるが、彼は高位の存在であるため、既に男女などという性別は些末なものとし超越しているのだという。
その為なのか定かではないが、地上では恋愛や縁談、果ては美容などの祈願のため、彼を奉った寺院神殿等も存在する。
実のところ本来は慈愛や治癒、信仰心や忠義などを司る神仙であるのだが、往々にして人々の願いとは派生し広がっていくものである。
「尹たちが以前これを好んでいましたもので、丁度時期ですし少し取っておこうかと思い立ったのです。お師匠様も宜しければいかがです?」
両手に乗せられたころころとした実を見せながら、ふにゃりと頬を綻ばせる弟子、燦淨の双眸は、何故かけして薄くはない布に覆われている。
ただの人間ならば目の前が見えず、実を摘む事など出来る筈のない装いだ。
だが、長年の修行の成果であろうか。飛昇する実力を持ち合わせていれば、視力が有ろうが無かろうが、それこそ些末な事なのかもしれなかった。
しかし、弟子のその顔を見た師は、少なからずがっくりと来ているようである。
「燦淨、私相手にまで生まれながらの力を恐れずとも良いと、いつも教えているではありませんか」
「えっ、あ……いや、これはその、尹たちにも悪いかと思って、なかなか抜けない習慣と申しますか」
「燦淨」
ぴしゃりと名を呼ばれ、弟子としては背筋を正す他ない。
「白鷺の精たちのことを貴方は所詮鳥獣ごときの魂と侮り馬鹿にしているのですか?」
「い、いいえ! 滅相もない。彼らのことは尊敬し、日々の関わりに感謝し通しです」
「ならば封印の眼帯を外しなさい。彼らは貴方と同じくこの遣天高の元で修行した身。その瞳の力に惑わされる事などありません」
其処まで一気に捲し立てたかと思うと、すっとぬるま湯ほどの心地好い温度の両手が、燦淨の頬を包む。
「怯えと後悔を捨て去るためにも、やはりあの方が仰られたようにするしかありませんね」
「はあ……と、仰いますと?」
ぽかんと首をかしげる弟子にいよいよ溜め息を禁じ得なかったのか、一呼吸間を置いてからやんわりと屋根下へと誘導し、庭の見える茶席に座らせる。
手にもっていた蓮の実は、燦浄から尹左が何も言わずとも受け取り、濡れた上着もさっさと脱がせ、その間尹右はすかさず蓋碗に八宝茶を淹れて持って来た。
何時もながらの見事な面倒見の良さに、燦淨は黙って肩をすぼめているしかない。
「ふむ、相変わらず良い調合ですね。龍眼の香りが特に良い味を出しています。今日は尹右が作ったのでしょう?」
「はい、お褒めに預かり光栄です」
姿勢良く蓋をずらし、品良く口づけ茶を楽しむ師を気にしつつ、先程言われた手前、諦めたように燦淨は目を隠していた布をおずおずと取り外した。
「ほら燦淨、直接その眼でご覧なさい。尹右の手仕事は見事なものですよ」
蓋碗を開けば、そこには様々な漢方にも使われる具材が色とりどりに浮かんでいる。中でも薔薇の蕾の薄紅が可愛らしく鮮やかで、広がる細かな菊の花弁も純白で優美であった。
「貴方はとても優秀な弟子であることは、私も上神様も当然知るところ。例え視力に頼らずとも何ら問題ないのは分かりますが、有るものを使わぬのはあまりにも勿体無い」
解放された瞼に涼しく爽やかな風が当たり、燦淨は自然とほうっと息をついた。
庭の緑が、池の照り返す光が、師と尹たちの笑顔が眩しくうつる。
「実際に見る世界は確かに素晴らしいです。いつまでも臆病者ですね私は……すみません、お師匠様」
「ええ、ですから先程の話になるのですが――」
ことりと落ち着き払って茶器を机に置くと、師、遣天高は口の端を妖しく吊り上げた。
「地上への使いに貴方を推薦しておきました」
