21 さざ波が広がる
帰り支度を進めていると、扉の外から忙しない足音が近づいてきた。
「すまない、遅くなった!」
勢いよく飛び込んできたのは、ブラウス姿の王太子だ。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
少し遅れて、ジラールも部屋を訪れた。
侍女はマルクスの使ったティーセットを脇に避けると、テーブルを綺麗に拭き上げ、深々とお辞儀をする。
「ルイス王太子殿下。お茶をご用意いたしますので、こちらへお掛けください」
「誰かきていたのか?」
「ええ、まあ」
ソフィアの歯切れの悪い返答に機嫌を損ねたのか、王太子は椅子に腰を下ろし、声を張り上げた。
「茶はいい。出ていってはくれぬか。婚約者と二人きりで話がしたいのだ」
虫の居所が悪いのを察し、侍女は逆鱗に触れぬよう、急ぎ部屋を後にする。
「なにをしている。レオン、そなたもだ」
「承知いたしました」
ジラールは戸惑いの表情を見せながらも、その命に従った。
二人きりになっても、彼はなかなか口を開こうとしない。伏し目がちの目元には、暗い影が見てとれた。
まともに眠れぬほど、大変な一カ月だったのだろうか。
「お忙しい日々を過ごされているとうかがいました。お体はご健勝ですか?」
「なんだ、体が弱っているとでも思っていたのか? その方が好都合か!?」
食い気味に返された嫌味たらしい口跡に、ソフィアは気圧される。
「滅相もない! なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか」
こちらも強い調子で問いかけたところ、王太子は一呼吸置いて答えた。
「……すまない。少し気が立っていた」
彼は息を整えてから、ゆっくりと口を開く。
「その、覚えているか。母上の誕生日パーティーでのことを」
王后の生誕祭の話は、ステファニーからしっかり聞き取っていた。
会場となった大広間は、美しい花々で覆い尽くされ、この日のために招かれた歌い手たちによってオペラも演じられたらしい。
そして来賓客は、城のふもとで打ち上げた花火を、間近に見ることができたそうだ。
ステファニーは会場を抜け出し、王太子の自室で、夜空に咲く花を楽しんだと語っていた。
「はい。まさか殿下のお部屋から、花火を見ることになるとは思ってもみませんでした」
その言葉を聞き、わずかに彼の表情がこわばる。
「あのとき、そなたはなにをしていた」
「? ですから、祝いの花火を満喫させていただきましたと」
「違う! そなたは」
王太子は立ち上がり、反論するそぶりを見せたが、口を開けたまま目を細め、それからほんの少しだけ顔を歪めた。
「いや、話を変えよう。花火など珍しくもなかろう、そなたにとっても」
背を向けた王太子に、ソフィアは声を投げつける。
「いいえ、そのようなことはございません!」
祝賀の際は王城だけでなく、各地で花火が打ち上げられる。それは国のどこにいても、民が同様に、王族への祝いを捧げられるようにするためだ。
当然のごとく、ソフィアの暮らしていた町からも、祝祭の花火を眺めることはできる。ただ遠くに上がるそれは、小さな灯火でしかなく、一度は間近で見てみたいと憧れを抱いていた。
“ステファニー”は、あの夜にそれを叶えている。そのうえ彼女は、王太子の一番近くで、輝きを目にしたのだ。
「今まで見てきたものとは、全く違いました。今年は殿下の婚約者として、同じ景色を見ることができたのですから」
「……」
「今、何とおっしゃいましたか?」
くぐもった声で、王太子は何かを呟いていた。近づいてみると、彼の両腕は激しく痙攣している。
「大丈夫ですか、殿下!」
右腕に触れた途端、彼は強い力で私の手を払い落とした。
「もう十分だ! 口をつぐめ!」
突然の激憤にソフィアは混乱する。畳み掛けるように、その後も大きな声が続く。
「よく分かっている。婚姻も政治だ! たとえそこに愛がなかろうと、そなたは国のため、私と体を重ねなければならない」
そう言いながら、王太子はソフィアを壁に強く押しつける。はずみで侍女が置きっぱなしにしていたカートに足が絡み、大きな音が立ってしまう。
