98 再体験の引き金
ツンツンとした黒の短髪に、細長い眉。得意げに上がった口角は、帝国へ向かったあの頃の表情と、なんら変わりない。
「一緒に避暑地を楽しもうと思って。きちゃった!」
父は茶目っ気たっぷりに片目を閉じたが、冗談に乗る気になどなれなかった。
「ふざけないでよ。いつからトランキルに戻ってたの!?」
「えーと、ひと月ぐらい前かな?」
「はい!?」
ひと月ということは、狩猟大会があった頃だろうか。
でも、母さんから届いた手紙にだって、そんなことは書いてなかったのに!
不満たっぷりの視線を受けながら、母は申し訳なさげに眉を下げる。
「ごめんね。父さんが、どうしても黙っててって言うから」
「いやあ。突然現れたほうが、ソフィアも驚くかと思ってさ。どうだった!?」
得意げな表情が、またなんとも腹立たしい。
「っ最悪よ!」
「ぐえっ!」
父親の脇腹を殴ると、ひしゃげたカエルのような声が漏れた。
「私が……私が、どれだけ心配したと思ってるの!」
ソフィアの視界がじんわりとにじむ。
そもそも『この世界』で、父が出稼ぎに出たのは、ここ一年ほどの話。
エリアスの誘拐事件が起こったとはいえ、母は父の安否までは案じていなかったのかもしれない。
けれども、一度死んでからこの世にやってきたソフィアにとって、失踪状態になっていた父親との再会は、実に五年ぶりの出来事なのだ。
涙を浮かべた娘を見て、両親は明らかに動揺している。
「ずっと……会いたかったんだから」
父の胸元にしがみつくと、少し戸惑いながらも、思い切り抱きしめ返してくれた。
「ごめんなあ、ソフィア! そこまで心配かけてるとは思わなかったよ」
「まあ、トランキルに戻ってきたことぐらいは伝えておくべきだと、俺は思ってたけどな」
エリアスは冷ややかに告げる。
「うっせえ! お前は俺が帰ってきても、なんも言わなかったじゃねえか!」
「親父がどこで野垂れ死のうが、知ったこっちゃないからな」
「はー? はー!? だから男は嫌なんだよ! 可愛げってもんがない!!」
「みなさん、仲がよろしいのですね」
喧々としている二人を眺めながら、レオンは穏やかな顔つきでにこつく。
「そう見えますかね?」
「ええ。ソフィア嬢とのやりとりも、なんだか新鮮でした」
「あーもー、やめてください! ひとまず、私たちは荷物を運び入れましょう」
レオンの背を押すと、父親が目を光らせたような気がしたのだが、無視を決め込むことにする。
「では、そのあとでゆっくり、ご家族とお過ごしください」
護衛騎士が和やかに微笑んだのが、つい先程のこと。
そして今は、なぜか難しい顔をした父が、ソファから身を乗り出すようにこちらを見ている。
「それで、ジラールの長男坊とはどんな感じなんだ?」
「……はぁ!?」
ソフィアが変な声を上げると、焼菓子を頬張っていたケビンが、驚いたように顔を上げた。
母は苦笑いを浮かべながら、兄は我関せずといった面持ちで、紅茶を口に運んでいる。
「なにを勘違いしてるのか分からないけど、レオンにとって、私はただの同居人よ?」
「『レオン』だぁ!?」
鼻息荒い夫をなだめつつ、今度は母親が尋ねてくる。
「レオン様は、ソフィアのことを大切に思ってくださっているご様子だったけれども」
「もちろん、とてもよくしてもらっているわ」
ソフィアは視線を外に移す。庭先ではレオンが、ジラールの騎士たちと剣を交えていた。
日頃から一緒に鍛錬を重ねているのかもしれない。身体を動かしながら、時に笑顔を浮かべているように見えた。
レオンはここのところ、よりいっそう逞しくなってきた気がする。
ソフィアが魔術で汗を吹き飛ばすと、それに気づいたレオンが、嬉しそうに手を振ってきた。
「いいか、ソフィア」
苛立ちを隠しきれない声で、父親が話しかけてくる。
「俺もジラール家のご当主様と面識があるとはいえ、ただの平民だ。身分の差は、そう簡単に埋められるものじゃないぞ」
「だから、そんな関係じゃないし!」
思いがけず強い声が出てしまい、慌てて口をつぐむ。ケビンがフォークをくわえたまま、不安げにこちらを見ていた。
