68 計略的な一芝居
「お待たせしましたー。もうすぐ始まると思うんで、楽しんでってくださいね!」
セルヴォワーズを手渡しながら、売り子は元気に声を張り上げる。
ついに、剣術大会の当日を迎えた。王立競技場には、試合に参加する剣士たちに加えて、大勢の観客が詰めかけている。
開会式もまだ終わっていないというのに、会場のあちらこちらで、すでに宴会が始まっていた。
今日はよく晴れているので、冷たい飲料も飛ぶように売れていくだろう。
賑やかな会場では、客席の合間を縫うように、子どもらが駆けていく。
肉串を剣のように掲げていた男性は、盛大に足を踏み外し、周囲の笑いを誘った。
一般市民に開放されている自由席とは打って変わって、貴族のために設けられたボックスシートには、沈黙が流れている。
侯爵家の観覧席から、騒がしい様子を見下ろしていたクロエ・ラ・フリオンは、渋い表情を浮かべた。
なんて低俗なのかしら。今年は大会に、王族が二人も参加するというのに。
民衆らの粗野な振る舞いは、目に余るものがある。ああ、でも。そんなのはどうだっていいのよ!
はやる胸のうちを抑えながら、彼女は繊細な彫刻が施された、空のロイヤルボックス席に視線を移す。
そろそろですね、ステファニー様。クロエはここから、お二人の姿を目に焼きつけますわ!
爛爛とした瞳で、少女は希望を抱くのだった。
「それでは皆さま、お立ちくださいませ。偉大なるトランキル王国の国王王后両陛下、そして王太子ルイス殿下と、第二王子フィリップ殿下のご入場です!」
司会者の声に応じて、人々が立ち上がる。王族方が姿を現すと、ひときわ大きな歓声が上がった。
伝統に則り、重厚感のあるローブを着用する国王夫妻とは異なって、二人の王子は身軽そうなリネンシャツを身にまとっている。
大会の参加者であることから、このような軽装が許されているのだろう。
国王の口上が始まるなか、ソフィアはというと、紅いベルベット幕の後ろで息を潜めていた。
布越しにはっきりと、国王の肉声が聴こえてくる。ここは王族観覧席の、ちょうど裏側の位置にあたる。
ソフィアが用意したハンカチーフの受け渡し場所として、王太子は王族専用の特別席を指定した。
国王の挨拶が終わると同時に、“ステファニー”を招き入れることで、『王太子の婚約者候補』は誰なのかを明確に示すつもりらしい。
もちろん、このやりとりを大勢の人に目撃させる必要があることは、ソフィアもよく分かっている。
でもやっぱり、王様の前に出なきゃいけないなんて、緊張するじゃない!?
こちらの心境を察してか、隣に立つモンドヴォール公爵が、静かに口を開いた。
「いつも通りでいいんだよ、“ステファニー”」
閑かな眼は、身代わり令嬢をじっと捉えている。
そうね、焦る必要なんてないわ。ハンカチを渡すだけだし、今回は王太子様も味方なのだから。
「……ええ。そうですわね、“お父様”」
公爵はふっと口角を上げる。その穏やかな表情は、まるで本当の娘に向けられたもののようであった。
ほどなくして、警備担当の憲兵から目通りの許可が下りる。深呼吸を繰り返してから、ソフィアは幕をくぐった。
眩しい日差しが突き刺さる。漏れ聞こえていたよりも、はるかに大きな歓声がソフィアの体に反響した。
どうやらちょうど、少年の部が始まったところらしい。競技場を埋め尽くす人々が、思い思いに声を上げている。
とはいえ、開会宣言の直後だからか、多くの視線はいまだ王族席に向けられていた。
突如現れた挨拶客を見て、わずかに場内がざわつく。
誘拐事件以降、表舞台から姿を消していた『モンドヴォール公爵令嬢』が、ひと月ぶりに顔を見せたのだ。人々が動揺するのは、無理もないだろう。
肘掛け付きの椅子に腰を下ろし、満面の笑みをたたえていた国王は、ソフィアたちの姿を見て、厳しい顔つきになった。
「久しいな、モンドヴォール公爵。よく顔を出せたものだ」
短く言い捨てると、そのまま会場に目線を戻してしまう。
やはり国王は、公爵に対して相当な恨みを抱いているらしい。
「王国の太陽にご挨拶申し上げます。本日は、我が娘ステファニーの付き添いとして参りました」
モンドヴォール公爵は、国王の態度に動じることなく、頭を下げた。しかし、言葉が返ってくることはない。
冷たい空気を感じながら、ソフィアは血の凍る思いで立ちすくんでいた。
計画では、王太子と公爵令嬢の親密さを、堂々と知らしめるはずだったのに。
なぜだか、国王が持つモンドヴォール家へのあからさまな嫌悪感を、民衆たちに見せつける形となってしまっている。
ひょっとすると、これは逆効果ではないかしら?
