95 ある王子の憧憬
こちらは番外編で、第二王子フィリップ目線の過去編となります。
内容に一部性的な表現を含みますので、苦手な方はご注意ください。
薄暗く、人気のない廊下を、私は足早に歩んでいた。
王族の住まうこの領域にも、普段は使用人たちが控えている。けれども今は、母様の生誕祭のために、ほとんどの人員がパーティー会場へ駆り出されていた。
そろりと視線を落とすと、腕のなかの少女は、苦しげに瞳を閉じている。
「あと少しだけ、頑張ってくださいね」
そっと囁きかけると、彼女は私に体を預けたまま、力なくうなずいた。
ふわりとした黒髪が揺れるたびに、甘い香りが漂ってくる。高鳴る鼓動を悟られぬよう、私は足を速めた。
トランキル王国第二王子、フィリップ・ドゥ・トランキル。
生まれた時から、その肩書きを背負っている私には、決して打ち明けてはならない想いがある。
それは鮮烈に刻み込まれた、初恋のほろ苦い思い出であると同時に、今も私を悩ませる、独りよがりな占有願望でもあった。
「もうすぐですよ。部屋に着いたら、すぐ兄様を連れてきますからね」
素直にうなずくステファニーに、ざらざらとした醜い感情を抱きながら、私はわずかな反発心で、彼女を支えている指の先に、くっと力を込める。
長い執着の始まりは、まだ私が四つのころ。あれは兄様と侍女たちと、城内でかくれんぼをしていた時のことだった。
父様の執務室に隠れようと考えた私は、人目を盗んで部屋に忍び込んだ。さらに机の下へ潜ろうとした時に、思いがけなく『運命』と出会ってしまう。
「なんだろ、これ?」
袖机の近くに置き去りにされていた、小さな肖像額縁を引き寄せる。それは、その日初めて目にしたものだった。
歴代の国王が引き継いできた、年代物の机の上には、重要文書を保管するためのボックスが鎮座している。
その他にも、父様は執務を邪魔しない程度に、家族の肖像をいくつか並べていた。もちろんそれらの絵姿は、私も何度か見かけたことがある。
しかし、いくら記憶を辿ろうと、手のひらに収まるほどに小さな金の額縁には、見覚えがなかった。
さらにそこへ描かれているのが、家族の誰とも似ていない人物なのだから、ひどく戸惑ったことは覚えている。
私が出会ったのは、十代後半と思われる麗しい少女だった。
黒炭のように艶やかな髪とは対照的に、透き通るほどに真っ白な薄肌。さらに藤の花色をした、大きな瞳がきらめいている。
私は食い入るように、彼女を見つめた。
この人は誰なのか。少なくとも、城内で少女を見かけたことは、一度もない。
おそらく父様は、袖机に額縁をしまうつもりで、忘れてしまっていたのだろう。
指先でそっと、少女の輪郭をなぞる。もしかすると、私たち家族にも隠しておきたい相手なのかもしれない。
それは、密かに想いを寄せる相手か。それとも、どこかにもうけた落とし胤だろうか。
無垢な笑みは、まっすぐにこちらを見つめている。その純粋な目に、心を奪われていた私は、父様が部屋に戻ってきたことになど気づきもしなかったのだ。
「フィリップ」
体温のない呼びかけに、背筋が凍りつく。恐る恐る顔を上げると、机を隔てた向かいには、トランキル国王がたたずんでいた。
「それを渡しなさい」
父様が落ち着き払った口調で話すのは、猛烈に怒っている証拠だ。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて突き出した額縁を、父様は素早くもぎとっていく。
「今日ここで見たものは、全て忘れるんだ。いいな」
凍てつくほどに鋭い視線を向けられて、私はうなずくことしかできなかった。
それからいくらか年月が経つ。私はいつも、あの面影を探していた。
春の日だまりを思い起こさせる、朗らかな面立ち。穢れなど知らぬであろう、清廉な風采。
