90 暗黒竜の核
国王のお膝元であり、王都の中心部に位置する狩猟の森。かつてこの土地には、今よりも広大な森林地帯が広がっていたという。
もちろんその頃は、王城の影すらも存在していなかった。
遡ること百数年。当時のトランキル国王は、狩猟の際に訪れたこの場をいたく気に入り、小さな城館を築いた。
それから何度も増改築が繰り返され、現在の王城に至ったとされている。
やがて、森を取り囲むように民も集まり始め、周辺には煌びやかな王都が形成されていった。
そして今、長らく平穏を保ってきたこの森に、未曾有の事態が訪れている。
奇怪な鳴き声に、不気味な移動音を伴い、謎の怪物が樹木を薙いでいく。危険を感じた野生生物たちは、すでに四方八方へ逃げ出していた。
「王后陛下、事態は一刻を争います。幸いなことに、あの生き物は素早く動くことができません。すぐにここを出れば、全員逃げ切れるはずです」
レオンは淡々と話しながら、天幕の周りに集う警備担当者を確認しているようだ。
「ジラール大尉、貴重なご意見をありがとうございます。ですが、安易にここを離れるわけにはいきません」
「と、おっしゃいますと?」
化け物に目線を送りつつ、レオンは簡潔に問いかける。
「王城があるのは南東の方角。ですが、木々の生い茂った猟場を、大所帯で走り抜けるのは得策ではありません。となれば、まずは森を出るのが賢明でしょう。ただ、まっすぐに北側へ向かったとしても、森の外には」
「……王都が広がっていますね」
言い淀む王后に代わって、レオンが話を継いだ。
「陛下が憂慮されているのは、国民たちに危険が及ぶ点ですか?」
「その通りよ」
王后が大きく頷いた、ちょうどその時。国王を城へ送り届けたシャリエが、ようやく森へ戻ってきた。
「お、お待たせいたしましたぁ〜」
彼はおぼつかない足取りで、こちらに近づいてくる。
王后は魔塔の代理責任者に向けて、声を張り上げた。
「よく聞きなさい、シャリエ! 私はあの生き物を、森に留めておきたいと考えています。例えばの話ですが、この防御膜の構造を反転させたもので、怪物を閉じ込めることはできませんか?」
「ええっ!? そうですね……理論上は可能です。とはいえ、決して安全とは言えません。複数人で魔術をかけたとしても、内側から攻撃を受けてしまえば、少しずつ傷がつきます。私たち魔導士が術を重ねていくことで、ある程度保たせることはできますが、それも時間の問題でしょう」
「時間稼ぎができればいいのです。圧倒的に戦力の足りていない今、無駄に戦闘を重ねるべきではありません。きっと国王陛下も、城で策を練られているはず。なら私たちは、応援部隊が到着するまで、あの黒い怪物を足止めできればじゅうぶんでしょう」
こうして話している間にも、怪物は徐々に距離を詰めてきている。粉塵の奥から伝わってくる、圧倒的な存在感に、肌が粟立ってしまう。
ここからだとトカゲのような、薄べったい体型をしているように見えていたが、背の高さは私の二倍ほどもありそうだ。
ソフィアは、混乱しているリリーとクロエの手を優しく握る。
王后様はここに残るとして、私たちはどう動くべきか。みんなで走って逃げる? けれども、私たちを狙って、あいつが追いかけてくる可能性もある。
だとすれば、王后の計画通りに新しい防御膜ができるまで、天幕に留まるしかないだろう。
そもそも、あの生き物の正体はなんなの? ソフィアはふと思い立ち、慎重に目を細める。
シャリエから魔獣の話を聞かされたのは、つい先日のことだった。
「魔獣というのは、簡単に説明すると、莫大な魔力を帯びた獣の総称です」
彼は黒板に向かい、独特なタッチで四つ足の生物を描き込んでいく。マッチ棒のように細長い手足に、視点の定まらない目元。
いかにも“魔獣”といった外見だが、会話から察するに、シャリエ自身は犬を描いたつもりらしい。
