89 怪異との対面
国王に仕える騎士や魔導士たちは、主君らの隠れている天幕を守るべく、周囲に厳戒態勢を敷いている。
「あれはいったい、なんですの?」
ソフィアの腕にしがみつきながら、クロエがこそりと囁いた。
リリーも二人の背中にへばりつき、体を震わせている。
突如現れた謎の生物は、森林を破壊しながらも、一つところに留まり続けていた。襲撃主の全貌は把握できないものの、尖った黒い翼が特徴的だ。
「元来この森に生息している生き物でないことは、明らかですね」
王后は魔導士の作った防御膜の内側から、慎重に外の様子をのぞき見る。
大会に参加していた者たちが、前線では戦っているのか、銃声が絶え間なく鳴り響いていた。
「なんにせよ、そなたが無事でよかった」
国王は妻に近づき、優しく腰を抱く。けれども、隣に寄り添う夫に向かって、彼女は毅然とした態度で告げた。
「陛下。シャリエが戻りましたら、真っ先にここからお逃げくださいね」
「ならん。そなたが先に、城へ戻るのだ!」
「なにをおっしゃいますか」
王后は静かに首を振るう。
「御身お大切になさってください。私の代わりはいれど、陛下の代わりとなる人間は、この世に存在しないのですから」
そして、夫が肩にさげている猟銃へ、そっと指を伸ばす。
「もしや、私が銃の扱いに長けていることを、お忘れになられました?」
「まさか……あれと戦う気か!?」
蒼白な顔で、国王は武器を抱えた。
「いざという時は、です。私だって、陛下を残して死ぬつもりはありませんから」
猟銃を半ば強引に受けとった王后は、無邪気な笑みをこぼしている。
「たしか王后陛下は、狩猟がお得意であられると耳にしたことがあります。それも、国王陛下を凌ぐ実力だとか」
ソフィアの耳元で、クロエが呟く。
とても穏やかな、女性らしいお方だと思い込んでいただけに、それは意外な話だった。
「そなたの才能を、疑っているわけではないのだが……」
国王は難しい顔をしながら、こちらへ向き直る。
「ステファニー。そなた、多少は魔術が使えるのだな?」
「さっ左様でございます、陛下!」
逡巡を巡らせていた国王は、苦々しげに「ええい」とこぼしてから、高らかに宣言した。
「ステファニー・ドゥ・ラ・モンドヴォールに命ずる。我が后が無事に退避するまで、危険が及ばぬよう、そばで見守っていてくれ」
「陛下! なんてことを頼むのですか。ステファニーはまだ幼い子どもですよ!?」
「そなたは黙っておれ!」
険しい顔で、国王は妻を睨みつけた。耳を傾けていた衛兵らも、戸惑いの表情を隠しきれない。
それもそうだろう。魔術を学び始めた公爵令嬢でなくとも、腕利きの魔導士たちが、会場には大勢控えているのだから。
魔塔は国王直属の組織。彼が指示を出せば、命を賭けてでも王后を救う義務がある。
けれども、魔導士たちでは王后の行動を制限することまではできない。おそらく、国王が最も恐れているのは、王后が自ら戦線に立とうとする未来のはずだ。
月白のひたむきな眼が、ただ、ソフィアだけに向けられている。“ステファニー”は、彼が恨んでやまない、モンドヴォールの娘だというのに。
私の考えが正しければ、国王が“公爵令嬢”に求めているのは、護衛としての役割ではない。
災厄が近づいてきた際、もしも“ステファニー”がそばにいれば、王后は彼女を巻き込まないようにするため、己の行動を制限せざるをえなくなる。だからこその人選だろう。
ならば、答えは一つだった。
「ご用命しかと承りました」
先生が戻ってくるまでの間、“ステファニー”として、見習い魔導士として、王后様に張りついておくしかないわ!