一瞬の邂逅が、私の心をがんじがらめにしていた。
もはや熱病のような、狂おしい想いを抱えながら、あれは夢だったのかもしれないと思い始めていたころに、私は『最愛』と巡り会うことになる。
「お初にお目にかかります、フィリップ殿下。ステファニー・ドゥ・ラ・モンドヴォールと申します」
しずしずとした膝折礼に、心の臓がざわつく。
波打つ艶やかな黒髪と、さくらんぼのような瑞々しい唇。白い肌の上には、ラベンダー色の瞳を覆うように、長いまつ毛が伸びている。
私は直ちに悟った。この少女は、絵姿の君ではない。
けれども同時に、こうも感じたのだ。私が望んでいたのはこの娘だ、と。
「どうした、フィリップ。ステファニーに会いたがっていたであろう?」
公爵令嬢の隣には、不機嫌そうな顔をした兄様が立っている。
そう、次期王太子妃候補に選ばれたステファニーは、これまで望むものを全て享受してきた私が、唯一手に入れることのできない存在だったのだ。
その後どういう会話を交わしたのか、あまりよく覚えてはいない。なんとか自室へ帰り着いた私は、声を殺して悔し涙をこぼしたのだった。
今にして思えば、あの肖像画の乙女は、ステファニーの母親だったのかもしれない。亡きモンドヴォール公爵夫人であり、お祖父様の公娼だったと言われているお方。
ということは父様も、叶うことのない想いに身を焦がしていたのだろうか。相手がこの世を去ってからも、未練がましく肖像を眺め続けてしまうほどに。
私も、そうなってしまうのか?
終わりのない苦しみを想像するだけでも、ゾッとしてしまう。
このままではいけない。早く振り切ってしまわなければ、どんどん辛くなっていくだけだ。
それからは余計なことを考えずにすむよう、空いた時間を埋めていくところから始めていった。
剣術に力を注いだり、父様の公務に同行したりと、精力的に動いてはみたが、それでもステファニーへの想いを断ち切ることはできなかった。
忘れようとすればするほど、より鮮明に、彼女の姿がまぶたに浮かんでくる。
さらには、片恋を終わらせるつもりの行動が引き金となり、一部の臣下から、王座を第二王子に譲るべきだという声まで上がり始めてしまう。
そんなの、あり得ない話だ。
兄様はとびきり優秀で、それでいて研鑽を怠らない努力の人で。
感情に左右されることなく、時には非情な決断をも下すことのできる、統率者に相応しき人物だ。
だが、ステファニーが『王太子の妃』になると定められているのであれば。
私にも可能性があるのではと、ほんのわずかに思ってしまった己の考えを、すぐに恥じた。
彼女は兄様の隣に立てるよう、必死に王太子妃教育に励んでいる。私が国王を目指すということは、すなわち、ステファニーのひたむきな心を折る行為に他ならない。
私にできるのは、兄様の地位を脅かさない、無欲な弟であり続けることだけだ。王位など、モンドヴォール公爵令嬢になど興味はないと、皆に思い込ませなければならない。
それからの私は、さながら道化の心持ちだった。
野心的な家臣から逃れ、時折投げかけられる甘言には、気づかないふりをし続ける。
その甲斐もあってか、第二王子派と名乗っていた貴族たちの一部は、私の元を離れていった。
それに、思いがけない変化が起こる。幼さを演じる私に、ステファニーが心を開いてくれるようになったのだ。
彼女が城を訪れる機会は少なかったものの、私はなにかと理由をつけて、顔をのぞきにいった。
兄様は、定例のお茶会以外では、ステファニーに会おうともしていなかったようだけれども。
純朴な義弟を装いつつも、本当は彼女が透き通った笑みを向けてくるたびに、頭がぐらつくほどの衝撃に襲われていた。
このまま抱き寄せられたならと、何度思い描いたかは分からない。しかし、ステファニーが私の本心に気づいてしまえば?