魔力は人間だけでなく、全ての生き物に宿っている。そのため、魔力を持て余した動物たちが、己を制御できず、暴走する事件が時折あるそうだ。
「一口に魔獣と言っても、凶暴化してしまう要因は様々ですね」
奇天烈な犬の横に、シャリエは細かい字を几帳面に書き連ねていく。
まずは元々持っている魔力を、獣自身が扱いこなせていない場合。
けれども人間以外の生物は、その身に微弱な魔力を宿すのみで、それが原因となって魔獣化する事象は、ほとんどないらしい。
最も可能性が高いのは、異なる魔力を注がれた場合になる。
こちらは意図的に引き起こされたものだけでなく、生物同士の接触により、偶発的に発生することもある。
ただどちらにしても、体内に注がれた魔力が全て放出されれば、自然と大人しい状態に戻っていくのだそうだ。
「一番悪質なのは、獣の体内に“魔核”が埋め込まれた場合でしょう」
シャリエは赤いチョークでぐりぐりと、犬の体に丸い塊を書き加えていく。
『魔核』という言葉は、魔導具を作成する際に、魔導士が無機物に付与する魔力の塊を指している。
「でも先生。単純に魔力を注いだ場合と、なにか違うことでもあるのですか?」
無機物に核を埋め込むのは、魔力の受け皿が存在していないからだ。
では、生物の体内に直接魔力を注ごうと、魔力の塊である魔核を埋め込もうと、大した違いはないのでは?
「そんなの、全然違うに決まってるじゃないですか!」
ソフィアの素朴な疑問を、シャリエは明確に否定したのだった。
彼の話によると、生物に魔核を埋め込む利点は二つあるという。
まず第一に、生き物には魔力の限界値が存在している。
そのため、本来は許容量を超えた魔力が注がれると、器本体が壊れてしまう。すなわち、生命活動が停止してしまうのだ。
けれども、魔核に封じられた魔力は、一気に体内へ放出されることがなく、使用する際も魔力量の調節が可能となっている。
つまり、どれほど膨大な魔力量を秘めた魔核が、体内に埋め込まれたとしても、すぐさま死に直結することはないのだった。
そして第二の利点は、魔核に潜ませておいた魔力を、好きなタイミングで放出できるということらしい。
「つまり、魔獣を解き放つ時分を、術者が操れてしまうわけですよ」
苦い思い出でもあるのか、自身の腕を強く掴みながら、シャリエは語った。
「とはいえ、魔核にも欠点があります。核自体には容量がありますし、かといって一つの物体には、一つの核しか埋め込めません」
「では、二つ以上の魔核を埋め込むと、どうなるのですか?」
生徒から問いかけられたシャリエは、にっこりと嬉しそうに微笑む。
「二つ以上の魔核を埋め込んだ場合、核同士が反発し合い、どちらも消滅してしまいます。そう簡単には、悪いこともできないのですよ」
そんな会話を思い出しながら、ソフィアは瞳に魔力をまとわせる。
さあ、この黒い魔獣は、なにが原因で暴走しているというの?
ゆっくりと目を細め、怪物の体を見渡したソフィアは、すぐに言葉を失った。
それは、その生き物の身体にあるはずのものがなく、ないはずのものがあるからだった。
「ステファニー様?」
「どうかなさいましたか?」
ふらりと歩き出したソフィアを見つめながら、クロエらが不安げな声を上げる。
その様子が心配だったのか、レオンまでもがこちらへ駆け寄ってきた。
「……シャリエ先生っ!」
防御膜の展開方法について、魔塔の人間たちと話し合っている師に向かい、ソフィアは必死に声を投げる。
「あの魔獣の、魔力の流れを見ていただけませんか。どう考えたっておかしいんです」
「どういうことですか?」
怪物を見つめ直したシャリエは、はっと目を見開く。
「先生。獣は生きているはずなのに、魔力が体内を巡っていないんです。そのうえ、身体の至るところに、魔核が埋め込まれているでしょう……!?」
ソフィアの眼には、ざっと見ただけでも、二十近い魔力の塊が映っていた。




