20 魔導士マルクス・マーケル
それからしばらくの間、ソフィアに登城の声がかかることはなかった。
聞くところによると、王太子は先を見据えて多くの公務を志願し、そのいくつかを任されるようになってきたらしい。
もちろん公的な行事や社交の場では、ステファニーと王太子が、変わらず顔を合わせているはずだ。
改めて、自分はただの身代わりなのだと思い知らされるようだった。
「あら、今日は王太子殿下とのお約束の日でしたか」
身支度を整えたソフィアの元へ、ステファニーが近づいてくる。今日は、王太子と最後に会った時から数えてちょうど一ヶ月後の、定例の茶会の日だった。
「はい。王太子様はお忙しいので、お会いすることはできないかもしれませんが。ひとまず王城へ向かいたいと思っています」
ステファニーは細く息を漏らし、ソフィアの崩れた前髪をちょん、と指先で整える。
「苦労をかけるわね。こちらから断ることができればよかったのだけれども」
「いいえ。私、お城でのお茶会はそれなりに楽しんでいますから」
明るく笑顔で答えると、ステファニーは寂しげに目を伏せた。
「苦痛でないなら、いいのです。いっそこのまま、あなたに王太子妃の役もやっていただけると嬉しいのですが」
「えっ」
驚きのあまり言葉を失うと、彼女は慌てて声を張る。
「すみません、変なことを言って! ただ、王太子妃となったとき、フィーにそばで支えていただければ、心強いだろうと思ったものですから」
「それは、あの」
返答に窮するソフィアに、ステファニーは拙い笑みで語りかけた。
「無理に引き留めはしませんよ。そういった選択もあると、お伝えしておきたかっただけですから。さあ、そろそろ屋敷を出なければいけないころでしょう? どうか楽しんできてくださいね」
邸宅には、すでに迎えの者が到着していた。珍しいことに、屋敷を訪れたのは見知らぬ近衛兵たちで、ジラールは姿を見せていないようだ。
彼も王太子と同様に、城で忙しい日々を過ごしているのかもしれない。
ソフィアは王城へ向かう道すがら、先ほどの言葉を頭の中で反芻させていた。
神殿を出てからも影武者を続けることになれば、もう二度と、下町で兄弟たちと暮らすことはできないだろう。
元を辿れば、この身代わり生活は、家族を養うために始めたものだった。けれども、すでにソフィアは十分すぎるほどの報酬を受け取っている。危険を冒してまで、この仕事に固執する理由は、もうほとんどなかった。
心残りがあるとすれば、それはこの職場で出会った人々とは、金輪際会うことができないということだろう。『ステファニー』として出会った人々は、ソフィアにとっても大切な存在になり始めていた。
仮に、これからも『ステファニー』でい続けられるのであれば、彼らとの別れの辛さは味わわずにすむ。
そのとき初めに浮かんだのが、なぜか王太子の膨れ面で、ソフィアは慌てて頭を振るった。
しばらくして王城へ到着したソフィア一行だったが、案の定、王太子との面会は難しいと告げられる。
「殿下はご多忙ですので、おそらくこちらにもいらっしゃらないでしょう。ティータイムの準備は済ませていますから、お帰りになられる前に、よろしければお召し上がりください」
メイドはソフィアを部屋の中へ案内し、まだ温かい紅茶をカップへ注ぎ始めた。
「ご丁寧にありがとうございます。あの」
「いかがいたしましたか?」
作業の手を止めて、侍女はこちらに向き直る。
「殿下はローズシュクレがお好きですから、お茶と一緒に執務室へお持ちいただくことはできますか?」
テーブルの上にある茶菓子を指さすと、彼女はにっこり微笑んだ。
「もちろんでございます。同じものが厨房にありますので、すぐにお持ちいたしますね」
近衛たちは扉の外に控えているようだ。部屋に一人残されたソフィアは、短く息を吐き、カップの中に角砂糖を沈ませた。
白の塊は小さな気泡を放ち、ほろほろと崩れていく。
王太子はプレーンティーが好みで、紅茶には決して砂糖を入れようとしない。けれどもなぜか、薔薇の砂糖漬けにだけは、よく手を伸ばしている印象だった。
甘いものが特別お好きというわけではないので、もしかすると薔薇の香りを好んでいるのかもしれない。
そういえば、茶葉に本物の花びらを混ぜ込んだ、フレーバーティーがあったわね。次のお茶会では、薔薇の紅茶をお出しすると喜んでいただけるかもしれないわ。
そんなことを考えていると、背後から大きな声が響いた。
「ふうーん。ずいぶんと興味深いね?」
驚きのあまり肩が跳ね上がる。その声は、王太子のものではなかった。
いつの間に部屋へ入ってきたのだろう。後ろに立つ人物は、それまで出会ったことのない青年だった。
グレーのポンチョを羽織る相手は、自分よりも少し若いくらいだろうか。小麦色の癖っ毛に、頬を埋めるほどのそばかす、そしてツルつきの眼鏡が特徴的だ。
「勘違いしてるみたいだけど、僕は君よりもだいぶ年上だからね?」
ソフィアは考えを言い当てられ、つい動揺してしまう。
「だっ誰ですか!?」
慌てて論点をずらすと、彼は白い歯を見せながら胸に手を当てた。
