103 王太子の来訪
翌朝、父は最低限の荷物だけを持ち、あっという間に別邸を後にした。
夜中にこっそりと、屋敷を抜け出したりはしないか案じていたが、杞憂だったようだ。
不満げな顔をしながらも、ジラールの騎士たちを何名か伴っていったので、ひとまず安心していいだろう。
母は二度寝をするケビンを部屋へ連れ帰り、私はレオンと一緒に、早めの朝食を始めている。
バターたっぷりのクロワッサンは、かじるとサクリと音を立て、口の中でとろけていく。小ぶりながらもずっしりと重みがあるのに、口触りは驚くほど軽い。
甘く優しい香りに幸せを感じながら、カーテン越しに差し込む朝の光を、存分に味わう。
今朝はずいぶんと寝覚めが良かった。もしかすると、いい夢でも見ていたのかもしれない。
残念なことに、どんな夢だったのかはちっとも覚えていないのだが。
「だんだんと、秋が近づいてきましたね」
不意にレオンが話しかけてくる。彼の目線は、赤く染まり始めた外の木々へ向けられていた。
昨日までのぎこちない様子はどこへやら、すっかりいつも通りのレオンに戻っている。
「そうですね! 部屋から見える景色も、ずいぶん変わってきたなぁと思っていたところです」
そのように返しながら、ソフィアは物悲しさを覚えていた。
別邸へやってきてから、すでに十日ほどが経っている。
社交が本格的に始まるまで、まだ時間があるとはいえ、レオンも長く本邸を離れるわけにはいかない。
秋がきたら、みんなで揃ってジラール邸に戻るというのが、事前に取り決めていたことだった。
そのあとはまた、ステファニーとしての身代わり生活が待っている。モンドヴォール公爵は尽力しているが、依然として娘の所在は不明のままだ。
ステファニー失踪から有力な情報すら得られないまま、三ヶ月が経過していた。
その間に、ソフィアは誘拐事件に巻き込まれ、剣術大会での暗殺未遂事件に遭遇し、遂にはドラゴンもどきにまで襲撃されたのだ。
ずいぶんと騒がしい夏だったが、この休暇の間だけは、久々にゆったりとした時間を過ごすことができていた。
家族たちと次に会えるのは、いつになるだろう。兄さんの消えてしまった記憶は? 終わりの見えない身代わり生活だって、考えれば考えるほど不安が募っていく。
こちらの気持ちを知ってか知らずか、レオンはバターナイフを置いてから、明るく切り出した。
「よろしければ、このあと山の麓を散策しませんか」
「えっ。ここから出てもいいんですか?」
別邸ではずいぶんと自由にさせてもらっているが、それは城全体にマルクスの防御術がかけられているからだ。不要不急な外出は控えるようにと、国王陛下からも言い含められている。
心許なげなソフィアに、レオンはふわりと笑いかけた。
「マルクスの話だと、ある程度は周辺地域も術の対象になっているそうですよ。本邸へ帰っても、屋敷の中で過ごすことになりますし、足を伸ばしてみましょう」
「でしたら……ぜひ行ってみたいです!」
「なんですか、ピクニックですか!? それならお昼は、外で食べやすいものにしましょうね!」
盗み聞きをしていたイザベラは、両腕をあげてはしゃいでいる。
レオンは苦笑いを浮かべつつ、口元に手を添え、今度はソフィアだけに聞こえるよう囁く。
「大丈夫です。私がついてますから」
「あ、その、……はい」
落ち着いた深い声に顔を赤らめると、近くで見守っていた使用人たちも、満足げにニヤつき始めた。
周囲の様子を気にすることなく、レオンは嬉しそうに続ける。
「ソフィア嬢のお母様方も、まもなくお見えになるでしょう。朝食が終わったら、みんなで出かけましょうね」
ちょうどその時、食堂の扉が大きく開かれた。
「お話し中恐れ入ります、レオン坊ちゃま」
部屋に滑り込んできたサラは、足早に主人のもとへ移動し、なにかを耳打ちする。
レオンは驚いたように口を開けたかと思うと、わずかに表情をかげらせた。