「でもね、ソフィア。今はそうじゃないとしても、少しでも可能性があるなら、ちゃんと考えないといけないわよ」
ケビンの頭をなでながら、母は話を引き継いだ。
「もちろん、ソフィアはいずれお嫁に行くと思っているけれども。下町で誰かと一緒になるのとは、全く違う話なんだから」
「よっ嫁に行くなんて、俺は反対だぞ!?」
「あなたは少し黙ってて?」
笑顔でたしなめられ、父はしゅんと肩をすぼめる。
「子爵家に嫁げば、今までの生活に別れを告げなければいけない。全てを捧げてもいいという覚悟が、あなたにあるかしら?」
いつになく真剣な面持ちで、母は問いかけてきたのだった。
身分差の恋はうまくいかない。それは、前世でも嫌というほど思い知らされてきた事実だ。
公爵令嬢の身代わりとなり、ルイス王太子に焦がれた末に待ち受けていたのは、数々の裏切りと斬首の運命だった。
過分な願いは己の身を滅ぼす。今は元気に過ごしている家族たちも、あの世界では四人ともが、私の前から姿を消してしまったのだ。
特に兄弟たちは、私が身代わりさえ務めなければ、殺されることはなかったはずなのに。
だからこそ、ソフィアは身の丈をわきまえているつもりだった。そもそもレオンが、私に好意など抱くはずはないのだし。
当然のように、自分ではそう思っているのだが。
「はぁー? いいですかねえ、レオン様? ソフィアは昔から、下町の商人たちに揉まれて育ってきたんですよ。暗算ぐらいお手のものです!」
変に勘違いしているのか、あれから父親は、なにかにつけてレオンに突っかかっている。
厄介なことに、レオンとの関係をいくら否定しても、聞く耳を持ってもらえない。
父さんは、あからさまに失礼な態度を取り続けているのだから、レオンも怒ってくれればいいのだけれど。
「それは素晴らしいことですね!」
素直に感心している青年を見て、父は鼻高々な様子だ。
「ふふん。そうでしょう、そうでしょう! 財布すら持ち歩かないお貴族様には、難しいことかもしれませんがねぇ!?」
「ちょっとあなた」
「いえ、お父様のおっしゃる通りです。我々もまだまだ学ぶべきことがありますね」
間に入ろうとした母を引き止め、レオンは深々とうなずく。
「んんー? 俺は君の“お父様”ではないのだけれどー?」
「レオンに絡まないでよ、父さん! 本当に恥ずかしい……。二人からもなんとか言ってもらえません!?」
軽食の準備をしている侍女たちに意見を求めたが、イザベラに至っては、声をあげて笑い出してしまう。
「ソフィア様、よく考えてくださいよ! お父様はなにも知らない間に、どこの馬の骨とも分からない男に、大切な娘さんを連れ去られていたわけでしょう? それぐらいの意地悪は言いたくなりますって!」
おおよそ使用人らしからぬ言動だが、サラもそれを否定することはなく、涼しい顔で続ける。
「なにより坊ちゃまは、この状況に不満がないようですので。私たちから言うべきことは、なにもありませんね」
三人が話している間にも、レオンの「勉強になります」という声が聞こえてきた。
「嘘でしょ……」
賛同が得られず、ソフィアは思わず頭を抱える。
「まあまあ! 難しい話はこれぐらいにして、お茶にしましょうよ!」
イザベラの明るい提案を受けて、ようやく父はレオンを解放したのだった。
「今日のおやつはなにー!?」
ひと足先に席へ着いたケビンは、足をバタバタと動かしながら、はしゃいでいる。
「色々用意しましたので、楽しみにしていてくださいねぇ」
「ほんと!? わーい!」
賑やかな食卓へ、使用人たちは異国式のティースタンドを並べていく。
兄は恐縮しながらも、用意された食事を物珍しそうに眺めている。
なおもレオンに語りかけようとする父を抑えるべく、母は配偶者の腕を強く引き、たしなめているようだ。
ようやく腰を下ろしたソフィアは、静かに一息つく。
私は“流星の跡”を探している謎の存在から、姿を隠しているところで。犯人が見つかるまでは、家族たちも忍んで暮らさなければいけないのに。
久しぶりの、何気ない日常があまりにも幸せすぎて、そんなことはつい忘れてしまいそうになる。
