72 紛れ込んだ悪意①
王立競技場に、どよめきが起こる。
前回覇者のレオン・ジラールが、前触れもなく片ひざをついたからだ。
観客席から見守っていたソフィアも、なぜ彼が体勢を崩したのか、すぐには理解できなかった。
もしかすると、傷が相当深かったのかしら? しばらく肩で息をしていたレオンは、剣を左手に持ち替え、再び立ち上がる。
右腕をだらりと垂らしたまま、彼は武器を構えた。
「いいぞ! さすが、レオン・ジラールだあ!」
「そのままぶちのめせ、テオドール!」
声援に押されるように、二人は互いに斬りかかった。
レオンは腕を庇っているためか、いつもより動きが鈍く見える。
といっても、使っているのが利き手でないとは分からないほどに、完璧な対応ができているのだが。
それよりも、対戦相手のテオドールのほうが、気になる動きをしているかもしれない。彼はレオン以上に、調子を崩しているように見受けられる。
ここまでも防御に徹していたテオドールだが、今はレオンの剣を受けるのが精一杯といった様子だ。
他の観客たちも、同じようなことを感じているのか、周囲から野次が飛び始める。
「オイッ。なにやってるんだ!」
「決勝だぞ!? 腑抜けたモン見せるんじゃねえよ!」
ある観客は、手元のゴミを投げたようだが、それが騎士たちに届くことはなかった。
見えざる壁が、障害物を弾き返したからだ。
「物を投げるのはおやめください! フィールドには選手以外が立ち入れぬよう、魔術をかけています。他の観客に当たる可能性もありますので、ご注意ください!」
見ることのできない防御壁に、ソフィアは感動を覚える。こんなところにも、魔術が使われているのね!
おそらく、審判の近くに立っている、魔塔の装束をまとった人物たちが、大会の運営に協力しているのだろう。
それにしても、あの魔導士たちは、どういった術で攻撃を防いでいるのかしら?
会場にかけられた壮大な魔術は、どのようなものか。少しだけ悩んだソフィアだったが、すぐに考えを放棄した。
初心者にとっては、難しすぎる話だもの。
ソフィアは椅子に座りなおし、細く息を吐く。夕暮れ時が近づいてはいるものの、今はまだ、日差しが眩しい。
精彩に欠ける騎士たちの戦いを眺めながら、ソフィアは首をひねった。
やはり、なにかがおかしい。なぜテオドールは、全力を出し切れないのだろうか。
全身を見渡したところで、外傷があるようには見えない。
優勝を狙っているのだし、意図的に手を抜いたりすることは、ないと思うのだけれども。
そっと隣に顔を向けると、モンドヴォール公爵が、険悪な顔つきをしている。
彼も、なにか思うところがあるのだろう。しかし、口を開く気配はない。
引っかかりを感じながらも、ソフィアは黙って、試合の展開を見守ることしかできなかった。
最後の時は、あっけなく訪れる。
レオンの一振りに耐えきれず、テオドールの手から剣が吹き飛んだのだ。
「勝者、レオン・ジラール!」
大歓声のなか、二人は固く手を握り、それから肩を組むようにして、コートを去っていった。
ソフィアが思わず立ち上がると、同時に公爵も腰を上げた。
「ステファニー、少しいいか?」
強い瞳がこちらを見ている。聞き返さずとも、誰を憂いているかは明らかだった。
「もちろんでございます、お父様」
警備の面々を引き連れながら、連続優勝に沸き立つ場内を、早足で移動する。
それから少しして、公爵が唐突に足を止めた。彼の前には、『控え室』の張り紙が貼られた扉がある。
「入るぞ、レオン」
公爵とともに、勢いよく部屋へ滑り込んだソフィアは、はっと息を呑んだ。床に倒れ込んだレオンが、青白い顔でぐったりと横たわっている。
「レオン様!? 大丈夫ですか!?」
ソフィアが駆け寄ると、護衛騎士はわずかに目を開く。
「ソフィ……?」
うつろな瞳は、こちらを映していなかった。
目立つ傷跡は、右肩の切り傷一つのようだが、出血量はそこまで多くない。
けれども、口元には嘔吐の跡があり、体からは力が抜けている。単なる負傷でないのは明らかだった。
「こないでくだ……たぶん、毒……」
その一言で、胸がざわつく。
前世でアンヌが犯したとされている、連続毒殺事件が頭をよぎったからだ。
秘密警察の男は、彼女が『魔女の花』を使って殺人を重ねたと語っていた。“稀代の悪女”ステファニーが処刑されることになった、その遠因の事件だ。
四年前の世界に転生したソフィアは、前世の記憶を辿り、毒草に関する書物をいくつか読み漁っていた。
『魔女の花』を体内に取り込んだ場合、口の渇きに心拍数増加、目のかすみ、嘔吐に加えて、散瞳や異常興奮といった症状が表れるらしい。
ここで原因を特定することはできないが、目の前の青年は、それに近しい病状を抱えているように見える。
警備担当の憲兵たちも、突然の出来事に驚いているようだ。そのうちの一人が、こちらに近づこうとする。
「大丈夫ですか、ジラール様……」
「止まって!」
ソフィアの叫びで、護衛たちはぴたりと足を止めた。
「毒がついている恐れがあります。レオンの傷口には、決して触れないでください!」
もし、彼が決勝戦で毒を盛られたとするならば、疑わしいのは対戦相手であるテオドールだろう。
ソフィアは、がばりと顔を上げる。レオンのそばには、小さくうずくまる武人の姿があった。
「テオドール様! 状況を詳しく教えていただけませんか」
けれども彼は、震える体を抱えながら、黙って目に涙を浮かべているだけだ。
もう! 妹に対しては、あれほど強気な態度をとっていたのに! ソフィアは心の中で毒づきながら、つかつかと歩み寄る。
「失礼します!」
一つ頬を叩くと、憲兵の一人が「えっ」と声を漏らした。
テオドールは呆然としたまま、左頬を押さえている。
「しっかりなさってください! 事態は一刻を争います。なにがあったのですか!?」
公爵令嬢が問いかけているそばで、憲兵たちはレオンの制服を、右肩口のあたりから破り落とした。おそらく、患部を目視できるようにするためだろう。
あらわになった右腕には、うっすらと発疹が出現していた。
「とにかく、医師を呼ぶんだ。この様子では、記念試合を行うことはできないだろう。国王陛下にも、急ぎ状況を報告してくれ」
モンドヴォール公爵が、憲兵たちに声をかけると、彼らは即座に動き始める。
忙しない人々に目を向けながら、侯爵令息はようやく重い口を開いた。
「わからない……分からないんだ! あの時まで、レオンはいつも通りだった。なのに、こいつの目が不自然に泳ぎ出して……いきなり……」
出している声までもが震えてしまうほどに、彼は動揺している。
「俺はなにもしていない! でも、競技場ではあらゆる害意が、魔術によって防がれている。あの場でレオンに攻撃できたのは、俺だけだ。だから、だから……」
そこまで言い切ると、両腕で頭を抱えて、しゃがみ込んでしまった。
憲兵の一人が、侯爵令息の腕を掴む。さすがにこの話を聞いて、野放しにしておくことはできないだろう。
けれども、憔悴しきったテオドールが犯人だとは、どうしても思えなかった。
ソフィアは、横向きに寝転ぶレオンへ目を移す。彼はまぶたを閉じたまま、浅い呼吸を繰り返している。
毒が原因だとすれば、医師がくるまでの間に、なにかできることがあるかもしれない。
「閣下。少しだけ、試してみたいことがあります。許可をいただけますでしょうか?」