きっと彼女は、下卑た想いを抱く私に幻滅してしまうだろう。
だからこそ、これ以上は近づきすぎないよう、気をつけていたというのに。
「行かないでください、殿下」
私はすっかり混乱していた。ステファニーの細い腕は、私を引きとめるかのように、腹の辺りに絡みついている。
「ど、どうなさったんです!? 兄様ではなく、宮廷医を連れてまいりましょうか?」
うわずった声で、たどたどしく尋ねる。柔らかなふくらみが、背中に押し当てられているのは、布越しでも伝わってきていた。
「気分が悪いというのは、嘘です。本当はただ、あなたと二人きりになりたかっただけで」
「な……なにか私に、相談事でもありましたか!? とりあえず、その手は離しましょう。誰かに見られたら、なんと勘違いされるか」
けれどもステファニーの腕は、より強く私を抱きしめる。
「いいのです、勘違いではありませんから。ずっと、こうしたいと願っていたのです、殿下」
「はは……ご冗談を!」
「打算と駆け引きのあふれる王城で、ありのままの私を見てくださっていたのは、フィリップ殿下ただお一人でした」
突き放さなければいけないと、頭では分かっているはずなのに。若い血潮が、身体中を沸き立たせていく。
「そんな、そんなことないですよ。兄様だって、あなたを大切に思われていますし。ほら、これぐらいにしておいてもらえませんか?」
「今日が最後の機会だと思っております。ご迷惑であれば、そのまま私を置いていってください。ですがもし、殿下が私と同じ気持ちであるなら、こう呼んではいただけないでしょうか。……“フィー”と」
彼女は静かに距離をとり、上目遣いでそう請うた。
「自分の気持ちを偽るのは、やめにしたいんです。フィリップ殿下も、正直になってください。私の前では、無理に明るく振るまわなくたっていいんですよ」
「明るくだなんて、そんな」
乾いた唇から、掠れた声がこぼれる。
「本来の殿下は、聡明で謙虚なお方です。なのにお調子者を演じているのは、大切な兄君の立場を脅かさぬよう、配慮されてのことでしょう?」
「なんで」
なんで分かったのか、と問いかける前に、目から涙があふれ出た。
道化を装っていても、彼女はありのままの私を、ずっと見てくれていたのだ。他の誰でもない、最愛の人が。
静かに近づいてきたステファニーは、涙でぐしょぐしょになった私の頬を、優しく包み込む。
「……フィー」
小さく呟くと、彼女は驚いたように口を開けてから、ふわりと微笑んだ。
「フィー」
「はい?」
両の頬を覆う、小さな手を掴みとり、そのままの勢いで唇を落とした。想像よりもふくらかな厚みが、私の心をときめかせる。
ステファニーは一度だけ、ぴくりと体を震わせたが、すぐにこちらへ身を委ねた。
それから二度、三度と軽いキスを交わし、思い切り彼女を抱きしめる。
「私はずっと、あなたのことが好きでした」
「知っていましたよ」
その時のステファニーの表情は、これまで彼女が見せてきた、どんな顔とも違う、蠱惑的なものだった。
ゾクゾクとした快感が、全身を駆け巡る。無言でステファニーを抱き上げると、そのまま寝台になだれ込んだ。
窓の外では、花火が上がり始めたらしい。激しい音に合わせて、彼女のロングドレスがきらきらと輝く。
兄様の目と同じ、銀灰の色をした装い。
ここは兄様の私室で、そして彼女は、私の義姉となるはずの人だった。
けれど、もはやそんなことはどうだっていい。
彼女が私を求めている。それだけで、全てが満たされていた。
すみれ色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめる。そこには、己の欲望を隠そうともしない、獣のような男が映っていた。
なんて醜悪な姿だろう。それでも彼女は、私を受け入れると言ってくれたのだ。
両足の間にひざを滑り込ませたところ、思いのほかあっさりと、彼女の半身があらわになる。ほどよい肉付きの、きめの細かい柔肌だった。
恥ずかしさに身をよじる姿が、なんとも愛おしい。私は彼女を押さえ、唇を激しくむさぼる。
「はぁ……フィー、愛しています……」
「……お好きになさってください、殿下」
甘い声で彼女がささめく。私はステファニーの足を持ち上げ、たわやかな内ももに、ゆっくり吸いついた。
次話は番外編の更新を予定しています。




