22 公爵令嬢の情人
内容に一部性的な表現を含みますので、苦手な方はご注意ください。
巷で広がり始めた風説に、当初は誰も耳を貸そうとしなかった。
“聖女”というと大げさに聞こえるが、それは彼女に近しい者がつけた呼称にすぎず、本人は至って普通な村娘だそうだ。
王都から滅多に出ない王太子が、どのようにして彼女と出会うことになったのか、明確な話は一向に明らかとならず、たいていの者は、それを王族批判のための作り話だと捉えていた。
そもそも、堅物として知られる王太子が、婚姻を間近に控えながら女にうつつを抜かすなど、にわかには信じがたい。
特に王城のメイドたちは、婚約者と仲睦まじく過ごす主人を目にしていたため、醜聞を強く否定した。
しかし、王太子がステファニーとの茶会を断り続けたうえに、聖女との目撃証言は次第に具体性を増していき、城の中も、にわかにざわつき始める。
ついには、自分の恋人を国王へ紹介したという話までもが持ち上がり、国民からは王太子を非難する声が出始めた。
彼の株が下がるにつれ、ステファニーは“王太子妃教育に精を出すも、愚かな婚約者に虐げられる薄幸な令嬢”として、民からの同情を得ていくことになる。
薄雪の積もる今日も、公爵邸の周辺には大勢の国民が集い、未来の王太子妃へエールを投げかけていた。
敷地を囲む石壁に阻まれているにもかかわらず、彼らの声援は屋敷にまで届いている。
ソフィアはその声を聞きながら、状況を理解できずに苦しんでいた。
条件つきとはいえ、王太子は婚約継続について、前向きな発言をしていたはずだ。しかしながら、国中では彼のスキャンダラスな話題が溢れかえっている。
新聞に描かれた“聖女”の肖像が、より一層ソフィアの胸をざわつかせた。
いけない、冷静にならないと。
心ない流言飛語に最も苦しめられているのは、間違いなく当事者のステファニー様よ。
私は私で、今できることを精一杯やるしかないわ。
ソフィアは頬を叩き、勉強机に向かう。課題に取り掛かろうとした際に、隣室からカタリと物音が聞こえた。
おかしいわね。ステファニー様はいまごろ、別室で語学のレッスンを受けているはずなのに。
ソフィアはいくつかの異国語を学んでいたが、それは文法の理解や熟語の習得といった、座学の一部に限られている。
スピーキングに関しては、ステファニー自身が生きた言葉を身につける必要があるため、あらかじめソフィアの予定からは除外されていた。
それらの講義では、各国から招いた語学教師たちと会話を重ね、ネイティブの言語習得に努めているそうだ。
今日は自室での学習に変更されたのだろうか。隣室の様子に耳をそばだてると、なかなかの早口で話が進んでいる。
ソフィアは、ふと考えた。身につけた語学力で、彼女たちの会話を聞き取ることはできるのだろうか、と。
それは、わずかな興味だった。
薄く扉を開き、大国ランドサムスの公用語である、帝国語に耳を傾ける。
彼女たちがなにを話しているのか、なかなか理解できなかったソフィアは、ようやく聞き取れた単語に耳を疑う。
男性教師が囁いたのは『愛』──愛していると、彼はそう言ったのか?
扉の隙間から覗き込んでみると、がっちりとした背中がすぐ目の前にあり、思わず声をあげそうになってしまう。
背の高い男性は、ステファニーを力強く抱擁しているように見受けられる。
ソフィアはあまりの事態に当惑していた。
彼女を助けにいくべきか。いや、ここで姿を現せば、『ソフィア』の存在が屋敷中に知れ渡ることになる。
そうなれば今度は、ステファニーの立場が危ぶまれてしまうだろう。
一人で逡巡していたところ、教師の腕から逃れたステファニーと偶然にも目が合った。少し驚いた様子を見せたが、にんまり目を細め、こちらに笑みを向ける。
それから彼女は、教師の首に素早く腕をまわし、あろうことか紅唇を重ねた。
見せつけるかのような挑発的な口付けは、それでいながら婉麗で、同性であるにも関わらず目を奪われてしまう。二人は体を動かすこともなく、ただ時間をかけて、柔らかい繋がりに浸っていた。
やがて、どちらからともなく、唇が離れていく。昂りを抑えきれなくなった男は、少女に身体を寄せ、むさぼるように玉唇を求めた。
ステファニーは身を震わせながらもそれに応え、そしてそのまま、扉をガチャリと閉じてしまった。
ソフィアは眼前での出来事に、しばらく放心してしまう。とてもではないが、その後は隣室の様子を窺う気になれなかった。
それから、どれくらいの時間が経ったろうか。
騒いでいた民衆たちは姿を消し、辺りには雪がしんしんと降り始めていた。
静寂をまとったまま、扉の向こうからステファニーがやってくる。その肌は、わずかに上気しているように見えた。
「驚いたわよ。いきなりフィーと目が合ったのだもの」
彼女は悪びれもせず、いつもと同じ笑みをたたえている。
「私がいけなかったわ。部屋に戻ることを伝えていませんでしたもの。ごめんなさいね?」
その言葉に愕然とした。ステファニーの謝罪は、あの行為に対するものではない。
「ステファニー様。先ほどのあれはなんだったのですか」
ぽつりとこぼすと、彼女の顔から表情が消える。
「あなたの見た通りよ。女として求められ、それに応えた。ただそれだけ」
偽りのない言葉を返され、頭にかっと血が上ってしまう。ステファニーは、誠実で愛らしく、多くの人に慕われる人物のはずだ。真向かいで淡々と不義の事実を語る娘とは、まるで別人のように思えた。
ソフィアは、震え声を必死に張り上げる。
「王太子殿下を裏切ったのですか!?」
「落ち着いて聞きなさい。確かに私は、先生のことを好ましく感じていました。しかし、自分の立場は理解しているつもりです。あの方はもうじき母国へ帰られ、私も来年には輿入れします。そうなれば、二度と出会うことはないでしょう」
「そこまで考えておられるのに、なぜあのように軽率な行動をとられたのですか」
苛立ちを含んだ物言いに、ステファニーは短くため息を吐く。
「では聞きますが、最後に想いを交わすことぐらい、許されたいと思ってはいけないのですか? 殿下はあれほどまでに、ご自由にされているというのに?」
次第に潤んでいく声に、はっと顔を上げると、そこにはうら悲しげに微笑むステファニーがいた。
「けれど、フィーが案じてくださっていることも、よく分かっています。先生とはもう会いません。ですから、どうか見なかったことにしていただけませんか?」
大粒の涙を湛える彼女を、ソフィアはそっと抱きしめる。
彼女の行動は受け入れがたいが、そうするに至った心情には、痛いほど分かるものがあった。
「フィー、婚姻とはなんなのでしょうか。他の女性へ心を寄せる相手と、生涯を共にすることに、なんの意味があるのでしょう……」
くしくも王太子がステファニーへ求めていたものが、愛であったはずなのに。どうしてこうもすれ違ってしまったのか。
その後、あの男性教師の影を見ることはなくなった。ステファニーの宣言どおり、あれが最後の逢瀬となったのかもしれない。
だがそれからも、王太子と聖女の噂が途切れることはなかった。