「ソフィア嬢、少し予定が変わりそうです。私は先に出ますが、詳しくはサラがご説明いたしますので」
ナプキンで口元を拭うと、護衛騎士はそのまま部屋から出ていってしまう。
訳もわからぬまま自室へ連れ戻されたソフィアは、混乱しながらもサラにドレスを剥ぎ取られていく。
「王太子殿下が、こちらに向かわれているとのことです」
コルセットを手際よく締め上げつつ、サラは呟いた。
「立ち会う必要はありませんが、念のため着替えておきましょう」
イザベラはそれを手伝いながらも、面白くなさそうに頬を膨らませている。
「私は反対です! 王太子殿下の婚約者候補は、あのワガママ娘……失礼。モンドヴォールのステファニー様ですよ? 容姿が似ているとはいえ、ソフィア様のほうが何倍も素敵です!」
こちらが照れてしまいそうなことを、彼女は鼻息荒く言い切った。
「王太子殿下と対面したとして、そこでソフィア様を見初められでもしたら、坊ちゃまはどうなさるおつもりでしょうか?」
「余計なことは考えない! 私たちはただ、ソフィア様のお支度を間に合わせるだけよ」
サラは華奢な靴を軽く拭きあげてから、それをソフィアにまとわせた。色とりどりに描かれた、花模様の刺繍がかわいらしい。
「ええ、分かってますとも! せめてステファニー様と間違えられないように、ソフィア様の良さを引き出してやりますよ。全力でね!」
ぺろりと舌をのぞかせたイザベラは、力強くメイクブラシを握りしめる。
そして、いつも通りのすさまじい手捌きで、ソフィアの顔を完璧に仕上げたのだった。
全ての準備が終わったころ、ジラール別邸を訪れた王太子は、まっすぐにソフィアの部屋へとやってきた。
イザベラたちは心配そうにこちらを見つめながらも、レオンの指示に従い、部屋から下がっていく。
不安がらせて申し訳ないが、ソフィアが“公爵令嬢の身代わり”をしているとは知らない彼女たちを、この場にとどめるわけにはいかない。
ソフィアは心の中で謝罪しながら、王太子に向き合った。
口を真一文字に結んだまま、しばらく黙り込んでいた青年は、唐突に声を放つ。
「ずいぶんと、めかしこんでいるんだな。ステファニー!」
腕組みでのけぞる王太子に面し、ソフィアはしずしずと頭を下げた。
「御不快な思いをおかけし、誠に申し訳ございません」
「いや、そうではない! その」
どぎまぎしていた王太子は、長いため息をついてから、吐き捨てるように続けた。
「……よく似合っているぞ。なぁ、レオンっ!?」
「ええ。とてもお美しいです」
薄目で微笑むレオンの表情に、既視感を覚える。
この顔、夢で見た気がするわ。うっすらとした記憶を、必死に辿っていく。
いったいどんな夢だったかしら?
ソフィアが護衛騎士と視線を交わしているのを、王太子は訝しげに見つめたまま、再び口を開いた。
「休暇を楽しんでいるようだな」
「はい。自然に囲まれて、ゆっくり過ごすことができています。殿下はいかがお過ごしでしたか?」
「そうだな、まぁ色々なことがあったが」
眉をひそめながら、それでいて穏やかな声で王太子は呟く。
「あの狩猟大会から、多くのことが変わった。そなたも王都に戻れば、きっと驚くであろう」
ソフィアはふと思い出す。狩猟大会で王太子は、“聖女”リリーと初めて顔を合わせたのだった。
かつての世界で、婚約者同士となった二人。この世界でも、もともとリリーは王太子に惹かれていたようだったが、狩猟大会のあとに届いた手紙からは、その想いがいっそう強まったことがうかがえた。
では彼は、運命の相手との出会いを、どのように感じたのだろう。
「殿下。会場でご紹介した女性……リリー・ラ・オクレールのことを覚えておられますか?」
ソフィアの問いに、王太子はなぜかうんざりとした表情を浮かべる。
「そなたが王都を離れたあと、フリオン家とその居候からは、しつこいほどに書状が届いているのだ。特にオクレールの娘は、我々の身を案じる内容や、私を褒めちぎるような言葉の数々をびっしり記していて」
