97 ひとときの暇
森をぬうように作られた、街道を駆ける馬車のなかに、ソフィアたちは乗り込んでいた。
隣にはイザベラが、そして向かいの座席には、サラとレオンが腰掛けている。
「あと少しですからねー、ソフィア様!」
「はあい……」
何度聞いたか分からない、イザベラのこの声がけに、ソフィアはゆっくりうなずく。
一行は、ジラール家の所有している別邸を目指し、ずいぶん長いこと馬を走らせていた。
子爵夫人によると、目的地はのどかな自然に囲まれた、過ごしやすい土地らしい。
はじめの頃は、ぽつぽつと民家が見えていたが、この辺りには鬱蒼とした木々だけが生茂っている。
「今は森に囲まれていますが、屋敷は山の中腹にありますので、一味違った景色が堪能できますよ」
不規則に襲ってくる、激しい振動にも動じることなく、サラは涼しい顔で告げた。
「これから山を登るんですか!?」
青葉を眺めていたソフィアは、間の抜けた声を上げる。
「はい。馬車に乗ったまま、一気に駆け上がっていきますから、さして時間はかかりません」
とはいえ、山の姿も見えないどころか、森を抜ける気配すらない。もうしばらく、馬車での旅が続きそうだ。
「楽しみにしていてください、ソフィア嬢」
それまで黙っていたレオンが、ぼそりとこぼす。
「緑一色の世界に、黄葉や朱色、他にも様々な色が混ざり始めていくんです。まるで絵描きの使っているパレットのように、色鮮やかで美しい眺望が望めますからね」
細い目で遠くを見つめつつ、彼は語った。
夏の暑さが去るまで、レオンはソフィアとともに、避暑地に滞在することとなっている。
近ごろのレオンは、慌ただしく王城に通い詰めていたため、このように穏やかな表情を見るのは久しぶりだった。
「そんな素敵なところに、お邪魔させてもらえるなんて。本当にありがとうございます」
ソフィアが頭を下げると、イザベラは座席に腰掛けたまま、こちらへ身を乗り出してくる。
「邪魔だなんて、なにをおっしゃいますか! むしろ使用人一同、ソフィア様には感謝しているのですよ!?」
「感謝、ですか?」
勢いに圧倒されているソフィアへ、さらに侍女が畳み掛けてくる。
「ええ! いつも働き詰めで、休暇をとろうともしない坊ちゃまを、邸宅から連れ出してくださったのですから!」
そして私を崇めるように、顔の前で両手をこすり合わせた。
「本当に、皆が感謝しているのですよ。雇い主が働きづめだと、私たち使用人も、肩の力が抜けませんからね……」
横目でレオンを見ながら、サラも呟く。
「悪かったよ。今度からはちゃんと、休みをとるようにするから」
「ええ。是非ともそうしてください」
「見えてきましたよー、ソフィア様あ!」
侍女らの声が重なる。どうやら、ようやく森を抜けたらしい。
今までどこに隠れていたのか。馬車の進む先には、背の高い山々が広がっていた。
「あちらが、ジラール家の別邸です!」
イザベラの指した山腹には、石造りの古城がそびえ立っている。いくつか生えている尖塔が、なんとも特徴的な建物だ。
馬車は勢いを増したまま、山道を駆け上がっていく。くすんだ白茶色の城壁が、ぐんぐんと近づいてきていた。
マルクスは別邸にこないものの、辺り一帯に、幻覚作用のある魔術をかけてくれている。
どうもマルクスの許しを得ていない人間には、城が見えなくなる加工を施しているらしい。
それに加えて、あのお城には防御術もかけられているのだから、安心して避暑を楽しめそうだ。
「それにしても。今回はレオン様も、ずいぶん頑張りましたね? 先にお屋敷へお連れしているのでしょう?」
「その話はやめなさい、イザベラ」
サラに嗜められながらも、横にいる少女は、ニヤついた笑みを浮かべている。
二人の会話がなにを意味しているのかは、別邸に着いた瞬間に分かった。
「姉さーん!」
「……ケビン!?」
調子はずれな声が漏れ出る。
馬車を降りたばかりのソフィアに抱きついたのは、弟のケビンだった。
ジラール家の騎士と訓練をしていたのか、右手には木製の剣を握りしめている。
「どうしたの。あなたたちの避難先は、このお城ではないでしょう?」
