73 紛れ込んだ悪意②
モンドヴォール公爵は、なにも聞かずにソフィアの願いを承諾した。
毒物中毒の応急手当は、一通り頭に叩き込んでいる。ソフィアはドレスの袖口を引き上げ、大きく深呼吸をした。
「すみません、清潔なお水をたくさん持ってきてください! それと、蓋のついた小瓶を一つ、いただきたいです」
ソフィアに依頼された憲兵は、すぐに部屋を飛び出していく。
まずは毒性物質の付着した傷口を、大量の水で洗い流す必要がある。
もしここにマルクスがいたら、魔術を使って、簡単に水を生み出していただろう。けれども、ソフィアはそこまでの技術を身につけていなかった。
専門的な治療は医師に任せるとして、あの憲兵が戻ってくるまでに、私ができることをしなくちゃ。
仮にこのまま、身体中に毒が広がってしまえば、彼の命までもが脅かされてしまう。
だからこそ、ソフィアは賭けに出ることにした。
レオンのそばに膝をつき、傷口の上に手をかざす。そんな“公爵令嬢”の動きを、周囲の面々が注視しているのが、痛いほどに伝わってくる。
ああもう、これ以上緊張させないでほしいのに! 雑念を振り払うように、ソフィアは目を閉じた。
落ち着くのよ。魔力操作は、散々練習してきたじゃない。
呼吸を整えたソフィアは、指先から細い糸を下ろすイメージで、魔力を放出する。
ジラール邸で行った魔術訓練で、最初に与えられた課題は、『自分の魔力を検知できるようにすること』だった。
ソフィアは感覚を掴めるようになるまで、マルクスの教えに沿って、何度も練習を重ねた。
それこそ、彼のやり方とまったく同じとおりに、第三者の体を借りて、魔力を動かす訓練を続けてきたのだ。
その過程で、警護担当をしていたレオンにも、何度か協力してもらった。だから彼の身体のことも、ある程度は把握できている。
ソフィアはレオンの傷口を凝視した。一瞬でも気を抜けば、魔力干渉ができなくなるだろう。
レオン様の体力的にも、私の能力的にも、試せるのは一度きりのようね。
ソフィアは切創に向かって、魔力を放った。
ちょうどその頃、遣いを終えて戻った憲兵が、大量の荷物を抱えて戻ってくる。
彼が令嬢に声をかける前に、モンドヴォール公爵はそれを制止した。
「あの子に呼ばれるまで、少し待っていてくれないか」
公爵自身も、ソフィアがなにをしているのかは理解していない。けれども、本気でレオンを救おうとしている気持ちだけは、伝わってきていた。
レオンは顔を歪めながらも、弱音ひとつ吐かず、苦痛に耐えている。
「頑張れ、二人とも」
小さな声で、“令嬢の父親”はエールを送った。
レオンの体内に魔力を注いだソフィアは、不気味な気配に身を震わせる。
なによこれ!? いつもと違う感覚に、戸惑いを隠しきれない。
まるで、氷塊を抱え込んだ時のような寒さが、腕をつたって全身を蝕んでくる。
これがなんなのかは分からないけれど、『よくないもの』だってことは、間違いなさそうね!
ソフィアは両足をすり合わせながら、気合いを入れ直す。凍えてしまう前に、早く方をつけなくちゃ。
異様な暗影を、ソフィアは慎重に辿っていく。やはり傷口を起点にして、全身に異常が広がっているようだ。
彼の拍動が、こちらにまで響いてきた。だんだんと心の臓が近づいているらしい。
ここで食い止めないと、大変なことになるだろう。ソフィアは意を決して、両手の指を大きく開いた。
細かく広がる毒へ、できるだけ慎重に、それでいて素早く魔力をまとわせていく。
それなのに、陰鬱な闇は強欲に、彼の心臓部へ触手を伸ばそうとしている。
ちょっとだって逃しはしないんだから!
ソフィアは魔力を一気に注いで、固く手を握りしめた。
よし! これで、全部掴めたはずよ。あとは体外に、毒を排出するだけだ。
とはいえ、方々に広がる毒を捕らえながら、傷口まで引き戻すのは、骨の折れる作業になる。
ソフィアは荒い息を抑えもせずに、全神経を集中させて、魔力を操作し続けた。熱のこもった頬が、赤く上気していく。
その場に居合わせた全員が、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
「あとちょっとですからね、しっかりしてくださいね……」
必死の形相のまま、絞り出すように呟く。黒い気配は、ほとんど右腕に集まってきていた。
「あっあれはなんだ!?」
不意に護衛の一人が声を上げる。
彼が目をむいたのは、レオンの傷口から、どす黒い液体が浮き上がってきたためだ。
気味の悪い流体は、つぷつぷと泡立ったかと思うと、少しずつ宙に浮かび始める。まるで、公爵令嬢の手のひらに吸い寄せられるかのように。
誰も口を開こうとはしなかった。その奇妙な光景は、さながら邪術に傾倒する魔女のそれに見えたからだ。
有毒物質を出し切ったソフィアは、必死に手を掲げながら吠えた。
「瓶を! 急いで!!」
声がけにハッとした憲兵は、慌てて空瓶の蓋を開ける。
ソフィアは彼に近づきながら、その手元に向けて、注意深く液体を飛ばす。
一滴残らず中に注ぎ入れたあと、ようやく下ろした腕は、ぶるぶると震えていた。
憲兵が蓋を閉じたことを確認し、ソフィアはゆっくり口を開く。
「気をつけて。それが毒で……」
けれども、言い終わる前に視界が揺らぐ。
これはまずい。少しだけ、無理をしすぎてしまったわ。
「ステファニー!」
公爵の叫ぶ声が、遠くに聞こえる。
大丈夫ですよ、閣下。ちょっと休めば、元通りになりますから。
ぼんやりとそんなことを考えながら、ソフィアは目を閉じた。
膝から崩れ落ちそうになっていた公爵令嬢を、すんでのところで力強い腕が抱きとめる。
クレモンティーヌのような、瑞々しい甘い香りが、ソフィアの鼻をかすめた。
「ルイスさま……?」
虚ろな瞳で見上げると、王太子は不機嫌そうに舌打ちする。
「なにがあったのか、後でちゃんと話してもらうからな」
彼は白銀の髪をかき上げ、憲兵を強く睨みつけた。




