92 勝者はどちらか
黒煙が周囲に立ち込める。大火に襲われた木々は、爆ぜる音をぱちぱちと放ちながら、炎を上げ続けていた。
「嫌っ! そんな……ステファニー様ぁ!」
リリーに羽交い締めにされたまま、クロエが泣き叫ぶ。
王后や衛兵たちは、なんとか天幕のなかへ戻ってこれたようだ。
ただ、爆発に巻き込まれた二人の安否は、いまだ分からない。
「シャリエ。まだ、魔術は発動できませんか」
王后は絞り出すように問いかける。
「長らくお待たせいたしました。視界が開きましたら、すぐに術をかけます」
シャリエは荒い息遣いで、両手を前に突き出す。膜の外に広がっている黒い靄は、次第に薄まりつつあった。
霞んだ世界の真ん中に、巨大な生物の影が、ぼんやりと映り始める。
「ステファニー様っ! どうか、どうか返事をしてください……!」
クロエは地面に座り込み、さめざめと泣き崩れる。口にこそ出さないものの、その場にいる全員が、最悪の結末を予想していた。
魔術の準備も整ったからか、兵らが一人、また一人と銃を下ろしていく。
諦めの空気が流れ始めた頃、不自然に静まり返った森に、枝葉の折れる音が響いた。
「まさかとは思うけどさ。トカゲ風情が、僕の研究を邪魔してくれちゃったわけ?」
指の鳴る音とともに、暗い靄が霧散する。
「マ、マーケル魔導士長おぉお」
シャリエの情けない声が響き渡った。
怪物の前に立ちはだかっているのは、狩猟大会への参加を拒否していたはずの、マルクスだ。
苛立ちをぶつけるように、足元に広がった落枝を、何度も踏み締めている。
「あ! クロエ様、見てください! お二人ともご無事ですよ!」
リリーが指した先には、互いを支え合うようにかがみ込んでいる、ソフィアとレオンの姿があった。
「ああっ。よかった……」
それだけ言い切ると、クロエは両手で顔を覆い、わんわんと泣き始める。
一方でソフィアはというと、現状を理解できずに混乱していた。
あの時、確かにレオンとともに、炎に飲み込まれたはずだ。けれども、火が私たちに燃え移ることはなかった。
爆発は二人を避けるようにして、周りの樹木だけを破壊したことになる。
そういえば、ものすごい音が左耳の近くから聞こえたわね?
耳たぶに触れたソフィアは、そこでようやく気がつく。マルクスからもらったピアスが、いつのまにかなくなっていたことに。
「まあ、君も災難だね。僕は今、すこぶる機嫌が悪いんだ」
マルクスはすたすたと魔獣に近づいていく。相手は口をぽかんと開けたまま、硬直している様子だ。
「せめて、楽に逝かせてあげるよ」
魔獣に向けて、マルクスが手をかざす。すると驚くべきことに、たちまちのうちに巨体が爆散した。
それは、断末魔の叫びをあげる暇さえ与えないほどに、容赦のない攻撃だった。
黒い肉片が、そこらじゅうに飛んでいく。肉塊からは、魔獣が再生する兆しもない。
おそらくあの一瞬で、マルクスは魔核も破壊し尽くしたのだろう。それは、誰もが言葉を失うほどの、圧倒的に強い力だった。
「で。二人とも怪我はないわけ?」
「あ、ああ。お前のくれた、魔導具のおかげでな」
レオンに手を引かれたソフィアは、ゆっくり立ち上がる。目を覆いたくなるほどに、周辺には魔獣だったものが散乱していた。
ふらりと近づいてきたマルクスを見て、ソフィアはぎょっとする。久方ぶりに会うマルクスの目元には、深い隈が刻み込まれていたからだ。
「ちょっと、どうしたのよ。ひどい顔じゃない」
「やめろよ!」
ソフィアが頬に触れようとしたところを、マルクスが雑に叩き落とす。
「僕は……大丈夫だから」
マルクスは目を逸らしたまま、天幕の方へ歩いていった。
「お久しぶりです、陛下。トカゲはちゃんとやっつけましたので」
「そのようですね。見事でしたわ、魔導士長」