実に簡素なその言葉に、燦淨は瞬間石のように硬直した。
「…………はい、なんと?」
「だからお使いですよ。地上へ赴き役目を果たしてきて欲しいのです。初めから上神様もそれが良いと考えていらっしゃったので、これ幸い」
「ちょ、ちょっと?!」
燦淨が慌てて立ち上がると、その勢いで二人分の茶器がガチャンと音を立ててしまう。
「こら燦淨、お行儀が悪いですよ」
「ああっ、これは重々《かさねがさね》申し訳なく。し、しかしそんな急な話……」
「急ではありません。私以外の最高位仙、鉄武汪人老君と操安太吉津児の了承も得たあとです」
まさか三高神仙全員にまで、自分のような日陰の位に甘んじる者を起用するなどという話が進んでいたとは、燦淨にとってまさに寝耳に水の直後に訪れた青天の霹靂である。
「待って……いや本当に待ってくださいお師匠様。私めが貴方様のお力を借り、飛昇に到った経緯をまさかお忘れになったわけではありますまい?」
戦慄きながら必死に食い下がる弟子に、美貌を携えた師の表情は変わらない。
「だからこそです。これを機に過去を克服して“みせい”と言うのが総意です」
ついにはくつくつと笑う相手に眩暈を覚え、渋々と着席すると、側で話を聞いていた尹たちがきらきらと黒目がちな瞳を輝かせている。
「燦淨様、なんと誉れ高い!」
尹左が、鼻歌でも交えそうな調子で、相手の肩に代わりの上着を羽織らせた。
「そうですよ。我々も兄弟子が推薦されるだなんて鼻が高いです!」
尹右も鼻息荒く翼で胸を叩いて見せる。
「そうは言うが君たち、さっきのお師匠様の言い様、あれは絶対鉄武汪様の台詞を借りたに違いない。無敵老などと地上で崇め奉られている御大であるからして、差し詰め私の事は千尋の谷に突き落とすには手頃な仔獅子とでもお思いだ。何とも荷が重すぎる」
折角封を解いた瞳であるというのに、思わず瞼を固く結び、燦淨は「ああ……うぅ……」などと意味のない呻き声を漏らしながら、頭を抱えてしまった。
「燦淨、貴方が天上界へ来て、一体何れくらい地上では時が経ったかご存知ですか?」
すいと茶器を再び口につけ、目だけが「言ってみるが良い」と答えを急かす。
「ご、五ひゃく……?」
「惜しい、六〇〇年です。そしてその誤差一〇〇年は、人々にとって一国の王がどんなに健康でも二代は交代する程の月日です」
「うっ、はい……自身が生きた日々を軽んじておりました。どうかお許しを」
「よろしい、ではお分かりでしょう。貴方が修行を終え、いかにその後安穏と怠惰な生活を送っていたか」
「ぐっ……返す言葉もございません」
ふうと茶で温められた息をつくと、遣天高は苦笑した。
「まあ、私も少々貴方に対して過保護でしたから、お互い様とも言えましょう。だからこそ、この機会を逃しては成りませんよ」
こうも言われては、もはや何の言い訳や逃げ場も有りはしまい。燦淨は腹を括り、席から立ち上がった。
「そのお心遣い、しかと受け取りました。不肖の弟子ながら、天の使いを慎んで拝命仕ります」
両膝を石畳に付き、頭を下げた拱手礼に、師は柔らかく目尻を下げた。
「……して、私めは地上へ赴き何を成せばよろしいので?」
観念したは良いが、そう言えば肝心な任務の詳細を聞きそびれていたと気づく。
「はい、事の内容なのですが」
ややあって遣天高は一言。
「人に転じて成すべきを成せ――だ、そうですよ」
「はっ……ん、え?」
俄には信じがたい命令に、燦淨は頷きかけた頭を反射的に上げた。
「それはつまり、怠けていたと見なされたため、破門の上仙道の資格を剥奪し、一からやり直せ……と、いうことでしょうか?」
