19 ある王太子の思慕
こちらは番外編で、ルイス王太子目線の過去回想編となります。
次話から本編に戻ります。
私がステファニー・ドゥ・ラ・モンドヴォールと出会ったのは、婚約の話が持ち上がるよりもずっと前の、幼い時分のことだ。
あのころは、まだ先代の国王が存命で、父上が王太子と呼ばれていた。
ステファニーは母親である公爵夫人に連れられて、たびたび城を訪れていたようである。とはいえ、姿を見かけることはあっても、挨拶を受けたこともなければ、会話を交わすこともなかった。
あれは私が剣の稽古を終え、城へ戻るのに近道をすべく、お祖母様が生前愛してやまなかった裏庭へこっそり足を踏み入れた時のことだった。
「やだあ! 私、あのお花がほしいのよぉ!」
不愉快な金切り声が耳に届く。王族以外は気軽に立ち入ることのできないはずのこの場所で、なぜかステファニーは、新兵を相手に泣き喚いていた。
「どうかお許しください。あちらは王后様が遺された紅薔薇で、私どもは切り落とすことができないのです」
そばに立つ兵たちは、騒ぐ幼子の相手で疲弊しきっている。
近くに母親の姿は見当たらない。放っておくこともできたが、このまま自室に戻ったところで、いつまでも泣き声が聞こえてくるだろう。
「騒がしいな」
「これは、王孫殿下!」
突如現れた王族に、兵士たちは一斉に首を垂れる。
呆けていたステファニーも、兵に促され、戸惑いながらドレスの裾を軽く持ち上げた。
「薔薇が望みであろう。鋏を持ってこい」
王太子の指示に、兵たちは顔を見合わせる。
「ですが」
「切ったのが私なら、亡き王后も許してくださるはずだ。早くしろ」
「は、はい!」
そして、受け取った植木鋏で深紅の大輪を摘み、棘を切り落としてから少女に差し出す。
「ほら、これでいいか?」
「わぁ……!」
ステファニーは弾ける笑顔で、真っ赤な薔薇を受け取った。柔らかい黒の髪が腕をかすめ、なぜだかそれが、無性にむずがゆく感じたのを今でも覚えている。
「ありがとう、王子様って意外とお優しいのね!」
彼女の歓声で、周りの家臣たちが一時に息を呑むのが分かった。いくら無邪気な少女だとしても、王族に面と向かって『優しいとは思っていなかった』と語る者が、許されるはずもない。
しかし、その発言の重さに、当の本人は気づいてさえいないようだ。
「あら、なにかおかしいことでも言ったかしら? だって、王子様が気難しい方だというのは、公然の事実でしょう」
追い打ちをかける弁に、周囲は頭を抱える。ちょうどその時、城の中から女性の声が響いた。
「ステファニー、そろそろ帰るわよ!」
「あ、ママだ! 王子様、私そろそろ行かなきゃ。お花のこと、本当にありがとう。大切にするね!」
大きく手を振りながら、彼女は颯爽と場を後にする。
庭に立つ兵士たちは、こちらから目を逸らし、沈黙に耐えていた。
「あれがモンドヴォール公爵令嬢、ステファニーか……」
忍び笑いをすると、みながぎょっと私を見つめた。
不思議なことに、怒りの感情は湧いていない。あのように正直な気持ちをぶつけてくる存在は奇態で、裏表のない性格には、むしろ好感を持つことができた。
それからも、ステファニーと公の場で関わる機会は訪れない。けれども、彼女を見かけた際は、興味本位で姿を追うようになっていた。
平民上がりの母親の影響か、高位貴族であるはずなのに、時折庶民が使うようなくだけた物言いをしている。
ある時は廊下を走り回ったり、またある時は土にまみれたり。気づけば木に登っていたこともあった。
毎度見張りを困らせる、やんちゃで粗野な少女は、知れば知るほどなんとも不思議な娘だった。それは、本当に公爵令嬢なのかと疑ってしまうほどに。
だがある日を境に、彼女はぱたりと姿を見せなくなる。風のたよりで、母親を喪ったと聞いた。
一度だけ、父上にモンドヴォール公爵邸を訪れたいと打診したが、特定の貴族への肩入れは避けるべきだと固く禁じられた。まあ、それは当然のことだろう。
会えぬ日が続き、いつしか彼女のことは忘れてしまっていた。
時は流れ、父上が国王となり、私が王太子妃を娶るべきだという話も上がり始める。
正直、異性になど興味はなかったが、二人目の婚約者にステファニーが選ばれたと聞いた時は、懐かしい思い出が蘇った。
けれども残念なことに、久方ぶりに会った彼女は、記憶の中の少女とはまるで別人のようになっていた。
人前で嫣然と笑う姿は、はたから見れば魅力的に映ったかもしれない。しかし、隣に立つステファニーのそれが、心からの笑顔ではないことに、私は気づいていた。
天真爛漫な笑みは影をひそめ、不自然な笑顔が張りついている。それどころか、嫌悪感にも似た侮蔑の色が、藤の瞳に時折宿って見えた。
幼少期に母親を亡くしたことが、それほどまでに彼女を変えてしまったのだろうか。
とはいえ、婚約者に選ばれたとだけあって、淑女の礼式は一通り身につけているようだ。これもまた、以前の彼女からは想像もできない姿である。
しかし、己に厳しいだけでなく、城のメイドにも激しく当たり散らす傲慢さは、目に余るものがあった。仮に“王太子の婚約者”という立場が、彼女をそう振る舞わせているならば、なおさら始末が悪い。
ステファニーとはこれから生涯をともにするのだから、どうにか形だけでも、夫婦としてうまくやっていかなければ。
そう諦めかけていたはずだったが、近ごろ彼女は、だいぶ雰囲気が変わってきたようだ。
冷淡な態度をとる日もあるが、心なしか、素直な笑顔を見せることが増えてきた気がする。
裏庭を見下ろし、そんな物思いにふけっていると、部屋に入ってきた侍女がうつむきながら声を発した。
「そろそろお時間です」
もうじき、母の生誕祭が始まろうとしていた。
家臣を下がらせてから、一人で片頬笑む。過去に浸るなど、私もずいぶんと人間らしくなったものだな。
こんな無駄なことに時間を費やしてしまったのは、きっとお祖母様の秋薔薇が、点々と咲き始めたからだろう。
春の薔薇が咲くころには、ステファニーは既に神殿へ入っている。
離れる前に、ともに花を眺め、昔話をしてみるのも悪くないと思えた。たまには茶会という口実なしで、彼女と二人の時を過ごしてみよう。
そうして、用意していたラベンダージェイドのカフスボタンを拾い上げ、そっと袖口に取りつける。
薄紫の小さな輝きに気づいたとき、ステファニーはどのような反応を見せるだろうか。
たった一輪の薔薇に、屈託のない笑みを浮かべていた、あの時のような顔であればいいと想った。
『一人目の婚約者』は、44話より登場いたします。
次話より第一章のクライマックスに向けて、話が大きく進み始めます。主人公ソフィアの回想に、しばしお付き合いください。




