61 魔導士長の専属レッスン①
マルクスによる魔術の訓練は、初歩的なところから始まった。
「まずは、ソフィアが魔力を感じられるようにならないとね」
周囲に控えるイザベラたちの、熱い視線を浴びながら、彼は両手を差し出す。
「手を貸して。少し、面白いことをしてあげる」
ここはマルクスのために用意された、子爵邸の一室。どこから持ち込んだのか、部屋じゅうの至るところに、謎の植物や実験器具が散乱している。
ソフィアが彼と手を組むことを決めたのが、今日の午前中のこと。マルクスは、あっという間に雑事を片づけて、ソフィアらを招き入れたのだった。
そばに立つレオンは、怪訝な面持ちで魔導士を見つめている。
よく分からないけど、やってみるしかないわよね?
おそるおそる手を重ねると、マルクスの右手だけが、異様に冷たく感じられた。
そしてその冷気は、指先から腕をつたって、ソフィアの体をじわじわと冷やしていく。
「なにこれ! 私に術をかけてるの?」
おそらく、外見上はなんの変化もないだろう。サラは不思議そうに、繋いだ手を凝視している。
「いいや。僕はただ、ソフィアの持つ魔力を、感知しやすいようにしてみただけだよ。血が全身を巡るように、魔力も体中に満ちている。今、違和感を感じているそれが、ソフィア自身の魔力なんだ」
逆もできるよ、と言って、今度は指先から魔力を温めてみせた。
「自分の力を感知できるようになるのが、第一段階かな。感覚が掴めるようになるまでは、しばらくこんな感じでやっていくしかない」
そしてマルクスは、使用人らの求めに応じて、彼女たちにも同じことを行っていく。
「ほわー。思ったよりも、地味な練習ですね?」
魔力を感じたばかりのイザベラは、自分の手を握ったり開いたりしながら、初めての感覚を確かめているようだった。
「こればっかりは慣れというか、覚えてもらうしかないからね」
「感覚を掴めば、魔術を使えるようになるのですか?」
サラは真面目な顔つきで、手を挙げている。どうやらソフィアと一緒に、本気で魔術を学ぼうとしているらしい。
「いいや。それだけでは、術を発動することはできない。たとえば、ここにある水だけど」
マルクスは、花瓶に生けられた花々を豪快に抜き捨て、机の中央に器を置いた。
「水単体は、魔力を持たない自然物だ。でも、その仕組みを理解して、自身の魔力をうまくまとわせることができれば」
彼の手の動きに合わせて、中の液体だけがふわりと浮きあがる。
「そこではじめて、術が使えるようになる」
マルクスが指を鳴らすと、球体の浮遊物は一瞬にして霧状に変化する。次第に霧が集まり、白い塊になったかと思うと、しとしとと水に戻り始め、再び花瓶の中へ還っていく。それはまるで、ほんのひとときだけ地表を濡らす、通り雨のようだった。
沈黙を貫いていたレオンも、さすがに目をむいて叫んだ。
「魔導士は、自然現象まで操れるのか!?」
「さすがに、みんながみんな、できるってわけじゃないけどね。高度な魔術を扱うためには、ありとあらゆる物の構造を熟知して、魔力に対する理解を深めていく必要がある。だから、第二段階はひたすら座学と実践だよ」
賑わう使用人たちの陰で、ソフィアは両手を握りしめ、魔力を察知しようと努めていた。しかし自分一人では、気配すら感じられそうにない。
「ねえ。マルクスは、どれくらい練習したの?」
「それがさ。僕はもともと魔力が見える体質だから、術を習得するまでに、大して苦労はしてないんだよ。ごめんね、参考にならなくて」
謙虚な物言いだが、鼻につくほどに得意げな顔つきをしている。
「天才肌なのね」
「大袈裟だなぁー。その通りだけど」
「じゃあ禁術も、難なく使えるの?」
その一言で、隣に立つレオンの空気が変わった。やはり彼も、言葉の端々に出てくる禁術のことが気になっているのだろう。
死を受け入れるしかなかった前世の私に、マルクスが施したという、“流星の禁術”。
彼は処刑人を装い、私を四年前の世界へ転生させた。ありがたいことに、前世の記憶まで残してくれているのだから、この時代では悲惨な未来を避けるために、自ら動くことができている。
転生したのは、疑いようのない事実になる。だからこそ、自分の身になにが起きたのか、はっきりさせたいとソフィアは考えていた。
マルクスは笑顔を貼りつけたまま、こちらへ距離を詰める。
「いや……禁術は別格かな。なんせまだ、研究段階の術なんだ」
それから一つ指を鳴らし、にぱりと無邪気な笑みを浮かべた。
「いい機会だし、今日は禁術のことを教えてあげる。ソフィアだけにね」
またしても、こちらの音声を遮断されたレオンは、不満げな表情を隠そうともせずに、魔導士を睨みつけている。
そんな護衛騎士に背を向けるようにして、マルクスは話を続けた。
「簡単に説明しよう。人にはそれぞれ、魔力量の限界ってものがある。この世に生を受けた時から、容量は決まっていて、それを増やすことはできない」
そうして、置き去りにされていた花瓶の横に、空のティーカップを並べる。
「このカップが、魔力量の限界だと考えてみて。ある程度の魔力は、生まれる前から体内に備わっている」
部屋に揃えられていたティーセットは、一目で高価だと分かる品だった。けれどもマルクスは、躊躇うことなく、花瓶の中身をティーカップに注ぎ始める。
遠くから見守っていたサラが、声にならない叫びを上げたのが分かった。
器の半量ほどが満たされたところで、魔導士はようやく手を止める。
「訓練すれば、魔力の量は増やすことができるよ。ただし、自分に与えられた容量までしか、力は伸ばせない」
今度はカップの縁の辺りまで、液体を注ぎ足す。
「この限界値を超えることはできないし、無理に魔力量を増やしたところで、器が壊れてしまうだけだ。ただし、流星の禁術を使った者は」
マルクスは、なみなみと水の満ちたカップを、魔術で慎重に浮かせたかと思うと、真下にソーサーを置いた。
「例外的に、その限界値を引き上げることができる」
空に浮いたままのカップへ、そろりと水が注がれる。わずかに中身は溢れたが、吸い込まれるように、受け皿へと落ちていった。
つまり、あのソーサーの分だけ、追加で魔力を貯められるようになったのだろう。けれども、ソフィアには腑に落ちない点があった。
「どういうこと? 禁術は、過去の世界へ戻るための魔術じゃなかったの?」
マルクスはへらりと頬を緩め、カップを皿の上に着地させる。
「その通りだよ。あくまでこの現象は、術の副産物だと思う。詳しい理由は分からないけど、自ら命を断つという、凄惨な体験によって、魔力の限界量が増幅する。さらに、この難しい術が成功すれば、経験値として魔力も相当増えるはずだ」
魔導士は話したいことを最後まで言い切ったのか、長いソファにどっかりと腰を下ろした。




