65 クロエの大望
ジラール邸へ赴いたクロエは、手元の針を動かすこともなく、うっとりとした表情でこちらを眺めている。
さすがに視線が気になり始めたソフィアは、刺繍枠を置いて彼女と向かい合う。
「あのう、クロエ様?」
「はぁ……さすがステファニー様。手芸もお得意でいらっしゃるのですね!」
クロエの指す先には、今まさにソフィアが繍い進めていた、刺繍道具が広がっている。
開催を間近に控えた剣術大会では、王太子にハンカチを贈らなければならない。
今日は、ソフィアが借りている部屋にクロエを招き、それぞれが用意したハンカチーフに、刺繍糸での装飾を施しているところだ。
レオンは私たちの邪魔にならないよう、離れたところに立っている。
私が“公爵令嬢ステファニー”のフリをしていると知らない侍女たちは、呼び出しがない限り、部屋には近づくなと厳しく言い含められているようだった。
「ええっと、お褒めいただきありがとうございます? それよりも、ハンカチ選びにお付き合いいただき、ありがとうございました」
「そんな! 私ごときに頭を下げるなど、恐れ多いです……っ!」
嬉しそうに悶え苦しみながら、侯爵令嬢は叫ぶ。
ソフィアが王太子のために選んだハンカチーフは、周囲をぐるりと囲む金糸の縁取りが、ささやかでありながらも美しい一品で、クロエの贔屓にしている行商人から買い受けたものになる。
今でこそクロエは談笑しているが、再会してからしばらくの間は、こちらの顔を見るたびにさめざめと泣くものだから、すっかり参ってしまった。
どうして、ここまで“ステファニー”が好かれてしまったのかしら。本当に不思議だわ!
「それにしても、このデザインでよかったのでしょうか」
ソフィアが王太子のために考えたのは、国獣である一角獣に、ミニバラをあしらった図案になる。
けれども、ユニコーンをモチーフに選んだのは、ありきたりだったかもしれない。
一流の調度品に囲まれている王太子は、中途半端な出来では満足いかないのだろうから、せめて見栄えのいいデザインにしておきたいところだった。
「もちろんでございます! ステファニー様がご自身で考えられた絵柄というだけで、このハンカチには金銀財宝に匹敵する価値があります!」
「ええと、そうですかね」
無理に浮かべた笑顔のせいで、ソフィアの顔が引きつる。ステファニーを心酔しきっているクロエの意見は、そこまで参考にならないかもしれない。
「本当なら、私が欲しいぐらいですけれど。国獣を身につけてもいいのは、王族と国王の許しを得た一部の人間だけですし、大人しく王太子殿下にお譲りしますわ」
「あ、あはは……」
ソフィアは笑顔を貼りつけたまま、密かに安堵した。
贈り先が王太子様だからよかったものの、国獣を気軽に扱ってはいけないなんて、全く知らなかったわ!
「ところで、なぜ薔薇を選ばれたのですか? 確かに綺麗ですけれども、国花ではありませんし」
彼女は赤い小花を、ちらりと眺めた。
「実は、ルイス殿下との思い出の花なのです」
「まあ……!」
クロエは口元に手を当て、目を輝かせる。
一本の紅薔薇に秘められた、王太子と公爵令嬢の出会いの物語は、再び身代わりをすると決意したあとに、モンドヴォールの侍女から密かに聞きとっていた。
「クロエ様はご存知だと思いますが、お城の裏側には、亡き王太后様の庭園がありますよね。そこで」
「ステファニー様っ、おやめください!」
突然の絶叫に、私とレオンはびくりと体を揺らす。
目の前の令嬢は、手のひらをソフィアへ向け、必死の形相でこちらを見つめている。
とはいえ、レオンがその場から動かないところを見ると、危険な状況ではないと捉えているようだ。
「どうかなさいましたか、クロエ様?」
「それ以上は、お心に秘めたままで……! お二人の大切な思い出を、私めが汚すわけにはいきませんので!」
どうやら純粋に、二人の馴れ初めを語らせるべきではないと思っているらしい。
「ふふ、クロエ様はお優しいのですね。ありがとうございます」
ふわりと微笑みかけると、「はふぅ」という気の抜けた声だけが返ってくる。
と同時に、彼女が危うく落としかけた作業途中の品を見て、ソフィアは思わず声を漏らしてしまう。
「クロエ様も、やはり王太子殿下にハンカチを贈られるのですか?」
そこには、逞しい一角獣の横姿が描かれていた。
「まさか! お二人のご迷惑となるようなことはいたしません。これは、第二王子のフィリップ殿下に渡すつもりです」
クロエは満足げに言い切る。
たしかフィリップ王子は、ステファニーよりも三つほど若かったので、この頃はまだ十歳前後のはずだ。剣術大会にも参加しない第二王子に、なぜハンカチを贈るのかしら?