唖然としていた王后が、取り繕うように笑顔で応える。
「大会は中止でしょうし、この二人は連れ帰りますよ。報告書は後日あげますから」
「ちょっと待ちなさい、魔導……」
王族からの命令を無視したマルクスは、無情にも指を鳴らし、ジラール邸へレオンとソフィアを連れ帰ったのだった。
「みなさま、おかえりなさいませ……ってえええぇえー!? なんですか、その汚れはっ!?」
「汚れ? って、うわあ」
イザベラの絶叫で、ソフィアは初めて、自分たちも真っ黒な液体に染まっていたことを知った。
「よく洗い流してもらうんだね。どうやら、あまりいい魔力ではなかったようだから」
マルクスは自分の身を守っていたのか、一滴たりとも体液を浴びていないようだ。
「ねぇ、マルク……」
「もう疲れたから、僕は部屋へ帰るよ。すぐに眠っちゃうし、無理矢理押しかけてきたりしないでね」
マルクスは自分の話だけをすませると、一つ指を鳴らして、その場から姿を消してしまった。
「なんなのよ、いつもなら無駄話ばっかりするくせに」
ぶつぶつと不満を漏らすソフィアのそばから、レオンも静かに離れていく。
「サラ、イザベラ。彼女を先に、浴室へ連れていってくれ」
「そんな! 駄目ですよ、レオン様がお先にどうぞ」
護衛騎士を慌てて引き留めると、彼はくるりと振り返り、薄い目でこちらを見下ろした。
「よろしいですか、ソフィア嬢」
「は、い?」
瞬きのない瞳に見据えられ、ソフィアはたじろいでしまう。
「湯浴みが終わりましたら、私の部屋へきてください。絶対にです」
「……はい」
有無を言わせぬ物言いに、大人しく従うことにする。
サラたちに風呂場まで連行されてからは、流れ作業のように服を脱がされ、湯船に放り込まれ、そしてつるぴかになるまで、二人の手で磨き上げられたのだった。
身軽な格好に着替えたソフィアは、約束通りにレオンの私室へと向かう。部屋の戸を叩いたのは、ちょうど彼が髪を乾かし始めたところだった。
護衛騎士は前髪に雫を垂らしたまま、こちらを振り返る。緩く閉じられたシャツの隙間からは、たくましい胸板がのぞいていた。
「ごっ、ごめんなさい! 一度部屋へ戻りましょうか!?」
ソフィアは慌てて背を向ける。これまで男性の素肌など、家族以外のものは見たことがなかった。
「いいえ、大丈夫です」
背後から声が届く。熱くなった顔をパタパタとあおぎながら、ソフィアが後ろの様子をうかがうと、タオルで豪快に髪を拭いていくレオンの姿が目に映った。
「お待たせしました。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
レオンは首にタオルを下げたまま、引き寄せた椅子にソフィアを招く。そっと腰をかけると、彼は大きなため息をついた。
「どうしてあなたは、こうも無理をなさるのですか?」
彼はもう一脚の椅子を持ち上げると、ソフィアの正面まで運んでくる。
そのまま静かに腰を下ろし、厳しい目をソフィアに向けた。
「もう少しで、死ぬところだったんですよ!?」
丁寧な口調ではあるが、レオンにしては珍しく、本気で怒っているらしい。
「ごめんなさい。さすがに今回は、軽率だったと思います」
「いいえ、今回だけではありません! 誘拐事件の時も、無事に帰ってこれたのが奇跡のようなものですし、こないだの大会だって、自ら危険に首を突っ込んで!」
「それはそうですけど、でも」
「勝手には動かないでください。でないと、あなたを守ることができません」
レオンの一方的な主張に、ソフィアは引っかかりを覚える。
「じゃあレオン様は、私が大人しく防御膜の中にいればよかったと、そう思っていたのですか?」
「ええ、その通りです!」