情けなくも声が震えそうになっている可哀想な弟子に、慌てて師は訂正する。
「ああ、いやいや違いますよ? 貴方の使う神通力は非凡な才能と皆感心しておりますし、のんびり屋さんですが大変善人なのは周知の事実。ですからこの内容は貴方を守るためでもあるのです」
「守る?」
今一不安げな愛弟子をその場で立たせてやるついでに、遣天高は小さく固い石粒のようなものを掌に握らせてやる。
「これは?」
「餞別のようなものです。これを身につけている限り、貴方は無力な人でも有り、才能有る神仙道のままでも有る。宝具、仁神白璧――上手く使うのですよ」
璧とは通常円盤のような翡翠の宝玉を指すものだが、燦淨が手にしている物はぱっと見る限り、指先ほどもないただの白い小石であった。
遣天高主人士の神通力などが込められた様子もないことから、どうやら自分で使い方は工夫しなくてはいけないらしい。
「ええと、つまり神通力を抑制して、常人に紛れ込めると言うことですか?」
「はい、ざっくり言えばそんなところです。貴方が一番恐れているその瞳の力も抑制出来るのですから、もう布切れも要らないというわけです」
燦淨ははっと思わず片目を手で覆い、胸を撫で下ろす。
「あの頃と同じ轍を踏まぬよう、大事に致します」
仙道になるにはただ闇雲に修行すればよいというものではない。
そもそも生まれながらに何かしら体に特殊な部分がなくては、師を得て入門する切っ掛けすら無いのである。
燦淨の場合、その特徴が瞳にあったのだが、才能あるもの程最初はその特殊性に人生を振り回されるものであり、彼もその例には漏れなかったのだ。
それも、あまりに強力な特殊性であったがため、彼には神仙道になる以外の道はなかったとも言える。
「その事ですが、念には念を入れようと思います」
遣天高は袖口から土鈴のような物を出して見せた。
「これは滅多に使うことのない私の宝具、魂転鈴です」
「はい、お師匠様が持つ三宝具の内の一つと心得ています」
宝具とは常人にはただ持つことすら不可能とされる、神仙道が神通力を込め扱う道具や宝石、武器武具の類いである。
通常二つも保有すると、神仙道の中でも抜きん出た高位の存在とされるが、主人士の役職、つまり神仙道たちの取り纏めを天上聖神大帝君より賜った遣天高ともなれば、三つ持ち歩くことも造作のないことのようだ。
ただ、その内の一つをこうして見せて貰えるのは、門下の弟子の中でも、特に目を掛けている者のみであろう。
「魂を自在に操るこれを用いて、貴方を生まれ変わらせ地上へ下ろします」
「えっ……?!」
どうにも驚いてばかりだが、つまり人に転ずるとは、赤子からやはり人生をやり直すことのようである。
確かに別人として生まれれば、体の特殊性などそもそも無くなるのかもしれないが、それでは仙道として成すべき仕事をこなせるのか大いに疑問である。
さらに、ただの人としても、赤子にまでなってしまえば文字通り手も足も出まい。
「慌ててはなりません、よくお聞きなさい。記憶は幼少の頃になればすっかり蘇りますし、そもそも貴方に与えられた成すべき任とは、時が来れば自然とその流れに乗り見えてくる事象なのです」
「とどのつまり、行き当たりばったりということでは……」
「そんなことはありません。宿命とは決まっているものです」
そう言われてしまえばそれまでなのだろうが、どうにも釈然としない表情になってしまう燦淨に、遣天高は嫌みを含んだような追い討ちをかける。
「のんびりと過ごすのは得意でしょう?」
本人は至って平時通りにっこりとしているので、大した意味は含んでおらず、恐らく本気で適任であると考えているのだろう。
