25 悪夢が始まる
とある夜更け、ソフィアは短い夢を見ていた。
暗い森の中、一人で立ちつくすソフィアの周りには、たくさんの落葉が散り敷かれている。驚くほどに静かで、周囲に人の気配は感じられない。
はらはらと落ちる色とりどりの枯葉は美しく、ただ呆然と、それを見守っていた。
静寂は突如破られる。
足元に広がる朽ち葉を、ガサガサとかき分ける音が聞こえてきた。胸騒ぎを覚えたソフィアは、その場から逃げ出そうとしたが、体がこわばり、思うように動かすことができない。
しばらくすると、こちらへ滑り寄る長い影が目に映る。それは、漆黒の鱗を持った大蛇であった。
助けを求めようにも、口元からはヒューヒューと空気が漏れるだけで、声を上げることができない。
蛇は獲物が逃げないことに気づいたのか、嬉しそうに笑いながら、足首に絡みついてくる。
「やめて……っ!」
目を開くと、真っ白の天蓋が飛び込んできた。はやる鼓動を抑えながら、そこでようやく、悪い夢であったと気づく。
「お目覚めになられましたか、ステファニー様」
首を動かすと、寝台の横には壮年のころの神官が立っていた。
心配で駆けつけてくれたのだろう。手にはシルバーの水差しとグラスを持っている。
「お騒がせして申し訳ありません、もう大丈夫ですから」
「酷い夢を見られていたのですね。よろしければ、お聞かせ願えますか?」
ソフィアは体を起こしてグラスを受け取り、一口含んでから、まだ鮮明に残る夢の記憶を語り始めた。
「蛇が、大きな黒い蛇が、私に迫ってきたのです」
「ほう。神話では、蛇が不幸の象徴として描かれています。その蛇がなにかしたのですか?」
「いいえ。ただ、笑顔で近づいてくるだけでした。けれども、それがかえって不気味に感じられたのです」
鋭い牙の隙間から届く、規則正しい呼吸音を思い返し、身震いする。
「ふむ。蛇が近寄ってくるという夢は、御身に迫る危険を知らせるものかもしれません」
彼はグラスを受け取ると、水差しとともにサイドテーブルの上へ並べた。
意識がはっきりしてくるにつれ、先ほどの光景は、なんてことないただの夢だと思えてきたのだが、目の前の神官は難しい顔で考え込んでいる。
「我々神官は、よく予知夢を見ます。日ごろから神との対話を試みていますが、体の緊張状態がほぐれている睡眠時が、実は神の声を最も聞き取りやすい時なのです。ステファニー様も、神殿へいらしてからは毎日ご祈祷されていますし、そういった啓示を受けてもなんら不思議ではありません」
それにしても、嫌な夢だった。ネグリジェはじんわりと汗ばんでいて、気持ちが悪い。
何気なく胸元に手を当てると、結んでいたはずのリボンが外れてしまっていた。とっさにガーゼケットで隠そうとしたところ、目の前の神官がそれを制止する。
「隠さないでください、フィー」
「はい?」
聞き間違いでなければ、彼は『ステファニー』ではなく、『ソフィア』の名を唱えたようだ。
状況を把握できず、ソフィアは戸惑っていたが、強引に掛布を剥ぎ取られ、初めて身体の危機を感じた。
「自室へお招きいただけるとは、よほど私が恋しかったのですね?」
「なにをおっしゃっておられるのですか。それ以上近寄らないでください!」
あまりにも心当たりのない言葉に、胸が早鐘を打つ。
ソフィアは胸元を手で覆いながら牽制したが、彼はこちらの強い語気に、かえって興奮したようだった。
「焦らさなくたっていいんですよ。ちょうど、月明かりがさしてきました。そろそろ、本当の姿を見せていただけませんか?」
つつつ、と足の甲に触れられて、全身に寒気が走る。
ソフィアは急いで水差しに手を伸ばし、全力でそれを振り下ろした。
「ぐぅっ……」
神官は鈍い声をあげ、ベッドの下へ転がり落ちていく。ちょうど頭の真ん中に命中したらしい。
うずくまる神官を避け、裸足のまま窓辺に駆け寄ると、そこに置いていた燭台を掴んで相手に突きつけた。
「ここから出ていきなさい!」
しかし、神官はおぼつかない足取りで、こちらへ近づいてこようとする。
「出ていきなさいってば!」
必死に腕を振り回していると、突如部屋が明るくなった。
「そこまでだ」
力強い声には、聞き覚えがあった。
それは神官も同じだったのだろう。よろよろと振り返り、大きな声を上げる。
「こっ、これは……ルイス王太子殿下!」
月光を受けて輝く、プラチナの長い髪を見て、思わず涙がこぼれてしまう。
こんなところまで助けにきてくれたのか。
一国の王子が現れたことに当惑しながらも、神官は彼の前に向き直った。
「一体どういうことですか。正式な手続きも踏まずに、神殿へ入られるとは。それも、ご丁寧に兵まで引き連れて!」
その言葉通り、王太子の背後には数名の兵士がつき従っている。
「このような状況で、誤魔化しがきくとでも思っているのか?」
白く光る瞳に睨みつけられ、神官の体が小さくなった。
「まずは城へついてくるのだ。ここはどうにも落ち着かない」
彼が手を上げると、後ろに控えていた兵士が王太子の外套を外し、それをソフィアの肩へかぶせた。
「それとステファニー。そなたもここから出てもらうぞ」
「はい、殿下」
ソフィアは王太子の元へ駆け寄ろうとする。けれども、マントを渡してくれた兵士がそれを阻み、ソフィアの腕になにか冷たいものを押し当てた。
目線を下ろすと、両手首が錠でじゃらりと結ばれている。
「これは一体、どういうことですか!?」
婚約者の叫びを耳にしても、王太子はこちらに目を向けることもなく、泰然とした様子で応えた。
「王が玉座の間でお待ちだ。そこで、全てを明らかにする」