状況は、何一つ変わっていないというのに。
「どうぞ、ソフィア様!」
「ありがとうイザベラ……っ」
目の前に届いたそれを見て、ソフィアは言葉を失う。甘くない食べ物として用意されていたのは、キュウリの挟まったサンドイッチだった。
「ソフィア嬢、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」
異変に気づいたレオンが、慌てて声をかけてくる。
「もしかして、キュウリは苦手ですか? 無理に食べる必要はありませんからね」
「大丈夫で……」
「君は、ソフィアの好き嫌いさえ把握してないのか!? ちっちゃい頃から、一度だってキュウリを残したことなんてないぞ。なぁ!?」
会話に割り込んできた父親は、悪気のない笑みを浮かべていた。
「う、うん」
みんなの視線がこちらに集まっている。
父の話すとおり、過去の世界では好んでキュウリを食べていた。
けれどもステファニーと出会い、初めてモンドヴォール邸で過ごしたあの夜。
ソフィアは“稀代の悪女”に心を許して、胸の内を明かしてしまった。それが、不幸の始まりだとも知らずに。
だからこそ、ソフィアはあの長い夜を思い起こさせる物を、これまで意識的に避けてきた。それは、こちらの世界でステファニーと仲良くなった、その後もだ。
「遠慮するなよ、ソフィア! お前から食べてもいいんだぞ!」
父の無邪気な笑顔が胸に刺さる。レオンは心配しながらも、その意見に同意するように、軽くうなずいた。
「姉さん、早く食べてよー!」
待ちくたびれたケビンが、退屈そうにカトラリーを掲げている。
「なら、お言葉に甘えて……」
ソフィアは動揺しながらも、そっとサンドイッチをつまみ上げた。一口食べれば、みんなも食事を始めてくれるだろう。
意を決したソフィアは、息を止めてサンドイッチにかじりついた。
「じゃあ僕も! いっただっきまーす!」
ケビンの声を皮切りに、食事が始まる。穏やかなティータイムの最中、ソフィアだけが完全に動きを止めていた。
『サンドイッチはお好き?』
頭のなかで、ステファニーの声が響く。
『ご家族のお話をうかがって、少し羨ましく感じてしまいました』
くぐもった音吐で語られた言葉は、本心なのか、それとも演技だったのか、今でも分からない。
全身がドクドクと脈打ち、嫌な汗がとめどなく流れる。
あの頃とは違うはずなのに。なぜだか鮮明に、ステファニーの言葉が思い出されてしまう。
牢獄に閉じ込められていた頃の、陰湿でカビ臭い空気が、すっぽりと私を覆いつくしていた。
『ささやかな幸せを大切にしていれば、このような結末にはならなかったはずなのに』
『私が生き残るために、ご家族の命をいただいただけですから』
甲高い笑い声が、いつまでも追いかけてくる。あんなことは、もう二度とご免だっていうのに!
「……ソフィア嬢! 落ち着いて、息をしてください」
気づけばレオンが、椅子から崩れ落ちた私を抱き起こしていた。
大丈夫だと伝えたいのに、掠れた空気音だけが、喉の奥から漏れる。
「レオ……」
「吐き出してください。全部!」
「うぅ」
ソフィアは口を押さえたまま、必死に首を振った。
「ごめんよう、ソフィア! 父さんが、父さんが急かしたりしなきゃ……!」
尋常でないほどに慌てる父の顔が、視界の端に映った。
違うの。父さんはなにも悪くない!
ぼたぼたと、とめどなく涙がこぼれる。必死に戦っているつもりだったのに、こんなにも縛られていただなんて。
情けない呼吸音が、ソフィアの体を震わせる。目の前がぼんやりと霞んできたような気がした。
「……失礼!」
レオンがソフィアを、がばりと抱き上げる。
「パウダールームまでお連れします」
「レオン……」
「黙っててください」
赤茶色の瞳には、静かな怒りが揺らめいている。
いつもより熱い手のひらを体に感じながら、ソフィアは意識を失ったのだった。
別作品となりますが、4300字程度の短編を更新いたしました。タイトルは「風立ちぬ、いざ生きめやも」です。
下にリンクを貼っていますので、ご興味がありましたらそちらもご一読いただけますと幸いです。




