67 若獅子の剣光
剣術大会まであと数日。春らしい穏やかな日差しの中に、夏の匂いが漂い始めていた。
田舎では、ちょうどラベンダーが咲き誇っているころだろう。
ソフィアが実家を離れて、ひと月ほどが経過している。けれども、ステファニーからの連絡は、いまだに途絶えたままだった。
なんの音沙汰もないところから考えるに、ソフィアが公爵令嬢に成り代わっていることさえ、知らないのかもしれない。
娘からの連絡を、ただ待ち続けているであろうモンドヴォール公爵の心労は、察するに余りある。
剣術大会が、この状況を変えるなにかしらのきっかけになればいいのだけれど。
ソフィアは部屋の小窓から、ジラール邸の庭園を見下ろした。
まだほのかに明るい屋外では、レオンが一人、剣の素振りを繰り返している。
サラ曰く、ここ数年間の剣術大会は、レオンの独壇場だったらしい。
王太子の信頼を得るだけの実力を、この若さで身につけているのは、すごいことだと率直に感じる。
しなやかな身体の動きに合わせて、剣が眩く光を放つ。無駄のない動きから、彼の重ねてきた日々の重さが伝わってくるようだった。
本来ならレオンは王城で、近衛の仲間たちと毎日訓練を重ねていたはずだ。
一日の終わりになるまで、彼が練習を始められないのは、王命によって“ステファニー”の側に寄り添う必要があるために他ならない。
女騎士らに護衛を任せる、湯浴みや着替えといった時間帯を除き、彼は一日のほとんどをソフィアのそばで過ごしていた。
でも。私なんか、ステファニー様の身代わりでしかないのに。
心苦しさを覚えながら、ソフィアは指を一つ鳴らす。すると、レオンの額を伝う雫が、静かに空へ浮き、消えてなくなった。
他者の肉体に影響を及ぼすほどの魔術を、ソフィアはまだ扱うことができない。彼の疲れを癒したり、安眠に誘うこともできない。
それでも、護衛騎士が夜半前に剣を振るっていると気づいた時から、ソフィアはレオンのことを、陰ながら応援し続けていた。
自分にできるのは、せいぜい彼の汗をとりのける程度だとしても。
いつものレオンは、外が暗くなってきたころに、ようやく剣を収める。けれども、今日は少し勝手が違っていた。
再び指を鳴らそうとしていたソフィアは、偶然にも呼吸を整えていた護衛騎士と、目を合わせてしまったのだ。
胸がどきりと跳ねた。なぜだか彼は、驚く素振りも見せず、まっすぐにこちらを眺めている。
ええと、私がいることには気づいているわよね?
しばらくソフィアの部屋を見上げていたレオンは、すっと右腕を伸ばし、なにかを呟く。『あちらへ』と、そう言われた気がした。
彼の指した先には、ソフィアの部屋から続く、バルコニーが広がっている。
寝間着を着ていたソフィアは、手近な膝掛けをストール代わりに羽織ってから、バルコニーの入り口となる大窓へと急いだ。
これまでは、外部からの侵入を防ぐため、ガラスドアを開けないよう厳しく言い聞かせられていた。
そのため、ソフィアがバルコニーへ足を踏み入れるのは、これが初めてのことになる。
観音開きの大窓に取りつけられた、仰々しい錠を外すのに手間取っていると、バルコニーにひらりと降り立つレオンの姿が見えた。
今、片手で手すりを乗り越えたわよね? ここは二階だというのに?
やはり彼の体力は、常人とは比べ物にならないものかもしれない。
それから、鍵の開いた頃合いを見計らって、レオンが窓辺に近づいてきた。
「夜分遅くに申し訳ございません。こんばんは、ソフィア嬢」
「こんばんは、レオン様。いかがなさいましたか?」
「少し、お尋ねしたいことがありまして」
彼は手招きをして、バルコニーに出るよう促してくる。どうやら、部屋の外で警備をしている女騎士たちを意識しているらしい。
レオンの差し出した手を取り、屋外へ足を伸ばすと、新緑の香りがふわりと鼻をかすめた。
「勘違いかもしれないのですが。先ほどソフィア嬢は、魔術を使われましたか?」
「はい。あの、汗を取り除いた程度ですが、ご不快な思いをおかけしたのであれば申し訳ありません」
許可もなく魔術を行使されるのは、気持ちのいいものではなかったかもしれない。
考えなしに行動していた、自らを省みる。
「ああいや、そうではなく! ここ数日間、快適に剣を振るうことができていたので、不思議だったのです。やはり、ソフィア嬢のおかげでしたか。ありがとうございます」
レオンはまくっていた袖元を下ろし、朗らかに笑った。
二人は欄干に手を添え、空を見上げる。頭上には、大きな満月がきらめいていた。
「毎晩遅くまで付き合わせてしまい、申し訳ありませんでした」
「それを言うなら、レオン様だって! 剣術大会が近づいているというのに、私のせいで、まともに練習すらできていないですよね。本当にごめんなさい!」
頭を下げたレオンに、ソフィアはわたわたと言葉を返す。
すると、彼は優しく首を振った。
「腕を磨くことは大切ですが、有事の際は訓練などできません。試合に負けたとしても、それは己の実力不足なだけであって、ソフィア嬢のせいではないですよ」
月明かりのせいだろうか。ほんの少しだけ、レオンの雰囲気が和らいで見える気がする。
ソフィアはあたたかな気持ちで、次の話題を切り出した。
「あの。実は、レオン様に渡したいものがありまして」
「私にですか?」
「はい! 剣術大会用のハンカチを作ってみたんです。受け取っていただけますでしょうか?」
ソフィアは肩掛けの中に隠していたものを取り出す。それは、王太子への贈り物と並行して繍い進めていた、ハンカチーフだった。
