105 確実に世界は変わっている①
空じゅうに広がったうね雲は、茜色のキャンバスの上に、縞模様の影を落としている。
細長く揺れるその形は、まるで海辺に打ち寄せる波のようだ。
日が沈み始めたころ、王太子は大神殿を訪れた。葬儀に参列していた時のまま、黒の軍服に身を包んでいる。
「待たせたな」
王太子は襟元を緩めると、神官から受け取ったグラスの水を、一気に飲み干した。
一同は、神官の執務室らしき部屋に集まっている。決して広くはないが、整理整頓が行き届いており、過ごしやすそうな部屋だ。
「無事に埋葬できましたか? どうも、秘密警察が一枚噛んでたみたいじゃないですか」
マルクスが涼しい顔で尋ねるものだから、ソフィアは仰天した。いくら魔導士長とはいえ、そのような機密事項を問うことは、本来許されていないはずだ。
案の定、王太子はしかめ面でマルクスを見つめ返す。
「魔塔に情報が降りていないということは、魔導士長にも話すべきではないと、国王が判断したのだろう。私が答えられることは、なに一つない」
「お堅いですねえ。まあ、別にいいですけど」
マルクスは軽く鼻で笑ってから、こう続けた。
「モンドヴォール公爵令嬢を呼び出した理由は、なんですか」
「なぜそれを、そなたが聞いてくるのだ?」
王太子は納得のいかない様子だったが、不安げなソフィアの顔を見て、諦めたように息を漏らす。
「本当は、もう少しまともな場所で伝えるべきだと思うのだが。仕方ないだろう」
王太子はソフィアに近寄ると、そっと両手をすくい上げる。
「先日、私はそなたにこう伝えたな。狩猟大会を経て、様々なことが変わったと」
「ええ。そうでしたね?」
それから王太子は、手のひらをふわりと閉じ、ソフィアの手を包み込んだ。
「ステファニー、国王陛下もそうだったんだ。剣術大会や狩猟大会での、そなたの働きを見て、考えを改めたそうだ。モンドヴォールとの絆は取り戻すべきだと」
かすかな緊張が、指先から伝わってくる。いつもより早い口調で、はっきりと彼は告げた。
「そなたを王太子妃として迎え入れたい。陛下も承諾してくださった」
潤んだ瞳が、まっすぐにこちらへ向けられている。
ちょっと待って。これは、ステファニー様に求婚しているということ?
ソフィアは固まったまま、王太子の発言を必死に理解しようとしていた。
なんで!? 王太子様にはリリーさんがいるのに。一体なにが起こってるの!?
あからさまに動揺するソフィアを見て、王太子は言葉を選ぶように、静かに話し続ける。
「その、自分の感情を口に出すのは、あまり得意ではないのだが。そなたには、きちんと話しておきたい」
熱っぽい視線が、ソフィアを捉えた。この目には見覚えがある。数年後の世界で、これと同じ熱情を、彼は“聖女”に向けていた。
「ステファニー。王城で初めて出会ったその日から、心の片隅にはいつもそなたがいた」
「初めて……というのは、ステファニー……いえ、私がまだ幼子だった、あの時のことをおっしゃっていますか?」
たどたどしく問いかけるソフィアのことを、マルクスが難しい顔で見つめている。
なんなのよ、いつもならからかってくるくせに。こんな時に限って、だんまりを決め込むつもり!?
「そうだ。幼いころの、大切な思い出だ」
王太子は右手の親指をすべらせ、私の手を優しくなぞった。
「覚えているか? あの日そなたは、お祖母様の紅薔薇がほしいと喚いて、城じゅうの人間を困らせたのだぞ」
「そ……うでしたっけ?」
ステファニーも、王太子からもらい受けた薔薇の話はしていたが、事前に聞いていた内容とは少し違うような気がする。
「そのうえ初対面のくせに、私のことを『気難しい』だの『意外と優しい』だのと、ずいぶん生意気なことを言ってくれたな」
くつくつと笑う王太子の向かいで、ソフィアは青ざめていた。
幼少期のやりとりだとはいえ、なんて大胆なことを口にされていたのですか、ステファニー様!?
「申し訳ございません……!」
「いや、いいのだ。むしろ私には、その自由さが羨ましかった」
繋いだ手から王太子の体温が伝わってくる。春の日差しのように、ほんのりと暖かい。
せっかちな彼が、こんなにもじっくり向き合ってくれているのは、これが初めてではないだろうか。
「正直に本音を打ち明けることも、心のままに行動することも、我々王族には許されていないからな」
細めた目に、暗い影が差した。
「だから、そなたに惹かれたのだ。正直者で嘘偽りのない、ありのままの心を見せてくれる公爵令嬢に。見合いの時を覚えているか? そなたは私に食ってかかってきたな」
「ご無礼をお許しください、殿下」
「謝るでない。私は神に感謝したのだぞ。そなたが変わっていないと分かって」
王太子は両手に力を込め、ソフィアの手をしっかり握りしめる。
「出会いのきっかけとなった、薔薇を覚えてくれていたことも。私の身をいつも案じてくれていることも。ぜんぶ嬉しかったのだ、ステファニー」
月白の瞳には、私の姿だけが映っていた。黒の質素なドレスに身を包んだ、『公爵令嬢』の姿をした『ソフィア』だけが。
「大変な事件に何度巻き込まれても、めげずに呑気に笑うそなたを見て、こう思った。どんな苦境に立たされても、そなたが隣にいれば怖くないと」
それから彼は、左胸に下がった勲章を払い、胸ポケットから金色の輪を取り出した。
「これは、剣術大会の時に約束していた褒美だ。つけてやろう」
ソフィアの左手首につけられたそれは、華奢でありながらも細かい彫刻の施された品で、内側には三つの宝石が埋め込まれていた。
紫と黒と、灰色の小さな石。
「そなたと私の色だ」
ソフィアが宝石に気づいたことを察して、王太子は小声で答える。
「もし私の想いに応えてもらえるなら、今度はここに、証を贈りたい」
そう言いながら、彼は左手の薬指にそっと触れた。
いくら鈍いソフィアでも、それがなにを意味するかは分かっている。
「本気ですか、殿下」
「冗談でこんなことは言わない」
異国では、将来を誓い合った男女が、互いの薬指に指輪を贈る文化があるそうだ。
揃いの指輪には、相手の心を受け入れ、そして二人を永遠に結ぶという願いが込められている。
「お祖父様の喪が明けるまで、半年かかる。それを待って、婚約を発表したい」
「半年後……ですか」
ソフィアは戸惑いながらも、行方の知れない本物の公爵令嬢のことを考えていた。
ここに彼女がいたら、なんと答えていただろう? 淡い恋心を抱いていたステファニーは、申し出を快く受け入れたのだろうか。
それとも、公爵家に届いた文にしたためられていたように、王太子妃の座を拒絶しただろうか。
「次に出会えるのは、おそらく一月後。私の誕生日には、小規模ながら宴が催されるだろう。そこで、正直な思いを聞かせてほしい」
うなずくだけでも、ソフィアはいっぱいいっぱいだった。




