23 秘めた想い
長い冬は終わり、花の咲く季節が訪れる。
庭に咲いたカモミールが、時折甘い香りを屋敷に届けていた。
庭師と談笑するステファニーを、ソフィアはカーテンの陰からそっと見下ろす。彼女は想い人との別れを経て、何日も塞ぎ込んでいたが、このごろはずいぶんと明るさを取り戻してきたようだ。
神殿入りも目前となったこの日、王太子は前触れもなく、モンドヴォール公爵邸を来訪した。
「私へ会いに? 殿下がわざわざ、ここまでいらしたのですか?」
ステファニーが渋い顔で使用人を問いただすと、二人の不和など知らぬ下男は、嬉しそうに答える。
「神殿に入られる前に、お二人で過ごされたいのでしょう。応接室でお待ちいただいております」
彼女は少しの間、あごに指をあてて考え込んでいたが、晴れやかな笑顔で答えた。
「では、殿下を私の部屋へ連れてきてください。そのほうがきっと、彼も気楽でしょうから」
別室から様子をうかがっていたソフィアは、ぎょっと目を見張った。いくら終わったことだとはいえ、恋人と甘い時間を過ごした自室に、婚約者を招き入れるとは。
もしかすると、これは不名誉な噂を流し続ける王太子に対した、彼女なりの報復なのかもしれない。
使用人が下がると、アンヌとステファニーはすぐに目を見合わせる。
「では、ステファニー様」
「ええ」
そのまま二人は連れ立って、なんとこちらの部屋へ入ってきた。
「あの、アンヌ様!? まさかとは思いますが、私が殿下をお迎えするのですか!?」
うろたえながら二人の後を追いかける。くるりと振り返ったアンヌは、屈託のない笑みを見せながら、ソフィアの手を取った。
「なぜステファニー様に、あんな男の対応をしていただかなければならないのです? どんな手を使ってもいいですから、すぐに追い出してしまいなさい!」
「はっはいぃ!」
急き立てられるままに、ソフィアはステファニーの部屋へ飛び込んだ。ほどなくして、使用人に連れられた王太子が姿を現す。
「ようこそお越しくださいました、殿下」
カーテシーで迎えたものの、こちらには目もくれず、部屋の奥へと進んでいく。
「よくも、ここへ招き入れようと思ったな。まさか、私を拒絶したあの日を忘れたわけではあるまい」
「その節は、大変失礼いたしました」
深く頭を下げると、王太子は冷笑を浮かべ、布張りの椅子に深く腰をおろした。
「今となっては昔の話だ。そなたも座るがいい。これからのことを話そう」
彼は壁のあたりを見つめたまま、傲然と語り始める。
「そなたの望みは王后の座であろう。ならば叶えてやる。しかし、国母になることは許さない。後継ぎを産むのはリリーだけだ」
その口が異性の名を唱えることに、胸が騒いだ。ソフィアが耳にしたのは、日ごろ紙面を賑わせている、噂の聖女の名前だった。
「まさか、本当だったのですね。平民の娘といい仲であるというのは」
「なにをしらじらしいことを。そなたが裏で手を回して、リリーを追い詰めているのだろう。彼女は今、実家で暮らせぬほど、誹謗中傷に晒されているのだぞ!」
「それは、彼女自身が引き起こした事柄ではありませんか? 婚約者のいる相手にすり寄ったのですから」
糾弾するような弁に、噛みつかれはしないかと肝を冷やしたが、彼は悠々と話し続ける。
「いい気になるのも今のうちだ。正式な許可は下りていないが、父上はモンドヴォールとの縁さえ組めば、リリーの王室入りには反対しないとおっしゃっている」
「まさか、その方が側室となられるのですか?」
疑わしげに尋ねると、短く「そうだ」とだけ返ってきた。
「殿下。確かに男性の王族は、複数人の妻を娶ることを許されています。けれども、正式な妃を迎える前に妾を囲うなど、聞いたこともありません」
こちらが投げた正論も、フン、と鼻で笑い飛ばされる。
「順序など、どうでもいい。今日はそなたの役目を、きちんと認識させておきたかっただけだ」
「私の役目ですか?」
「いや、『王后の役目』と言った方がいいだろう。王の伴侶には様々な能力が求められる。特に正妃は、後宮の秩序を守るという大役を果たさねばならない。そなたにはそれができるか? たとえ相手が寵妃であっても、受け入れる懐の広さを、そなたは持ち合わせているか?」
あの肖像画の女性が、王太子の愛を一身に受けることを考えると、ソフィアの胸はズキリと痛んだ。
「以前、殿下はおっしゃいましたよね。世継ぎを産み育てることは、王后の責務であると。なぜその義務を放棄なさりながら、私にだけ“正しくあれ”と説くのですか」
「嫉妬か? 醜いな、私のことを好いてもいないくせに。そなたには話したはずだ! 自身の行いを改めよと。しかし、悪行は留まるところを知らず、ついにはリリーにまで手を出す始末。愛想を尽かされるのも仕方のない話であろう」
「……身に覚えのないことを、責められるいわれはありません」
必死に声を絞り出したが、王太子は腕を組んだまま立ち上がり、ソフィアの前で威圧的に言い放った。
「もう一度警告しておく。リリーには手を出すな。私の愛は彼女だけのものだ」
そこからのことは、よく覚えていない。
王太子が部屋を去ってから、ようやく我に返ったソフィアは、彼を追いかけようとしたものの、廊下にはジラールが一人立っているだけだった。
「レオン、王太子殿下は」
ジラールは何も言わずに、ポケットから取り出したハンカチをこちらの頬に当てる。いつしか、ソフィアの瞳からは涙が零れていた。
「許可なく触れたことをお許しください、ソフィア嬢」
久しぶりに本当の名を呼ばれ、堰を切ったように涙が流れだす。
「ジラール卿は、本当にすごいですね。もう、私とステファニー様の違いに気づく人など、誰もいないというのに」
自嘲めいたソフィアの薄笑いを見つめながら、彼は悲しげに眉を下げた。
「卿、私は……不相応なのですが、お慕いしていたのです。ルイス殿下のことを」
借りたばかりの白布を濡らしながら、自分の正直な気持ちを初めて吐き出す。
ジラールはなにも言わずに、ソフィアが泣き止むまで、じっとそばに寄り添っていた。