「もうおやめくださいな、陛下。ステファニーがすっかり震え上がっているではないですか」
助け舟を出してくれたのは、王の隣に控える王后だった。アヤメの花を彷彿とさせる、濃紫の瞳がこちらを見ている。
「元気そうで安心したわ、ステファニー。今日はなにか、ルイスと約束があるのでしょう?」
王后の顔がふわりと和らいだ。もしかすると、王太子様が事前に、口裏を合わせてくださっていたのかもしれない。
第二王子の不安げな視線を受けながら、王太子はその場に立ち上がる。
「ええ。モンドヴォールの二人を招いたのは、この私です、国王陛下」
それから王太子は、公爵令嬢を近くに呼び寄せた。
うう、国王様の刺々しい視線が痛いけれども。
さっさと『伝統行事』を終わらせて、この場を去るしかないわ!
ソフィアは慎重にお辞儀をし、ハンカチーフを取り出した。
「王太子殿下を想いながら、一針一針に心を込めて縫い進めました。どうかお受け取りくださいませ」
両手の上に載せたハンカチを、王太子は黙ってつまみ上げようとする。
ちょっと、嘘でしょう? どう見たって、そのやる気のない顔は、恋人を見つめる表情ではないじゃない!
抵抗するように、少しだけ手のひらを閉じると、王太子は怪訝そうにこちらを見つめた。
ソフィアは声を出さずに、『笑顔!』と囁いてみたが、どうやらうまくは伝わらなかったらしい。
改めて『え・が・お!』と口を動かすと、王太子は「ふはっ」と声を上げて、ようやく満面の笑みを浮かべた。
「ありがたくいただこう。今日の記念試合では、このハンカチを身につけるとしようか」
贈り物が王太子の手に渡り、ソフィアは密かに安堵する。
ひとまず、これで役目は終わりかしら?
「して、そなたは私とレオンの、どちらが試合に勝つと思っている?」
油断していたところに、王太子の問いが投げかけられる。
おかしいわね。こんなやりとりは、打ち合わせになかったと思うのだけれど。
戸惑うソフィアを見て、王太子が鼻先でふんと笑う。まさかこの状況で、私を試すつもりなの!?
慌てる婚約者候補を見つめながら、王太子はにやついている。どうやら彼は、こちらの反応を心の底から楽しんでいるらしい。
信じられないわ! すぐ近くで、国王様が睨みをきかせてるっていうのに!
ソフィアは苛立ちを抑えつつ、考えを巡らせる。
昨年の記念試合では、レオンが勝利を収めていたらしい。
おそらく今年も、同様の結果が待ち受けていると、ジラール邸の使用人たちは話していた。
それは王太子が弱いためではなく、レオン・ジラールという騎士が、たゆまぬ努力を続けているからに他ならない。
練習を重ねる護衛騎士を見守ってきたソフィアは、他の誰よりもそのことを理解していた。
けれども、ここで『正解』を答える必要はない。
「レオンの能力は、皆さまも認めているとおりです。おそらく今日も、順調に勝ち進んでいくでしょう。ですが私は、王太子殿下の勝利を願って、ハンカチを贈りましたのよ? 勝っていただかなければ、そちらが無駄になるだけですわ」
ソフィアは一息に言い切った。
思いがけない返しに、王太子は目を丸くさせている。
一方的にからかってきたのだから、これぐらいの嫌味は許されるでしょう?
少しして、正気に戻ったであろう王太子は、難しい顔でこちらに腕を伸ばす。
まさか、私のことを引っ叩くつもり? さすがに生意気すぎたかしら!?
ぎゅっと目をつむったソフィアに届いたのは、穏やかな声がけだった。
「では私は、そなたのために勝たねばならないな」
ゆっくり目を開くと、ソフィアの長い髪を引き寄せた王太子が、静かに唇を落とすところが見えた。
今この人、私の髪にキスをしたの?
硬直したソフィアを見て、王太子が一気に顔を赤らめる。
「そ、そ、そろそろ席に戻るがいい! フィリップも、じきに出番がくるであろう!?」
「え、ええ! そうですわね!? フィリップ王子殿下の初めての記念試合も、楽しませていただきま……す?」
歯切れが悪くなったのは、王太子の行動に動揺していたからではない。
第二王子の溶けるような瞳が、こちらに向けられていたからだ。
今世でフィリップ王子と出会うのは、これが初めてになる。
けれども、ソフィアは知っていた。かつての世界で、彼は兄の婚約者であるステファニーと、密かに体を重ねていたことを。
四年前の時点で、すでに公爵令嬢へ心を寄せていたとしても、なんら不思議ではない。
「で、ではっ! 行きましょうか、お父様!」
モンドヴォール公爵は、ソフィアの強引な様子に驚きつつも、大人しく指示に従った。
これからもフィリップ殿下との接触は、なるべく避けるようにしていこう。
自分の首を絞める関係性を、あえて築いていく必要はないのだから。