おずおずと尋ねたソフィアに向かって、護衛騎士は強く言い切ったのだった。
ソフィアは太ももに載せていた手を、ぎゅっと握りしめる。
いつもなら、素直に謝罪をするところだろう。けれど、ありがたいはずの過保護さが、今はどうにも腹立たしく感じられた。
「申し訳ありませんが、そのお話には承服致しかねます!」
強い反論に、護衛騎士は目を丸くさせる。
「私……レオン様には色々助けていただいて、本当に感謝してるんです。ほら、私のことだけじゃなくって、家族のことも。でも、守られてばかりは嫌なんです」
レオンはこちらを制止しようとしていたが、ソフィアが真剣に話しているのが伝わったからか、伸ばした手を引っ込めてくれた。
「せっかく魔術を学んでいるのだから、自分のためだけじゃなくて、みんなを守るために頑張らせてください。それに剣術大会のことなら、私以外の誰が、あの場でレオン様の力になれたって言うんですか? 医務官が到着するまで保たなかったかもしれないし、そもそも私が、どれだけ心配していたか分かります!?」
一気にまくしたてられたレオンは、圧倒されたように頷く。あまりにびっくりした表情を見て、ソフィアは我に返った。
「あ!? すっすみません、生意気な口をきいて!」
「いいえ。おっしゃっていることは、おおむね理解できました」
レオンはそこで言葉を止めると、顔を下げて黙り込んでしまう。
「な、なに? なんですか、レオン様?」
びくびくと尋ねる少女に向かって、レオンは顔をほころばせた。
「なんだか新鮮だと思って。あなたに叱られるのは」
「ちょっと。冗談はやめてくださいよ!?」
「冗談ではなく。そういうふうに、もっと気さくに話してください。マルクスとは、そんな感じじゃないですか」
身を乗り出したソフィアに、護衛騎士は真面目な顔で答えたのだった。
なんだか今日のレオンは、いつもより饒舌な気がする。
「レオン様と違って、マルクスはふざけすぎだから、怒鳴らざるをえないというか」
言い訳がましく、ごにょごにょと口ごもるソフィアに対し、彼はこう続けた。
「その『レオン様』というのも、そろそろやめませんか? 私のことも、マルクスのように呼び捨てにしてください」
「それは、いいですけど」
ソフィアがじっと見つめると、レオンは微笑みながら、不思議そうに首を傾ける。
「レオン様……レオンって、もしかしてマルクスのことを、ものすごく意識されてるんですか?」
レオンは一瞬だけ、大きく目を見開いたかと思うと、今度はくつくつ笑い始めた。
「えっ。ちょ、なんで笑うんですか!?」
「いえ、なにもないですよ。ふふっ」
誤魔化そうとしているのか、口元を腕で隠して、顔を背けようとする。
「それ絶対に、なにかあるやつじゃないですか!?」
ソフィアが必死にのぞき込もうとすると、レオンは片眉を下げて、こちらに向き直った。
「まったくもう、あなたには勝てませんね」
それはまるで、親が愛子に向けるような、あたたかい眼差しだった。
初めて見る柔らかな表情に、胸がきゅっと締めつけられる。
私には勝てないって? そんなわけないじゃない。
突拍子もない発言に、その大胆な行動に、いつだって振り回されているのは、こっちのほうなんだから。
ソフィアがレオンを見つめると、きらきらとした赤茶色の瞳が、こちらに向けられた。
「どうかなさいましたか?」
「……レオンはずるいです」
「ずるい? 私が!?」
面食らった護衛騎士の顔を見て、ソフィアは思わず吹き出す。
「あ、あの! どういうところが、ずるかったですか!?」
「言いませんよ。言うわけないじゃないですか」
返答を聞いて、レオンは絶望の表情を浮かべる。
ソフィアは肩を震わせながら、ニヤリと微笑んだ。たまには私と同じように、振り回されてしまえばいいんだわ。
 




