66 聖女、ついに現れる
ひとしきりクロエの作品を眺めたあと、二人は作業の手を止め、今は茶菓子を囲んでいる。
なぜか、マルクスを交えた三人で。
「ええと、『マルクス様』? こういう時は、きちんと扉から入ってきていただけませんか。いきなりあなたが現れて、クロエ様はどれほど驚かれたか」
そばに立つレオンも、無言でそれに同意する。
お茶会の道具を携えたマルクスは、例のごとく魔術を使い、前触れもなくソフィアの部屋へやってきたのだった。
おそらく、この部屋へ立ち入ることのできないサラ達から、差し入れを持っていってほしいと頼まれたのだろう。
さすがに『一緒に茶会を楽しんでこい』とまでは、言われていないと思うのだが。
「えー、面倒だなぁ。次からは気をつけるよ」
真横に腰掛けたマルクスは、そう言いながら、口いっぱいにお菓子を頬張っている。
大量の甘味品は、働き詰めのレオンが手にとることを想定し、ここへ持ち込まれたはずだ。
けれども、当の本人は涼しい顔で突っ立っているうえに、この勢いだとお騒がせな魔導士長が、一人で食べ尽くしてしまうかもしれない。
その様子を見つめるクロエは、笑顔を保っているものの、いくらか緊張しているようだ。
ティーカップを掴む指先が、細かく震えている。
ふざけた態度のせいで、うっかり忘れてしまっていたが、マルクスは国一番の魔導士だった。おそらく、これが正常な反応なのだろう。
「ところで、ステファニー様」
クロエがおずおずと口を開く。
「以前お話いただいた、聖女様の件で。家の者に調べさせているのですが、今のところ、本人を探し出すことはできていません」
「えっ。フリオン家の方々が、“聖女”の捜索に当たっているのですか?」
ソフィアが驚いた声を漏らすと、クロエは得意げに微笑んでみせた。
確かに、リリーの話を出したこともあれば、『王太子よりも早くに出会うことで、何かしらの対策を施すことができるかもしれない』と告げた記憶もある。
けれども、それからクロエが“聖女”を探していたというのは、ソフィアも初耳だった。
「よく分からないんだけどさ。フリオン家が“聖女”を探すことに、なんのメリットがあるんだい?」
それまで菓子に夢中だったマルクスが、いきなり口を挟む。
前の時間軸で、王太子が“聖女”を妃に望んだことは、マルクスにも伝えていた。
先ほどのやりとりの中に、なにか思うところがあったのかもしれない。
「そのような、損得勘定で動いていたわけではなく! 単にステファニー様のお力になりたかったのと、あとはただ、聖女様を見定めたいと思ったからです」
「一貴族の娘程度が、王太子妃候補を『見定める』と?」
流し目を送られたクロエは、身を震わせつつも、しっかりとした声で答えた。
「不敬な発言であることは、重々承知しております。おっしゃる通り、私はしがない侯爵家の一人娘ですし、王太子妃候補に選ばれた立場とはいえ、私に適性がないことは理解しているつもりです」
「それでも平民の娘に比べれば、自分のほうがマシだって? それはさすがに、傲慢じゃない?」
「違います! 私はステファニー様を王太子妃にしようとしない、この国の行先を憂いているだけです!」
彼女が高らかに宣言すると、魔導士長は目をぱちくりさせながら、ゆっくりとこちらに向き直る。
「君たち、仲が悪いんじゃないの?」
「色々とありまして。今の関係は良好です」
「ステファニー様の寛容なお心には、ただただ敬服するばかりです……!」
祈るように指を組む侯爵令嬢を眺めながら、マルクスは薄ら笑いを浮かべた。
「これ、良好って言える?」
「お話の途中で失礼いたします」
それまでこちらの様子を伺っていたレオンが、魔導士長にそっと近づいていく。
なにかを耳打ちされたあとで、マルクスは盛大に吹き出した。
「そっかそっか、君は“聖女様”のことを知らないもんね! 王太子の『未来の恋人』の話だよ!」
「は?」
ぽかんとするレオンをよそに、マルクスは笑顔でクロエに語りかける。
「モンドヴォール公爵令嬢から聞いたという“聖女”の話を、僕にも聞かせてもらえるかい?」
「もちろんでございます!」
緊張がほぐれてきたのか、彼女は勢いよく口火を切った。
「聖女様の情報ですが、ホワイトブロンドの頭髪に紺色の瞳を持つ、リリーという名の少女だそうです」
「……ほぉ?」
なぜだか魔導士長は、首を傾げてクロエを見つめている。
「年のころは私と同じくらいか、少し若いらしいです。そうでしたよね、ステファニー様?」
「ええ。正確な年齢は分かりませんが、私よりも幼い顔立ちをしているはずです」
「んー?」
マルクスは変な声を上げながら、ソファでのけぞった。
「それで、その子は庶民なんだよね?」
今度はマルクスの目が、こちらへ向けられる。そういえばこれまで、まともに“聖女”の話をしたことはなかったかもしれない。
「ええ、そう聞いています」
「だよね。ううーん……僕、ちょっと席を外そうかな」
そうこぼした次の瞬間に、魔導士長の姿は忽然と消えてしまう。
目の前で魔術を目撃したクロエは、彼のいなくなったソファを穴のあくほどに見つめ、詠嘆の息を漏らしたのだった。
マルクスが帰ってきたのは、ソフィアらが作業に戻った直後のことになる。
「ただいまぁ」
「おかえりなさ……っ!?」
