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07 家族との別れ①

 そして三日後。


 時刻は日没のころであったが、空はまだ明るさを保っている。日がかげる前には人を寄越すと言っていたから、じきに迎えがくるだろう。


 ソフィアは忘れ物がないか、カバンの中身を取り出して、最後の確認を始めた。


 昨晩のうちに兄とは別れを済ませていたし、もうじき、仕事を終えた隣家の女将さんがきて、弟の面倒を見てくれる手筈になっている。


 家を出る決断をしたことに、兄はひどく動揺したものの、名の知れた公爵家への勤めであると知り、しぶしぶ納得してくれたようだ。


 ソフィアは首からさがる十字架を見つめ、昨日の会話を思い返す。


「なにこれ? 私にくれるの?」


 兄から手渡された小箱には、金色の小ぶりなクロスネックレスが入っていた。


「わあ。かわいい!」


「神様を信じてるってわけでもないけど。これなら、仕事中につけていたとしても怒られないだろ? 選別だ。お守りだと思って取っとけ」


「嬉しい! ありがと、エリアス兄さん」


「ほら、つけてやるよ」


 抱きつこうとする妹を引き離し、そっと首の後ろへ手を回してくる。ただ、留め具へうまく引っかけることができないようで、細かく動く指先が何度か首筋をかすめた。


「ふふっ。くすぐったい」


 しばらくして、兄はソフィアから距離をとった。ようやくネックレスを留めることができたようだ。

 金の鎖が首元できらりと輝く。


「とてもきれいね。……エリアス兄さん?」


 プレゼントに喜ぶ妹の様子を、兄はなぜか遠くから見つめている。


「なあ、ソフィア。いくら給金が高くても、無理に働かなくたっていいんだからな。辛くなった時は、いつでもここへ戻ってこいよ」


 そして、ふっと口角を片側だけ上げた。それが無理をしている時の作り笑いだというのは、ソフィアもよく知っていた。


「あのね、兄さん」

「ん?」


 支え合って生きてきた兄へ、真実を明かせないことには、心苦しさを覚えていた。けれども。


「ううん、なんでもない。ケビンのことよろしくね」


 あの時は、続く言葉を飲み込むことしかできなかった。


 すべてを打ち明けることができれば、どれほど楽だったろう。

 とはいえ、王太子の婚約者との約束を反故(ほご)にすることもできず、また兄弟たちを巻き込むことも憚られた。


 作業の手を止め、ふう、と息を漏らすと、それまで隣で静かに座っていた弟が、ソフィアの袖をそっと掴んだ。


「どうしたの、ケビン」

「……おなか空いた!」


 そう短く叫ぶと、首を深く曲げ、うつむいてしまう。のぞき込もうとしたものの、母親譲りの柔らかな亜麻色の髪が被さり、表情を見ることさえできなかった。


「あら。あなたさっき、チーズをこっそりつまんでいなかったっけ?」


 反応をうかがおうと、おどけた声で語りかけながら頬を突いてみるが、弟は微動だにしない。


「分かったわ。おばさんと一緒に食べてもらおうと思って、夕飯の準備はすませてあるの。先に食べ始めたらいいわよ。温めてくるわね」


 受け取った報酬のおかげで、普段は葉野菜の切れ端しか浮かばないスープにも、色とりどりの野菜と肉の欠片が入っている。柔らかいパンも、たんまり用意してあった。


 キッチンへ向かおうとすると、ケビンは慌てたように顔を上げ、姉の袖口をぎゅっと強く握りしめた。


「待って、姉さん!」

「なに? おなか空いてるんでしょ?」


 顔を寄せると、弟は不自然に視線を外し、もごもごと口ごもる。


「えっと……僕、姉さんのキャロットケーキが食べたいんだ」


「キャロットケーキ? あなたいつも『にんじんは嫌いだ!』って、口もつけようとしないのに。どういう風の吹き回し?」


「き、今日はあれが食べたいの! 今から作ってよ!」


 グレージュの瞳が、こちらをキッと捉えた。いつも聞き分けのいい弟が、ここまで感情的になるのは、ずいぶんと珍しい。


 ソフィアは静かに台所へ目を向ける。


 しばらくの間は、兄弟たちが買い出しに行かなくともすむように、食材を買い集めていた。ケーキに必要な材料も揃っている。

 しかし、出立の刻限が迫っている今からでは、下準備さえできそうにない。


「とてもじゃないけど、時間が足りないわ。代わりにブリオッシュはどう? 焼きたてを買ったから、きっと美味しいはずよ」


「嫌だ。姉さんの作ったケーキがいい!」


 ケビンは首を振りながら声を荒げると、飛びかかるように腰元へ抱きついてきた。


「これからは、わがまま言わずになんでも食べるよ。もっと家の手伝いもする! だから、僕たちを置いていかないで、姉さん」


 背中へ触れている小さな手のひらに、ぐっと力がこもるのが分かった。


 『置いていく』と、そんなふうに思わせてしまっていたのか。


 幼くして母を失い、それから親代わりとなっていた姉が自分の元から去るという事実は、幼い弟には受け入れ難いのかもしれない。


 震える小さな肩を見て、こちらまで泣きそうになってしまう。ソフィアは弟の頭をなでると、そっと優しく抱きしめた。


「寂しい思いをさせてごめんね。ケビンと兄さんを見捨てるわけじゃないの。みんなで幸せになるために、少しの間、別のおうちで暮らすだけだから。離れていても、姉さんはいつもあなたのことを想っているわ。もちろん、エリアス兄さんのこともね」


 そのとき、扉を数回ノックする音が響いた。


「こんばんは。こちら、ソフィア嬢のお宅で間違いないですか?」


 扉越しに低い声が届く。玄関口へ向かいたいところだったが、弟ががっちりとしがみついたまま離れようとしないので、ソフィアはその場で声を張り上げた。


「はい、そうです!!」

「では失礼いたします」


 腰をかがめて部屋の中に入ってきたのは、すらりとした背格好の青年だった。

 金糸の刺繍が施された、白地の将校服に身を包んでいる。赤みがかった茶色の髪と瞳が、制服姿によく映えていた。

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