決まりが悪そうに、王は頭を下げる。それから彼は、多くを語ることもなく、城から戻ったシャリエと姿をくらませたのだった。
「あれ? でもマルクスは、三人同時に私たちを転移させてなかった? 一人ずつ運ぶより、ずっと効率的だと思うんだけど……っていたたたた!?」
砕けた言葉遣いをするリリーを、クロエは盛大につねりあげる。
「ああーっと! あれができたのは、マルク……魔導士長だからですよ!」
暴れる二人を背中で隠しつつ、ソフィアが大袈裟に喚く。
「魔導士が物体を転移させる場合、対象物が大きければ大きいほど、移動距離が遠ければ遠いほど、より高濃度な魔力が必要となります。ですから、たいていの魔導士は、自分一人を動かすだけでも精一杯だと、講義で教わりました」
「あら、そういうものなのね?」
ソフィアの解説に、王后は感心の声を上げた。
「はい。魔導士長は別格ですが、シャリエ先生が大人二人分の質量を転移できるのも、とてもすごいことだと思います」
そして、超人的な魔術を扱うマルクスはというと、ソフィアのクロスネックレスを受け取ったあの日から、部屋に閉じこもって“流星の禁術”の分析に勤しんでいる。
おそらく、狩猟大会の警備を担当するよう打診があったはずだが、またいつもの調子で、軽々しく断りを入れたのだろう。
ああ。こんなことになるなら、無理矢理にでもマルクスを連れてきておけばよかったわ!
「ふふっ。あなたもすっかり、魔導士の一員ね」
猟銃を携えたまま、王后は淑やかに微笑む。
「まさか! 私なんて、魔力を動かすことができるようになったばかりの、初心者ですよ」
「それでもすごいじゃない。魔術を扱える人間は、そう多くはないのだから。ねえ、ステファニー? このシールドについて、あなたが知っている知識を教えてくれない?」
王后が指したのは、シャリエたちが天幕の周りに施した、防御膜のことだった。
「原理としては、剣術大会の際に参加者たちを守っていたものと、全く同じです。今も衛兵たちが出入りしていますが、おそらく許可された人間以外は内部に侵入できないよう、細かく魔術が組まれていると思います」
「つまり、あの怪物もここには入れないということ?」
「その通りでございます」
そう、この天幕の中にいれば、ある程度は安全が確保されているはずなのだ。
なのになぜ、こんなにも胸騒ぎがするのだろう? 地鳴りに似た、空気を揺さぶる鈍い音は、天幕にまで届いていた。
「ステファニー? どうかしましたか?」
「あっ、いいえ! 話を戻しますね。この魔力の壁は、内外からの攻撃を防ぎます。ですから、あの生物が私たちに手を出すことはできないはずです」
「そんなにお詳しいだなんて。さすがステファニー様です!」
リリーの背中をバシバシと叩きながら、クロエが興奮する。それとは対照的に、王后の表情は曇っていた。
「内側からも、攻撃ができないのですか」
彼女があからさまに残念がっているところで、天幕の入り口が大きく開かれる。
「国王陛下はおられますか!?」
中に飛び込んできたのは、大会に参加していたはずのレオンだった。モンドヴォール公爵と同じ、赤の狩猟服がよく似合っている。
レオンは額に流れる滝のような汗を拭いつつ、忙しなく目を動かす。
なんとなく、ソフィアと視線が合った時にだけ、ふっと口元が緩んだような気がした。
「レオン・ジラール大尉ですね。陛下はすでに、王城へ戻られましたよ」
王后の返答に、レオンは敬礼で応じる。
「承知しました。では、王后陛下。すぐに王城へお戻りください」
「ええ。シャリエ補佐官がきましたら、ここを後にする予定ですから」
「残念ですが、そうも悠長なことを言っていられる状況ではないかもしれません」
「レオン! この天幕には、魔術がかけられています。無策でここを飛び出すよりも、シャリエ先生を待つほうが安全だと思いますが?」
ソフィアの声がけに、護衛騎士は黙って首を振るう。
「いくら魔術で防いでいるとしても、限界というものがあります。もし仮に、あの生き物がここだけを集中的に攻撃すれば、あの膜も破壊されてしまうでしょう?」
「まさかそんな。あの生き物が的を絞って、意図的に攻撃してくるとでも?」
口ではそう言い返しながらも、ソフィアの鼓動は早くなっていた。
重みのある布袋を引きずるかのような、不気味な連続音が、次第に近づいてきている。
「この天幕を狙いにくるかどうかは、まだ分かりません。ただ、現状ではっきりとお伝えできるのは」
レオンの合図で、幕の入り口が開かれる。そして中にいた全員が、同時に息をのんだ。
「あの化け物は、他のものには目もくれず、こちらへ向かってきている……という事実だけです」
巨大な黒の生物は、ちょうど真正面の位置にいた。
歩みこそ遅いものの、盛大に木々を押し倒しながら、全身を引きずったままで近づいてくる。その暗い眼は、まっすぐこちらを捉えているように感じられた。