「痛っ……痛いです、殿下。なにをなさるのですか!」
「いずれは后となるのだ。今そなたに触れたところで、なんの問題がある」
それからソフィアの顎を掴むと、強引に顔を寄せた。
「私はこの国の王となる。求めて手に入らぬものなど、この世にはないのだ。分かるだろう」
「もちろんでございます」
「けれども、できることなら私は……いや、俺は一人の男として、自ら愛した女性と添い遂げたい。だから、今はただ、そなたのことを……」
彼は私の肩に顔を埋め、最後になにか低語する。『信じさせてくれ』と、そう聞こえたような気がした。
「ルイス殿下?」
ソフィアを捕えていた王太子の手から、次第に力が抜ける。顔をのぞき込もうとすると、ソフィアの頬に、細かく震える指先が伸びてきた。
熱を帯びた月白の瞳が、まっすぐにこちらを捉える。その情熱的な眼差しに、ソフィアは目を逸らすことすらできなくなってしまう。
彼は親指で私の下唇をなぞり、掠れた声を溢した。
「目を閉じてくれ」
そっとまぶたを閉ざすと、柑橘系のコロンの香りが鼻をつく。それから耳元で、甘い声が囁いた。
「許せ、ステファニー」
その時、あの魔導士の言葉が頭の中で弾けた。『本当の君を見ているのは誰か』と。
違う、私はステファニーではない。下町育ちの、ただのソフィアよ!
「っおやめください!」
瞬間、じんと手のひらが熱くなった。
目の前には、呆然とした様子の王太子が、自身の頬に手を当て、立ち尽くしている。
ソフィアはその場にひざまづき、床へ頭を押し当てた。
「どうかお許しください、殿下」
「お前は、国母としての最大の責務が、なんたるかを理解していないのか」
震える声が、頭上から浴びせかけられる。それは、こちらを責めるようなものではなく、とても悲しげな声色をしていた。
「もちろん承知しております。この身を捧げ、世継ぎをもうけること。それ以上に名誉なことなどございません」
「では、やはり俺では駄目なのか。フィリップには勝てないと、お前までもがそう言うのか!」
彼は実弟の名を叫びながら、ソフィアのすぐそばへ椅子を叩きつけた。
反射的に身を避けると、血走った目でこちらを睨む婚約者が視界に映る。
「なぜ、フィリップ様のお名前が出てくるのです。王位継承は殿下で確実だと、みなが唱えているではないですか」
「黙れ、黙れ、黙れ! 俺が何も知らないとでも思っているのか!」
彼はテーブルを引き倒し、床に散らばった陶器の破片をガシャリと踏みつけた。
「殿下、落ち着いてください。私は違います。私はあなたのことを」
「近寄るでない!」
王太子はポットのかけらを拾い上げ、こちらへ腕を伸ばした。指先を伝い、真っ赤な血がぽとぽととテーブルクロスに落ちていく。
「それを離してください。傷口が広がります!」
だが、こちらの声は届いていないようだ。ソフィアを近づかせまいと、荒々しい息遣いで、握りしめた手を振るわせている。
「ほんのいっときでも、そなたに心を許した私が愚かであった。今後、そなたから口を開くことは許さぬ」
それから血だらけの砕片を手にしたまま、彼はふらふらと扉へ向かっていった。
そのまま振り返ることなく、ぼそりと呟く。
「最後の温情だ。公爵に迷惑をかけたくないのであれば、自分の行動を振り返り、悔い改めろ。さすれば、今までの不敬には目を瞑り、そなたとの関係を考え直してやる」
外に控えていた侍女たちの悲鳴が、すぐに聞こえてきたが、戸が閉まると部屋の中は嘘のように静まり返った。
気がつけば、彼の踏み荒らした跡には、赤い血溜まりが残されていた。
のちに聞いたところ、数週間ほど前、第一王子と第二王子はあわや刃傷沙汰の口論を交わしていたらしい。その理由を知るのも、今となっては難しいだろう。
王太子はその後、茶会に足を運ばなくなり、ソフィアが彼と会う機会はなくなった。
季節はだんだんと、冬に近づいてきている。黄葉が少しずつ葉を落とし、街並みが寂しくなり始めたころに、とある噂が流れ始めた。
「王太子は聖女と恋に落ちた」と。