すると、彼女はこちらの心の内を見透かしたかのように、口を開いた。
「剣術大会には、少年の部もありますでしょう? どうやら今年から、そちらの優勝者が弟王子との対戦権を手にすることができるのですって」
「あら、そうでしたか」
「なぜ幼いフィリップ殿下に、私がプレゼントを贈ろうとしているのか、気になります?」
ようやく作業に戻ったクロエは、刺繍を進めながら続ける。
「ええ、もちろん」
「それは、私が第二王子の婚約者の座を狙っているからです」
「……はい!?」
驚いた様子のソフィアを見て、彼女は得意げに語り始めた。
「もちろん、ステファニー様の側仕えになる道も、諦めてはいませんのよ! 私は神官の予言など、信憑性に欠けると思いますしね」
それからクロエは、ステファニーが王太子妃にふさわしい点を、一つずつ細かく述べていく。
『内面の美しさ』とやらに始まり、しまいには誰から聞き取ったのか、やんちゃばかりをしていた幼い“公爵令嬢”の無謀なエピソードを持ち出しては、「度胸は必要ですから」などと、うまく話をまとめていくのだった。
賛美の言葉が止まったのは、おおよそ二十分ほどが経過してからのことだった。
「ですから! 私は、王太子妃になられるのは、ステファニー様だと確信しておりますの!」
「そこまで言っていただけて、嬉しいです。ありがとうございます」
ソフィアはぎこちなく笑いつつ、丁寧に頭を下げる。
「それで、ですよ? ステファニー様が王太子妃になられましたら、次は第二王子のお相手探しが始まりますよね?」
クロエはずいと身を乗り出し、尋ねてきた。確かに、王太子妃候補者が神殿での花嫁修行を終える頃には、弟王子もすでに成人しているだろう。
「おそらく、そうなるでしょうね」
「では仮に、私がフィリップ殿下の妻となりましたら。その際は、ステファニー様の義妹になりますよね? つまり、『義姉様』とお呼びしても、なんの問題もありませんよね!?」
「えっ!? ええと……そうですね?」
勢いに圧倒され、気づけばそのように答えてしまっていた。
「本当ですの!? 今のお言葉、絶対に忘れませんからね!」
侯爵令嬢は刺繍枠を放り投げ、歓声を上げた。
落とし物をレオンから手渡された時も、心ここにあらずといった様子で応じ、それからもそわそわと落ち着かない姿を見せている。
「ああでも、ステファニー様と片時も離れることなく過ごすためには、側仕えになる必要がありますよね。かといって、義妹の地位は魅力的ですし!」
暴走する少女を眺めながら、ソフィアは手元の作業に戻ることを決めた。
しばらく賑やかにしていたクロエは、ようやく一息つくと、不思議そうな表情を浮かべる。
「そちらのものは、練習用ですの?」
彼女が指差したのは、刺繍道具の隣にある、小さく折りたたまれたハンカチーフだった。王太子のために用意したものとは異なり、白金の糸で縁取りがされている。
「えーっと……ああ! そういえば、クロエ様がたてがみの箇所に使われている糸は、綺麗な色合いをしていますよね。見せてもらってもいいですか?」
不自然に話題を変えると、クロエはわずかに戸惑いを見せたが、深くは追及してこなかった。