「一応、ステファニー嬢とは二度目ましてになるんだけど、改めて名乗らせていただくよ。僕はマルクス・マーケル。こう見えても、この国一番の魔導士だ」
そして首元から、魔塔所属の証である逆三角のペンダントを引き上げた。
魔力を持つ人物が、一定数存在していることは認識していたが、ソフィアが魔導士と出会うのはこれが初めてだった。
そのうえ、魔導士の最高機関となる魔塔に所属しているということは、彼も優れた才腕を備えているのだろう。
「なんだか警戒されてるみたいだけど、どうして? 魔塔ってのは、国王直轄の研究機関なんだよ」
心底分からないといった面持ちで、首を傾けている相手に、ソフィアは声を荒げる。
「魔塔うんぬんではなく、ここは王族の方がプライベートで利用されているサロンですよ? そこにいきなり、案内人も伴わない人物が現れたら、普通は驚くと思いませんか!?」
そもそも、外には護衛が控えているのに、どうやって彼は部屋に入り込んだのか。
扉に目を向けると、ドアの隙間からこちらの様子を窺っている兵士たちの姿が見え、ソフィアは現状を察した。
おおかた、止めようとする彼らを押し切って、ここへやってきたのだろう。
しかし強引にとはいえ、入室を許可させているのだから、この身分証は本物だということになる。
青年は王太子の座るはずだった椅子にまたがり、木馬を動かす子どものように、体を前後に揺らし始めた。
「そりゃあ僕も、こんなところにくるつもりはなかったんだよ? 城には仕事の付き合いで、無理矢理連れてこられただけだし」
「では、そのお連れの方はどちらに?」
「え?」
彼はぴたりと動きを止め、しばらく悩んでいたようだったが、背筋を伸ばして元気よく答える。
「どこかで迷子にでもなったんじゃないかな!」
あっけらかんとした態度に、ソフィアは頭を押さえた。
迷子になっているのは、きっと同行者ではなく、目の前にいる彼の方だろう。
「メイドを呼びましょうか?」
ベルに手をかけると、彼はそれをおもむろに制止する。
「いいや、大丈夫。それより、ここで会えたのも何かの縁だ。君の悩みを聞いてあげよう。茶でも飲みながら、ね」
こちらの同意を得る前に、口に放り込んだクッキーを食みながら目配せをしてきた。
そのうさんくさい表情に、思わず眉をひそめてしまう。
「結構です。私に悩みなどありません」
「まさか。頭の中はごちゃごちゃじゃないか」
彼は私の頭上を指すと、得意げに胸を張った。
「あのね、見れば分かるんだよ、僕。オーラとでも言えばいいのかな? 隠そうとしたって無駄だから」
「オーラですって?」
半信半疑で返すと、彼はこちらをじっと見つめてくる。
「今、君はものすごく恵まれた環境にいて、それ以上の幸せはないんじゃないかって思い始めてる。けど、心のどこかで、このままでいいのか悩む自分もいる。君は賢いから、本当は分かってるんだよね。そこは『自分』の居場所じゃないって」
胸がどきりと跳ねた。それは、ソフィアが心の奥底で考えていること、そのものであったからだ。
「冷静に考えて。本当の君を見ているのは誰なのか」
ソフィアはドレスの中にさがるクロスネックレスに、そっと手を当てる。
兄はいつでも実家へ帰ってこいと、そう話していた。弟から届く手紙にも、毎度「早く会いたい」という言葉が添えられている。
本来の自分は“そこ”に在るべきなのだ。
食べるものは少なくとも、兄弟たちと身を寄せ合い、忙しなく過ごしていたあの日々には、いつも笑顔が溢れていた。なにより、下町での暮らしでは、『ソフィア』という人間が周りから求められていた。
そう、公爵邸でみんなが優しくしてくれるのは、ステファニーが『公爵令嬢』で『王太子の婚約者』という肩書を背負っているからであり、ソフィア自身が必要とされているわけではない。
「その道を選べば、いずれ後悔するかもしれない。その可能性が分かっていて、それでもその立場に執着するのはなぜ? あんな王子様になんか、大した価値もないのに」
「殿下のことを悪く言わないでください!」
マルクスの何気ない呟きに食ってかかると、彼はその勢いに吃驚した。
「勘違いされやすいところもありますが、あの人は常に国のことを考えておられる、ご立派な方です。深く知りもしないのに、価値がないなどと決めつけないでください」
ソフィアは反論しながら、自分こそ王太子のなにを解ったつもりでいるのかと、自嘲的になっていた。
それでも、出会ってからの短い期間で彼が見せた、不器用な優しさを知っている。
笑う時にわずかに下がる目尻も、あの傲慢な態度でさえも、彼の魅力であると感じていた。
「そうか。君はもう、それほどまでに彼のことを愛しているんだね」
「愛……ですって?」
ソフィアの問いには答えず、マルクスは空のカップを手に取ると、冷えた紅茶を注いでから一気に飲み干す。
「それが君の幸せなら、自分の気持ちに従うといい。けれど、引き返せるのもあとわずかだということを、決して忘れないで」
それから勢いよく顔を上げ、ニッと口を開けて見せた。
「そろそろ退散しようかな。お茶、ごちそうさまでした!」
かくして、突如現れた訪問者は、ソフィアの心に不安の種を残しながら、その場を離れたのだった。




