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00 ある老者の看取 ー あるいはプロローグ

2023年4月29日付で、番外編にあたる00話を追加しました。本編は01話からとなっています。

 まもなく夜が明ける。


 普段はなにかと騒がしい牢獄のなかも、この時分だと、時折うなる声や奇声が響く程度で、たいていの囚人は深い眠りについている。


 けれども、その少女──ステファニー・ドゥ・ラ・モンドヴォールは、板張りのベッドに座したまま、朝を迎えようとしていた。


 いつもは白く見える肌も、灯明(とうみょう)に照らされて、黄赤の色に染まっている。


 眠りにつくことができないのだろうか。

 だとしても、無理もない。彼女は自らの犯した罪を償うため、数時間後には首を落とされることになっているのだから。


 静止している少女を見遣(みや)りながら、古椅子に座りなおすと、ぎしりと軋む音が陰湿な地下牢に反響した。それでも、彼女は微動だにしない。


 すきま風が松明の炎を動かすたびに、彼女の黒羽色の髪が、揺れるように浮き上がってくる。

 胸元まであった豊かな頭髪は、昨晩のうちに、耳のあたりにまで乱雑に切り落とされていた。そのおかげか、凛とした面持ちが、檻の外からでもはっきりと見て取れるようになった。


 役人たちが恐れていたような、逃亡や自死の兆候は今のところ見受けられない。それどころか、背筋をぴんと伸ばして、ひざの上で優美に指を重ね合わせている。


 迎えの時を待つように、目線はただまっすぐに、上へ繋がる階段を見つめていた。


 “モンドヴォール公爵令嬢”、“呪われた婚約者”、そして“稀代の悪女”。


 彼女にはたくさんの呼び名がある。そして、そう呼ばれるだけの理由があった。


 自分の欲望のために、大勢の人間を籠絡(ろうらく)し、国中に混乱を招いた“悪女”。裁判では、とうに気が触れているとも唱えられたらしい。


 警備から若い男性が外されたのも、色情を利用して誘惑し、己の味方とすることが容易に想像できたからだ。


 私が牢番として指名されたのも、片足の不自由なおいぼれであれば、脱走の幇助(ほうじょ)が困難だと判断されたからだろう。


 しかし、警備役から除外したとはいえ、看守たちの関心がなくなるわけではない。囚人服をまとっていても、起伏のはっきりとした体つきは魅惑的で、閉鎖された監獄内では少々刺激が強すぎた。


 檻越しに卑猥な言葉を投げかける者や、食事の差し入れに便乗して体に触れる者、さらには警備の目を盗んで、牢の中へ忍び込もうとする者さえ現れた。

 その結果、身の回りの世話は女性看守のみに割り振られ、さらに異性との接触を断つため、最下層の独居房に隔離されることとなる。


 けれども同性であるからこそ、女を売りにしてきた罪人は、激しい差別対象となった。

 囚人の最低限の権利として認められているはずの、体を拭くための水さえろくに与えられない。さらに、食事は皿ごと受け渡されることはなく、牢の外から中身だけが投げ込まれていた。


 誇り高き公爵令嬢のことだ。あまりに不当な扱いには、文句を言いたくなることもあっただろう。

 それでも彼女が声を荒げることは一度たりともなく、床に落ちた食べ物にも手を合わせ、丁寧に素手で口へと運んでいた。


 ふと、そういえば、と思い出す。


 雪の降り始めた冬日、申し訳程度のぼろ布を差し入れたあの時。

 彼女は深く頭を下げながら、布切れを身にまとうと、珍しく私を呼び止めた。それから、この寒さが私の不自由な足に響きはしないかと尋ねてきたのだ。


 顔にこそ出さなかったものの、内心はとても驚いていた。すでにその身分を剥奪されているとはいえ、高位貴族の少女が賎民(せんみん)を気遣うなど、聞いたこともない。


 この足が動かないのは、生まれながらの性質で、幸か不幸か、古傷のように寒さで痛み出すものではなかった。その時はぶっきらぼうに、「問題ない」と返すだけで精一杯だったのを覚えている。


 なぜだかそれ以来、彼女はときどき、私へ話しかけてくるようになった。

 なんてことはない世間話がほとんどで、こちらからは、ろくにまともな言葉を返していない。それでも、彼女は喜んでいるようだった。耳を傾けてくれる相手がいると知れただけでも良かったのだろう。


 昔話を語る際は、年相応のあどけない笑顔を浮かべることもあった。その表情を眺めていると、なぜあのような大罪を犯すことになったのかと、首を傾げずにはいられなかった。


 月明かりすら入らぬ地下の小部屋で、彼女は今、何を考えているのだろうか。この数ヶ月間、近くにいた私でもそれを推しはかることはできない。


 けれども、薄汚れたあのぼろ布を後生大事(ごしょうだいじ)にし、すっかり暖かくなった今でも肩掛けにしている姿を見ると、孫ほど歳の離れたうら若き少女に、こう願わずにはいられない。


 どうか、最期の時が彼女にとって苦痛なものとならぬように。


 せめて、残りのひとときを心穏やかに過ごしてほしいと、息を潜めて少女の様子を見つめている。太ももの上で、密かに指を組み合わせながら。

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