「分かりました……ともかく天啓を待ちながら、第二の人生を楽しんでみることに致します」
「ええ、それが良いでしょう。任が明けた暁には、再びの飛昇へ私自身が出迎えに参りましょう」
では早速とばかりに、魂を転移させる術を準備してこようと立ち上がった遣天高は、はたと立ち止まる。
「そうそう、同じ轍を踏むまいとするなら、凡人の器の中身が仙道であることは人々に必ず隠して生きるのですよ。神通力を使うときは必要最低限、尚且つ人目の無いところで。そうでないと、いくら姿形を変え、宝具を持っていたとしても無意味ですからね」
燦淨はぞくりとして、無意識に自身を庇うように片腕を抱いた。
「それはもちろん……ただ、万が一誰かに見られた場合は?」
「そうですね、まずは神通力で私に指示を仰ぎなさい。状況に応じて対処致しましょう」
こうして燦淨は「仰せのままに」と再び礼をした。
そうして一刻ほど経った後、屋外の広場にて他の神仙道たちも遠目に見物しにくる中、魂転鈴を用い神仙道を人の器に降ろすための術、神仙御霊権現の儀が執り行われる。
円形に朱色の縄が張り巡らされた中心に、香炉の煙が立ち上る祭壇が設けられ、既に燦淨の額には辰砂を練った顔料で複雑な模様が描かれていた。
その足元には太極図の形に沿い、淡い光が放たれている。
さらに術者との間には、天上聖神大帝君勅命と朱印された札が真っ直ぐに立って浮かんでいた。
いよいよ、全身白い衣に着替え精神統一した遣天高主人士が、すっと魂転鈴を持った手を前に突き出す。
「さあ、お行きなさい。貴方の成功を祈ります」
そう言うと、その後ろで固唾を飲んでいた尹たちも、二人で同時に深々と拱手礼をした。
「行って参ります」
努めてはっきりと宣言した直後、けして大きくはない鈴の音が、けれども痺れるほどに空気を揺さぶる。
リーンと澄んだ音が一つ鳴るごとに、燦淨の身体は光に包まれ、やがて球体へと変化していった。
「主人士の門を潜りし不死の魂魄よ、我が名の元に地上の胎へと宿りたまえ。今一度運命を手繰る生へ、嘗ての人の名を返さん」
遣天高が術を唱え終わったや否や、ふわりと魂を内包した光の玉が浮き上がり、朱印の札と重なり交わる。
それが助走だったかのように、勢いよく玉は雲を割り降下して行った。
「行ったようじゃの」
一仕事終えた遣天高に話しかけたのは、金色の鎧に包まれ、真っ白な長い髭を生やした筋骨隆々とした老神仙である。
「ええ、鉄武汪殿の後押しも有り、物事が進みました。大変感謝しております」
そこに溌剌とした声で、悪戯っぽく茶々を入れる者が現れた。
「修行より辛いなんて言って、自棄に成らなきゃいいけどな」
「操安太殿、またそんな意地の悪い事を……」
桃の木にぶら下がりながらキシシと歯を見せて笑う姿は、逆毛だった赤毛も相俟りまるで猿であるが、これでも立派な三高神仙の一人であることに違いはない。
「安心しろよ遣天高、俺は子守の神仙としても地上じゃ有名なんだ。成人するまでの加護は絶やさないつもりだぜ?」
「それはそれは、心強い」
「まっ、重要なのはそっから先だろうけどな。後の事は知らね」
それだけ言い終えると、操安太吉津児は素早く姿を消してしまう。
「なあに、奴は素直でないだけじゃ。内心は此度の件、儂らと同様期待しておるのじゃろう」
鉄武汪人老君は恰幅の良い肩を揺らし、鼻をふふんと鳴らした。
「はい。皆様の期待に応えられると、私は信じていますよ」
それでも一抹の不安はあるのか、愛弟子の降りていった地上を、遣天高主人士は未だに見つめていた。
「燦淨……いいえ、人の子"紫水"よ。どうか、また私のもとへ帰って来てくださいね」