「……殿下。もしかすると、それはリリー様からの恋文ではありませんか?」
どうやら図星のようだ。ばつが悪そうに、彼は視線を逸らしてしまう。
「おおかた侯爵の差し金だろう。自分の娘では力不足だと、ようやく気付いたらしいしな」
「なにをおっしゃいますか。リリー様の好意は、もっと純粋なものだと思いますよ?」
「ハッ! 『好意』だと?」
王太子は煽るような笑顔で、ソフィアを見下ろした。
「聞いて呆れる。フリオンの娘は、王太子妃の座が望めないと知り、今度は第二王子にすり寄っているのだぞ? あいつらは一族の人間を、一人でも多く王族へ嫁がせたいだけだ」
おかしいわね。想像していたよりも、彼はリリーに好感を抱いていないらしい。
「だいたい、なんなんだ? あの無遠慮な女は。返事も出していないのに、一方的に文を送り続けるとは」
「仮に侯爵の指示だとしても、リリーはかわいらしい子ですし、殿下の好まれる容姿ではありませんか?」
「さあ、どうだったか。あの混乱の最中だぞ? ろくに顔も思い出せない」
なんともぶっきらぼうに、王太子は吐き捨てたのだった。
過去の世界で、王太子とリリーはたちまち恋に落ちた。この世界でも当然のように、すぐ結ばれると思い込んでいたのだが。
うまくいっていないのだとすれば、改めて二人を会わせる機会を設けなければならない。
ソフィアの計画では、リリーを王太子の婚約者に据えるのが、当面の目的だった。
二人が結ばれた場合、ステファニーは王太子妃候補から外されることになる。そうすればステファニーが処刑される未来、ひいては自分が殺される結末も回避できるだろう。
それになにより、王太子は心から愛したリリーと、今世でも一緒になれるのだ。
だが社交のシーズンではない今、二人をどうやって引き合わせればいいのだろう。
慎重な面持ちで悩むソフィアの顔を、王太子はゆっくりのぞき込む。
「そなたは、あの娘が気にならないのか。フリオン侯爵令嬢がようやく去ったところだというのに」
「気になる……?」
間抜けな声を出したソフィアを、王太子はじろりと睨みつけた。
私が“ステファニー”であれば、婚約者候補の地位を脅かすリリーの存在は、到底受け入れられるものではないだろう。
それに今世のステファニーも、失踪するまでは確実に、王太子に惹かれていたのだ。
リリーに対して、拒絶の意思を示してもいいだろうが。
「全ては、王太子殿下のお心次第ですから」
ソフィアの毅然とした態度に、王太子は少なからず衝撃を受けたようだった。
この言葉に嘘はない。未来を知る“身代わり令嬢”としては、婚約者の地位に執着すべきでないと思えるからだ。
なんせ彼は、自分の心が『リリーだけのもの』と告げるほどに、彼女を愛していたのだから。
「ステファニー。今日はそなたに会うために、ここへきた。大事な話をしたい」
シルバーグレーの瞳が、こころなしか揺らめいている。
「どのようなご用向きでしょうか」
「それは、だな」
彼が言いあぐねているうちに、部屋の扉が静かに開き、近衛服姿の兵士が姿を現した。
「ご歓談中に失礼いたします、ルイス王太子殿下!」
「なんだ、騒がしい!」
水を差された王太子は、不機嫌を隠すこともなく噛みついていく。
「早馬がありました。先王陛下が身罷られたとのこと。急ぎ、王城へお戻り下さい!」
想定外の知らせに、部屋じゅうがしん、と静まり返る。
真顔になった王太子は、無言で部屋を飛び出していった。レオンも彼に張りつくように、後ろを追いかけていく。
入れ違いで部屋にやってきたイザベラは、不思議そうな顔でソフィアのもとへ駆け寄り、きゅっと両手を握りしめてくれた。
「大丈夫でしたか? ええと、王太子殿下はもう帰られるのでしょうか。予定通り、ピクニックには向かえますかね?」
ソフィアは静かに首を振る。
レオンとの約束は果たされないまま、別邸での夏休みは、終わりを迎えたのだった。