「えへへ、レオン兄ちゃんがここまで連れてきてくれたんだ」
頬に垂れた汗を拭いながら、ケビンは嬉しそうに微笑んだ。
弟の額に張りついた前髪を、そっとつまみ上げる。最後に出会った時よりも、少し背が高くなったように感じられた。
「休暇の間くらいは、家族と一緒に過ごしてもいいんじゃないですか?」
続いて馬車から降りたレオンが、目尻をきゅっと下げた。
「なんとお礼を言えばいいか……。本当にありがとうございます」
「ソフィア!? ああ、元気そうでよかったわ!」
今度はお城から飛び出してきた母親が、ソフィアにがばりと覆いかぶさる。
「ちょ、母さん! レオンに挨拶するのが先でしょ!?」
「いいんですよ、ソフィア嬢。先日お会いした際に、丁寧なご挨拶をいただきましたから。それに、ここにお連れするまで、お母様とはじっくりお話ができましたし」
「……レオン。母さんから、なんの話を聞かされたんですか?」
じとりと薄目を向けたところ、彼は一気に顔をほころばせた。
「ソフィア嬢の、幼少のころのお話です」
「ほら、エリアスが手習所に通い始めたころ、寂しがったソフィアが、足にしがみついて離れようとしなかったこととか」
「わー! わー!? なんてこと喋ってるのよ!?」
慌てて母親の口を押さえたが、すぐに諦める。今さら黙らせたとしても、なんの意味もないのだから。
「可愛いじゃないですか。そんな妹がいれば、家から出たくなくなってしまうだろうなあ」
「やめてくださいよっ! 『可愛い』なんて、軽々しく言っちゃ駄目ですからね!?」
小声で咎めると、なぜかレオンは不満げに眉をひそめた。
「ですが、これは冗談ではなく本心です」
「なっ、そ、……もー!」
真っ赤な顔でレオンを叩くと、母は度肝を抜かれたように、目を丸くさせる。
「あなたずいぶんと、レオン様と親しくなったのね!?」
そこでふと気づく。いつもの調子でやり取りをしていたが、母さんからしてみれば、彼は子爵家の跡取りなのだ。
「いい、母さん? あくまでも、レオンとは友人として」
「お母様からもそう見えているのなら、喜ばしい限りです」
なんとものんきな声が、ソフィアの言葉を遮った。
「あの、ごっ、ごご誤解を招く発言は、控えていただけませんか、レオン……!?」
震えながら訴えるソフィアを見て、レオンは首を傾げる。
「誤解ですか?」
「そうですよ。今の返事だと、まるで私たちが、その……特別な関係みたいじゃないですか!?」
けれどもレオンは、『特別な関係とは?』とでも言いたげな表情を浮かべている。頭を抱えたソフィアに、今度はケビンが切り出す。
「姉さん。エリアス兄さんがきたよ!」
唐突な声がけに、一同は後ろを振り返る。
いつからそこにいたのか、兄は入り口近くの柱に隠れたまま、こちらの様子をうかがっていたようだ。
「なんでそんなところにいるの? ずっと姉さんに会いたがってたじゃない!」
「やめろよ、ケビン!」
初めは抵抗していたエリアスだが、柱の裏から強引に押し出されてしまう。
「私に会いたかったの? もしかして兄さん、記憶が……?」
ソフィアの胸が高鳴る。誘拐事件で悪質な魔術をかけられてからというものの、エリアスは妹の存在を、すっかり忘れてしまっていたはずだ。
けれども兄は、目を輝かせるソフィアから、視線を逸らしてしまう。
「すみません。まだ、思い出すことはできていなくて」
「そう、そうよね! そんな簡単にはいかないわよね、ごめんなさい」
うつむいた少女を見て、エリアスがうろたえる。
仕方のないことだとは分かっていても、兄の記憶から、自分との思い出だけがすっぽり抜け落ちてしまっているというのは、やはり悲しいものがあった。
「そんな顔をするな、ソフィア! ふとした拍子に、あっけなく思い出したりもするだろうよ」
大声を放った人物は、ソフィアの右肩をがしりと掴んだ。
「そうかもしれないけれど、不安にだってなるわよ。だって、母さんやケビン、父さんは忘れられてないじゃない」
ぽそりと呟いたあとで、ソフィアは勢いよく顔を上げる。
「嘘、父さん!? なんでここにいるの!?」
肩を抱いていたのは、帝国に働きに出ていたはずの父親だった。




