56 大きな選択①
公爵の書斎は地上一階にあるため、外からのアクセスも可能ではある。しかし、庭園から主人の部屋を訪れるような、無能な使用人がこの邸宅にいるとは思えない。
警戒しながら公爵が窓を開けたところ、爽やかな風とともに、小さな白い封筒が滑り込んできた。さらに驚くべきことに、その郵便物は、公爵の前で宙に浮かんだまま、動きを止めたのだった。
「なんなんだ、これは……?」
彼の差し出した手のひらめがけて、封筒がひらりと落ちていく。
それを引ったくるように奪ったマルクスは、手首を何度も返しながら、熱心に謎の物体をあらためた。
ソフィアもおそるおそる近づいてみたものの、一見すると、ありふれた状袋にしか見えない。
「危険なものではなさそうだ。開けてもらえるかな? モンドヴォール公爵」
「承知しました」
公爵の手元に戻ったそれは、慎重に封を切られたタイミングで、再び宙に浮いた。
「「!?」」
皆が驚いたのは、封筒が自らの意思で飛んでいったためではない。
空中で浮遊しながら、とある少女の姿を、はっきり映してみせたからだ。
「ステファニー!?」
公爵は娘に触れようとしたが、伸ばした手はあえなく空を切った。
ステファニーは誰の目も見ようとはせず、口をつぐんだまま、瞬きを繰り返している。
「ねえ、マルクス。これも、通信用の魔導具なの!?」
ソフィアと同じように、レオンらもマルクスに希求の目を向けた。
「うーん。あの鏡のように、リアルタイムでやりとりできる品ではないよ。簡単にいうと、“本人が読み上げてくれる手紙”ってところだね」
それを肯定するかのように、マルクスが話し終わる前に、ステファニーは手紙を朗読し始めた。
『ごきげんよう、お父様。ご心配をおかけして申し訳ございません』
本人とそっくりの声で、少女の影は饒舌に語っていく。
『置き手紙には、目を通していただけましたでしょうか。私の希望は、ルイス王太子との婚約を辞退していただくこと。その一点のみです。身代わりを立てて誤魔化そうなどとは、考えないでください』
淡々と要求を述べるステファニーの姿は、最後に出会った時と比べると、ずいぶん大人びて見えた。
私たちが必死にメッセージを聞き取ろうとしている最中、マルクスはふわふわと浮かぶ白い封筒を、楽しげに眺めている。
この怪事が魔術によるものなら、公爵令嬢の立体映像を映し出している封筒のほうに、なにかしらの仕掛けがあるのかもしれない。
『婚約が破談になるまで、そちらには帰りません。では、よき風の便りが届くことを、心待ちにしております。ステファニーより』
「あ!? ちょっと待ったぁー!」
マルクスが突然声を上げるものだから、その場に居合わせた全員が、びくりと肩を揺らした。
彼が慌てたのも無理もない。伝言を読み終えた封筒が、なんの前触れもなく燃え始めたのだから。
魔導士長は急いで腕を伸ばしたが、すでに最後の一片が、灰に変わるところだった。
「ああっ、くそ! こんな初歩的な細工をしていたなんて」
マルクスは雑言を繰り返したあとで、勢いよく三人のほうに振り返った。
「すまない、公爵」
「いえ。ステファニーのメッセージは最後まで聞けましたから、問題ありません」
「あの炎は間違いなく、魔術によるものだった。しかも術が発動するまで、その存在に気づかせぬほど、巧妙に仕掛けられていたみたいだね。どうやら相当な手だれが、公爵令嬢にはついているようだ」
マルクスは険しい顔で、公爵に歩み寄る。
「モンドヴォール公爵家は、腕利きの魔導士でも雇っていたりするのかな?」
「いえ。魔術を使える者は、この邸宅にはいないはずです。ステファニーの知り合いに、魔導士がいると聞いたこともありません。そうだよな、レオン?」
「はい、そういった話に聞き覚えはないですね」
