53 二人の同居人①
静まりかえった室内に、無機質な秒針音が響く。特別室を訪れていた医師らは、簡単な診察を終え、すでに部屋を後にしていた。
詳しい検査は明日以降になるものの、やはりエリアスには、記憶障害が起こっているという見立てのようだ。
細かなやりとりに疲れたのか、兄は医師らを見送ってから、すぐ眠りについてしまった。母も疲れた顔をしながら、応接室のソファに深く腰を下ろす。
「母さん。休む前に、ちょっとだけ話を聞いてくれない?」
娘の頼みに、彼女はやわらかな微笑みを返した。ソフィアはふうっと大きな息を吐いてから、ゆっくり口を開く。
「あのね。私、しばらくの間、レオン様のお屋敷でお世話になろうかと考えてるの」
首の痣に触れながら、ソフィアは先刻の会話を思い返していた。
「さ、次期子爵様の話でも聞かせてもらおうか」
沈み込んでいるソフィアとは対照的に、目の前の魔導士は、いかにも気楽そうに言い捨てた。
「申し訳ないのですが、マルクス様は少し、外していただけないでしょうか」
丁寧に答えたレオンに向かって、マルクスは楽しげに顔を近づける。
「なんでさ。僕に聞かれたら、困ることでもあるの? 救出劇には一役買ったんだから、一緒に聞く権利ぐらいはあると思うんだけど?」
「……おっしゃるとおりでございます」
異常な距離の近さに、レオンは戸惑いつつ、懐から手鏡を取り出した。
驚くべきことに、鏡にはモンドヴォール邸にいるはずの、公爵の姿が映し出されている。
後で聞かされたマルクスの解説によると、これは魔導具と呼ばれる品で、離れた人物とも連絡をとり合うことのできる、貴重な器具だそうだ。
これを加工したのも、魔塔の人間らしい。つくづく、魔術とは便利な能力だと感心してしまう。
「では、続きは公爵様からお話しいただきます」
レオンに促されたモンドヴォール公爵は、誘拐事件にソフィアを巻き込んだことを謝罪したのちに、郊外の別荘でソフィア一家を匿いたいと提案したのだった。
今回は、エリアスを狙った誘拐事件も同時に発生していたが、ソフィアの拉致に関しては、モンドヴォールの馬車が襲撃されたことから、自身の家門に対する攻撃だと判断していたらしい。
身代わりの事実を、ソフィアの家族たちへ正直に打ち明けたうえで、犯人が捕まるまでは、モンドヴォール家の庇護下に置くのが最善だと考えている様子である。
それに異を唱えたのが、この人騒がせな魔導士だ。
「いや、そんなことしたって、なんの意味もないでしょう」
「!? レオン。なぜ、人払いをしていないのだ」
公爵の厳しい目は、マルクスに向けられている。あからさまな態度からも、この魔導士が、ソフィアを拉致した張本人だということは、すでに知っているようだ。
「勘違いしないでよ、モンドヴォール公爵。僕は個人的に、ソフィアと話をするために連れて行っただけで、モンドヴォールに害をなすつもりはないんだ」
「……では、話を変えましょう。彼女たちを保護したところで、なんの意味もないとは、どういうことでしょうか」
重々しい雰囲気のなかでも、マルクスはからからと笑いながら答える。
「よく考えてみなよ。今日はモンドヴォールの精鋭たちを、護衛につけてたんだろう? それでどうなった? 手も足も出せなかったじゃないか。どこにソフィアを隠したって、また魔導士に襲われれば、結果は同じだ。大事なのは“誰が守るか”だと思うけどね」
「では、貴殿はどのようにすべきとお考えですか」
慎重な問いかけに、マルクスはさらりと応じた。
「ソフィアは魔塔で暮らせばいい。他の家族のことは、君たちに任せるよ」
そこからなぜ、ジラール子爵邸で厄介になる流れへ変わったのか。
それは、レオンがこう反論してくれたからだった。
「国王直属の組織に、偽の王太子妃候補を預けるわけにはいきません。魔導士への対策は、今後検討するとして、これからは私が、護衛騎士となってソフィア嬢を守ります!」
意外にも、マルクスはその案をあっさり受け入れる。ただし、条件付きではあったが。
そして、娘から突拍子もない提言を受けた母は、その場で固まってしまっている。
「ほら、狙われてるのは私だけだし、犯人が分かるまでは、隠れていた方がいいのよ。ああでも、あの家に帰ったら、母さんたちも危ないでしょ? だからしばらくは、ケビンやエリアス兄さんを連れて、別のところで暮らしてもらえないかな」
慌てて付け足すと、ようやく正気に返ったのか、母は瞬きを繰り返しながら、言葉を絞り出した。
「それなら、あなたも一緒にきなさい。見つからなければいいだけだとすれば、私たちと離れて暮らす理由にはならないでしょう」
すると、隣でじっと構えていたレオンが、会話に割って入った。
「あなた方にとって、娘御が大切な存在だということは、重々承知しております。それでも、これは家族だけでどうこうできる範疇を、とうに越えています。もちろん、ご家族の皆さまにも、安心して暮らせる家をご用意いたします。ですがソフィア嬢だけは、そばにいてもらわなければ、いざという時に守りきれません」
彼はずいと身を乗り出し、母の手にそっと触れる。
「これだけ大きな事件に巻き込まれたのです。心労もいかばかりかとお察し申し上げます。兄君にはもちろん静養が必要ですが、あなた様も休息をとるべきだと、ソフィア嬢は以前から心配なさってましたよ」
確かめるように、母がこちらを見つめる。そういえば、母親の体に不安があるということは、ダンスレッスンの際に雑談の一つとして、彼に伝えていたのだった。
「そもそも、花祭りで不穏分子の種を取り除けなかったのは、私の落ち度です。どうか、挽回する機会をいただけませんでしょうか。みなさまと同じように、私もソフィア嬢の助けになりたいのです」
戸惑う母親の隣に、今度はマルクスが勢いよく座った。
「安心してよ、お母さま! 僕もそばにいるからさ」
さらに混乱する母を見守りながら、ソフィアはため息をつく。
これこそが、マルクスの出した条件だった。
 