「もちろんです、ありがとうございます。ライオンをモチーフにしてくださったのですね」
護衛騎士は受け取った品を丁寧に広げ、まじまじと刺繍模様を見つめている。
銀糸に囲われた布の片隅に、ソフィアは金獅子と、国花である百合を描いた。
どうやら異国では、ライオンのことを『レオン』と呼ぶらしい。そのことを知った時から、この図案にしようと決めていたのだった。
日頃の感謝も込めて、丹念に刺し進めたつもりだ。製作期間のわりには、上手く仕上がったのではないだろうか。
「他の方からも、たくさん受けとられると思うのですが。イザベラさんが、“ハンカチを贈られる”という行為自体が名誉だと話していたので、私からもご用意させていただきました」
この『伝統行事』は、贈り物をもらえればもらえるほど、自慢になるということらしかった。
『絶対に作ってあげてください!』と訴える、侍女の必死な顔が、強く印象に残っている。
ようやく顔を上げたレオンは、目尻を下げて微笑んだ。
「こういった品をいただくのは初めてなので、とても嬉しいです」
「ですよね。不要であれば、部屋の片隅にでも置いておいて……ちょっと待ってください。今、初めてって言いました!?」
ソフィアは耳を疑う。連続優勝を誇るレオンが、誰からもハンカチをプレゼントされたことがないなど、にわかには信じがたい。
「ええ、そうですよ」
「さすがに冗談ですよね?」
真剣に問いかけると、彼は軽く吹き出した。
「ソフィア嬢は私のことを、買い被りすぎていますよ! 所詮は子爵家の長子。私を選んでも、得るところがないと考える子女が多いのでしょう」
話を聞いているうちに、ソフィアは一つの可能性に思い至る。レオンが遠巻きにされているのは、いつも彼の周りに、幼馴染が付きまとっていたからではないだろうか。
親しげに下の名で呼び合う間柄だ。ソフィアが勘違いをしていたように、周囲が“二人は好い仲”だと捉えていたとしても、おかしくはない。
でなければ、名家の跡取りで肩書きも容姿も申し分ないレオンが、見向きもされない理由が分からなかった。
「レオン様のことを密かに慕う方々は、大勢いらっしゃると思いますよ」
「ははは。そうだと嬉しいのですけどね」
懐にハンカチをしまいながら、彼は明るい笑顔で言い放つ。
駄目ね、これは本気にしてなさそう。
ソフィアは諦めて天を仰ぐ。まん丸の月が、辺りを皓皓と照らしている。
レオンも同じように空を見上げて、ゆっくり口を開いた。
「この時期の満月は、『苺月』や『ローズムーン』と呼ばれているらしいですよ。地域によっては、赤みがかった月も観測できるそうです」
「そうなんですか? 初めて聞きました」
頭上の明月は、どちらかといえば黄色がかった色味に思える。
イチゴみたいな月を見られる場所が、本当にあるのかしら。全く想像ができなくて、ソフィアは不思議な気持ちになった。
夜空には、ちらほらと星が瞬き始めている。
思い返せば、レオン様とゆっくり話ができるのは、いつも夜遅くのことね。
前世で故郷を離れた時もそうだ。真夜中を駆ける馬車の中で、彼は私を守ると宣言した。
四年前の世界に戻ってきてからも、二人でダンスを踊った時や、兄の目覚めを囲んだあの日だって、彼は文句ひとつ言わずに、夜更けまで私に付き合ってくれた。
「ソフィア嬢とは、夜にお話しする機会が多いですね」
どうやら彼も、同じようなことを考えていたらしい。
「そうですね。人目を忍ばなければ、“ソフィア”としては話し合えないこともありますから」
さらりと答えた言葉に、レオンは困ったような笑みで応えた。
まずい。もしかすると、今のは嫌味に聞こえたかもしれないわ。
「あ、あの! よろしければ、これからはここで剣の練習をしませんか!?」
謝罪を受ける前に、ソフィアは慌てて話題を変えた。
「バルコニーで……ですか?」
レオンはきょとんとした顔で、こちらを見ている。
「ほら、私が近くにいさえすれば、明るいうちから練習を始められますよね? ええーっと、夜中にお庭で動かれると、どうしても気になっちゃいますし? レオン様がどれだけ暑そうにされていても、距離があれば術はかけにくいですし!」
必死に答えながら、ソフィアはだんだんと頬が熱くなるのを感じていた。まるで、駄々をこねる子どもみたいじゃない!
「それに……できれば一度、レオン様の剣技を間近で見てみたくて」
最後の言葉は、ソフィアの正直な気持ちだ。自分を守ってくれている相手が、どれだけ素晴らしい剣の使い手なのかを、きちんと知っておくべきだと思っていた。
おそらく断ろうとしていたであろうレオンも、こちらの目を見て諦めたらしい。
部屋から持ち出した椅子に、ソフィアを座らせてから口を開いた。
「……危ないので、そこからは動かないでくださいね?」
護衛騎士はバルコニーの中央に立ち、剣を抜く。掲げた武器も、レオン自身さえも、月光に照らされて輝いていた。
鋭い金切り音が、規則正しく発せられる。衣擦れの音には、時折吐息が混ざり込んでいく。
熱のこもったまなざしは、どこか遠くを見据えているようだ。魂で剣を振るっているのだと、素人ながらに感じる。
この方が、私の護衛騎士なのね。
他者のために闘う姿は、これほどまでに美しいものなのかと、ソフィアは息を呑んだ。
それからあたりが暗くなるまで、レオンは自分の腕を振り続けたのだった。
新しい年が皆様にとって良い年でありますよう
心よりお祈り申し上げます
本年もよろしくお願いいたします