難しい表情のまま、マルクスは質問を重ねていく。
「公爵令嬢は、婚約話を嫌がっていたの?」
戸惑う公爵に代わって、今度はソフィアが声を張り上げた。
「いいえ! ステファニー様は王太子妃になるために、必死にお勉強されていました。少なくとも、数日前までは」
「ふうん、そうか……」
それからしばらく、魔導士長はなにかを考え込んでいたが、自分のなかで結論が出たのか、満足げにうなずく。
「ソフィア、前言撤回だ! もう少し、公爵令嬢のままでいようか」
「はい!?」
「だから、これからも君は、ステファニーのフリをするのさ」
先ほどまでの、深刻な面構えはどこへ行ったのか。青年は弾ける笑顔で言い切ったのだった。
なぜそのような話に、と尋ねるよりも前に。
「マーケル魔導士長!」
ソフィアではなく、公爵が声を荒げた。怒りのあまり、彼の体はわなないている。
「ご冗談はおやめください。なぜこれ以上、ソフィア嬢を巻き込もうとするのです! それに娘だって、婚約話を断らない限り、この家には戻らないつもりなのですよ」
「あのさぁ。公爵はもう少し、冷静になるべきじゃないかな。婚約を破棄すれば、令嬢が戻ってくるなんて保証は、どこにもないんだよ?」
「い、いきなり、なにを言い出すのですか」
不穏な発言を受け、公爵は明らかに動揺している。
「ざっと聞いただけでも、娘さんの家出には、いくつか不審な点がある。まず一つ、手紙の内容は、令嬢の本心かどうかが不明瞭であること。さっきの話だと、本人は婚約話に乗り気だったんだろう?」
「え、ええ!」
意見を求められたソフィアは、何度もうなずいて返す。
「であれば、令嬢から届いたメッセージは、第三者によって作り上げられたものである可能性も、否定できないよね。もしかすると、他人の書いた原稿を読み上げるよう、無理強いされていただけかもしれない」
まるで、目から鱗が落ちる思いだった。
先ほど目にしたばかりの、暗い瞳のステファニーが思い出される。
突然の失踪に加え、それまでとは大きく異なる言伝の数々。彼女の妙な行動には、ソフィアも違和感を覚えていた。
「そして、二つ目。令嬢の失踪に、魔導士が噛んでいる点。協力者に心当たりがあれば、そこまで気にならなかっただろうけどさ」
公爵とレオンは互いに顔を見たが、やはり、思い当たる節はないようだ。
「いくら油断していたとはいえ、この僕を欺けるほどの能力を持った人間は、そうそういないはず。それほどの実力者が、令嬢の雲隠れに加担してるんだ。誰かの陰謀だと考えるのは、自然な流れだろう」
「マルクス様は、これがステファニーの気まぐれな家出話ではないと、そうお考えなのですね?」
レオンの問いかけに、マルクスは軽くうなずく。
公爵は沈黙を保っていたが、静かに顔を上げると、低い声で呟いた。
「仮にこれが、第三者に仕組まれた偽装の家出だとすれば。要求内容から考えるに、犯人は“モンドヴォール公爵令嬢”が王太子妃になると、困る立場の人間なのでしょう」
「うん、うん。そうだね!」
マルクスは満足げに腕を組み、話を引き継いだ。
「もっと悪い場合だってあるだろう。これが、個人的に公爵へ恨みを持つ人物の仕業だとすれば? 無事に婚約破棄が終わったら、次はどうするかな? 僕なら、手元に捕らえている公爵令嬢を始末するよ。だって、交渉材料を生きたまま帰す義理なんて、犯人にはないんだから」
この男は、なんて恐ろしいことを言うのだろうか。それも、ステファニーの実の父親である、モンドヴォール公爵を前にして。
「マルクス!!」
ソフィアは魔導士長のフードを引き、続きを牽制する。
「おっと! ごめんごめん」
それは、あまりにも軽すぎる謝罪だった。彼は変わらずに、微笑みをたたえている。
 