返事をしようとしていたソフィアは、言葉を詰まらせてしまう。
それは、マルクスが言いつけを守り、きちんと扉から入ってきたためではない。小柄な彼の後ろに、さらに小さな人影が見えたからだ。
「どうしたの、マルクス? ここはどこなの?」
その少女は、魔導士長の背中に張りつくようにして、こちらをのぞき見ていた。
短く整えられた金髪は、窓から差し込んだ陽の光に照らされて、きらりと輝いている。
丸々とした深い青の瞳は、こぼれ落ちそうなぐらいに大きい。
「もしかして、あなたが『リリー』!?」
クロエが声を荒げてしまうほどに、その娘の外見は、“聖女”の特徴と合致していた。
まだ幼い娘子だが、その面影には見覚えがある。おそらく、彼女がリリーで間違いないだろう。
「一応確認してほしいんだけど、この子で合ってるよね?」
目の前に“聖女”を突き出され、ソフィアは慌てて口を開いた。
「ええ! 驚いたわ、二人が知り合いだなんて」
「遠縁とでも言えばいいのかな。リリーのことは、生まれた時から知っているよ」
「なんなの? ちゃんと説明してよ、マルクス!?」
見知らぬ豪邸にいきなり連れていかれ、“聖女”もさぞかし混乱しているだろう。
さらに近づいていくと、彼女はびくりと体を揺らした。
「驚かせてごめんなさい、リリーさん。私の名前は『ステファニー・ドゥ・ラ・モンドヴォール』。王太子の婚約者に内定している、公爵家の娘です」
ソフィアが“公爵令嬢”の名を告げると、リリーは目を白黒させる。
「えっ、公爵家のお嬢様? ってことは、いま私がいるのは、お貴族様のお屋敷なの?」
「ええ。ここはモンドヴォールの邸宅ですよ」
状況を全く理解できていない少女に向かって、深い話を始めることには躊躇いもあるが、ソフィアは言葉を続けた。
「こんなことを言われても信じられないとは思いますが、王太子殿下はこの先、私ではなく、あなたを妃に望まれることとなります」
「ソフィ……ステファニー様! 一体なにをおっしゃっているのですか」
不安げなレオンの瞳が、こちらをのぞき込む。彼にもきちんと説明をするべきなのだが、今はまず、リリーとの対話を優先しなければならない。
ソフィアは護衛騎士に目配せをしてから、再び“聖女”に向き直った。
「王太子妃の座につく。それはつまり、あなたが将来、国母となることを意味しています。そのうえで、リリーさんに尋ねます。あなたに、ルイス王太子殿下の妃となる覚悟はおありですか」
その問いかけに、室内はしんと静まり返る。
「生半可な気持ちで、王太子妃は務まりません。ただでさえ覚えなければいけないことが多いというのに、平民育ちのあなたの場合は、立ち居振る舞いから身につけていく必要があります」
少女はうつむいたまま、ソフィアの言葉に耳を傾けているようだ。
「ちょっと、リリーさん? ステファニー様に対して、返事の一つもないのですか!?」
硬直している聖女に向かって、クロエが苛ついた声を投げる。
「あの、ですね……」
ぼそぼそと話す“聖女”の言葉を聞き取ろうと、全員が顔を寄せた。
「嬉しいんです。やっぱり私が、王太子様と結ばれる運命だったんだなって!」
「……はぁっ!?」
とびきり大きなクロエの怒号が、部屋に響き渡る。
「ずっと待っていたの。白馬に乗った王子様が、迎えにきてくれるその日を! ああ私、王子様の恋人になれるなら、なんだって頑張ります!」
「え……っと。それは良かったです?」
ものすごい圧で迫られたソフィアは、たじろぎながらもなんとか返事をした。
もしかすると“聖女”は、少し夢見がちな、変わった子なのかもしれないわね。
しばらく呆気に取られていたクロエは、それ以上我慢ができなくなったのか、二人を裂くように割って入った。
「仮にも婚約者候補であらせられるステファニー様に向かって、なんという口の利き方ですかっ! リリーさん、そこに座りなさい!」
「はいっ!?」
ぺたりと床に座り込んだ“聖女”の前に、仁王立ちをしたクロエが立ちはだかる。
「私は今も、ステファニー様に国母になっていただきたいと願っております。ですが、他ならぬステファニー様が、王太子のお相手はあなただとおっしゃるから、仕方なく受け入れようとしているのですよ。だというのに、なんですかあなたは!?」
怒りが収まらないクロエは、人差し指を“聖女”に向け、不平を並べ立てていく。
「『王子様の恋人になりたい』? 軽い気持ちで務まるものではないと、先ほど知らされたばかりでしょう!? 平民上がりだからといって、甘く見てもらえると思っているなら大間違いですよ!」
リリーは肩をすぼめて、完全に萎縮しきっている。
クロエの主張は正しいのだが、一方的に責め立てられる“聖女”の姿は、まるで飼い主に叱りつけられている子犬のようで、だんだんとかわいそうに見えてきた。
「クロエ様、そのくらいにしておきませんか。彼女も悪気があったわけではなさそうですし」
「ステファニー様はぁ、優しすぎるのです……っ!」
なぜだか悔しげに叫んだあと、彼女は両手を腰に当て、高らかに宣言する。
「とにかく、逃げるつもりはないと分かりました。あなたのことは、フリオン家へ連れて帰ります! 徹底的にマナーを叩き込みますから、覚悟なさい!」
クロエは刺繍道具を慌ただしく片付け、そのまま“聖女”を引き連れて行ったのだった。




