1、人生最後の夜に
私はずっとひとりぼっちだった。
私たちが暮らしていた場所は深い森に囲まれていて、狭い家には私と母の二人だけがいた。
幼い私は母と長い時間、家の中で一緒に過ごした。
母は退屈しがちな私とよく遊んでくれたが、彼女が私たちが生きるために必要な仕事をしている間は、代わりに本棚に詰まった本たちが私の退屈の相手をしてくれた。
私はずっとひとりぼっちだったが、様々な本の中に描かれた物語と向き合う時、楽しんでいたと思う。
広い森に囲まれた狭い庭と、自分達の為だけの小さな畑があるような家。
そして、たくさんの本が詰まった本棚と、大好きな母。
それが私の世界の全てだった。
でも時々────その狭い世界に他の人物も訪れた。
父だ。
父は大きな馬に荷物を積んで、時折、私たち二人が生活する家を訪ねてきた。
大抵、その荷物は私に向けたプレゼントだったりしたが、父は同じぐらい母への贈り物も欠かさなかった。
父は母とは少し歳が離れていたように見えた。
でも一緒にいる時の二人はいつも幸せそうで、私はそんな二人の姿を少し離れたところから見るのが好きだった。
私たちの家を訪れる父はいつも優しくて、たまに「内緒だから」と言って私を馬の背に乗せて近くの森まで連れ出してくれた。
その時、私は初めて目にした『外』の世界に興奮した。
そこには図鑑の挿絵でしか見たことがなかった様々な植物が生い茂り、物語の世界でしか出会ったことのない動物たちもいて、透き通った水が流れる川、遠くには雪が積もった山々が見えた。
そこからきた水がたどり着いたであろう綺麗な湖もあった。
目に映るもの全てが新しく、はしゃぎすぎた私はよく馬の背からおっこちそうになったが、その度に父が抱き抱えて笑っていた。
そんな楽しい機会は片手で数えるほどしかなかったが、結局、それが私の唯一と言ってもいい『外出』の経験だった。
人とも、全くと言って良いほど会わなかった。
両親以外の人に初めて会ったのは記憶がある限り、七歳だった時。
父と母の『遅めの結婚式』の時だった。
当時、父は私と母に「随分と遅くなってしまった」としきりに謝っていたが、それでも母は幸せそうだった。
その日の空がよく晴れていて、森の中の湖畔で行われた小さなパーティーでは父の親友だという男の人が私を抱き抱き上げて遊んでくれたのをよく覚えている。
それ以来は両親以外の人と顔を合わせることもなく。
私は世間的に言えば、とても閉じられた世界で生きていた。
でも、そこまで退屈はしていなかったと思う。
寝床の本棚にはいつも、好きな本があったから。
────『天空城の白き魔王』。
それは世界中で語り継がれているという有名な御伽噺だった。
主人公の『白き魔王』は他人の迷惑を顧みない嫌われ者で、世界各地の貴重な財宝を独り占めし、けちで、意地悪で、子供向けのお話に相応しい『わるいやつ』。
でも、私はそんな『魔王』が大好きだった。
世界の全てを敵に回しても我関せずと高笑いし、自慢の城で大空を飛び回る。
どんな我が儘も力づくでやり通す────ずっと籠の鳥だった自分とは正反対の存在に憧れた。
そんな気ままな主人公が活躍する物語に浸っている間、自分も自由な気分になれたのだ。
実際、行動範囲は狭くても好きには過ごせていたし、幼少期の私はけっこう幸せ者だったのだと思う。
少なくとも、大好きな母とたまに訪れてくれる優しい父がいてくれたら、幼い日の私はそれで十分満足だったのだ。
でも、そんなある日。
父が死んだ。
母からは「戦争で死んだ」とだけ聞かされ、私達はすぐに住み慣れた家を出る準備を始めた。
私はどうしてそんなことをしなければいけないのか疑問に思い、荷造りをしながらでも理由を聞こうと思ったが……その疑問への答えは、家の中に押し入ってきた兵隊たちが代わりに教えてくれた。
「────ここが、例の『魔女の家』か。罪人の隠れ家には相応しい場所だな」
まるで戦争に行くような格好をして大勢で押しかけてきた兵隊たちの先頭に、真っ白な鎧を着た男の人が立っていた。
その人は綺麗な装飾で彩られた鞘から剣を抜き、表情も変えずこう言った。
「これより、穢れた血の粛清を行う。これは王妃直々の「王をたぶらかした『謀叛人』を討て」との命である。大人しく裁きを受けるがいい、魔女めらが」
その時私は初めて知ったのだが、父はこの国の『王』だったのだという。
白い鎧の彼が言うには、私と私の母はこの国にとって害であり、「あってはならない存在」だという。
要するに────母は『王』をたぶらかした大罪人。
私はその『妾』だか何かの子で、神聖な王位を穢す者であり、 母には子を使った王位簒奪の疑いがかけられている、と。
だから二人一緒に粛清せねばならない、というのが彼らの言い分だった。
「……お願いです、やめてください。私たちはすぐに出て行きますから」
母は剣を抜いて迫る兵士たちに自分は王位などに興味はない、だから誰とも関らず、死ぬまでここで暮らすすつもりだった、と説明した。
そして私たちが邪魔であれば娘と一緒に国から出ていくから、どうか、ここから去るのを邪魔しないでくれ、と懇願した。
でも、兵士たちは取り合わなかった。
次の瞬間には兵士たち全員の剣が抜かれ、私を守るように覆い被さった母の胸を貫き────同時に私の心臓も貫いた。
「────!」
その時、母は私に何かを囁いていたが兵士たちが口々に何かを叫んでいて、その声はよく聞き取れなかった。
私は「ああ、私の人生はこれで終わるんだな」と思った。
だって、剣で心臓を貫かれて生きていける者なんていないから。
でも、その時の私の心は不思議と穏やかだった。
こういう終わり方の物語も、本で読んだことはあった。
かなり悲劇的ではあるが、考えようによってはこれもある種のハッピーエンド、と言えなくもない。
だって、私は最愛の人の腕の中で一生の最期を迎えられるのだから。
もちろんとても痛いし、辛かった。
知らない人たちに突然家に上がり込まれ、わけもわからずに死ぬのも嫌だった。
何より、一番好きな人と別れるのが悲しくて悔しくて────
その場で大声をあげて泣きたくはなったけれど、でも、大好きな母の近くで死ねることだけは嬉しかった。
ここまで私を育ててくれた母には悪いけれど、私は心の中でひっそりと「こんな終わり方も悪くない」と思っていた。
もっと悪い結末のお話は他にもたくさんあるし、まだ自分は幸せ者なのだろう……と思い、涙でいっぱいになった目を閉じながら、私は静かに終わりの時がくるのを待ったのだが。
「────?」
実際、そうはならなかった。
私は何事もなかったかのように、床に手をついて体を起していた。
不思議に思って自分の衣服の中の胸に手を当てると、全く痛みもなく、数本の鋭い刃でズタズタにされたはずの心臓も、どういうわけか何事もなかったかのように鼓動を再開している。
まるで悪い夢を見ているような気分で私が辺りを見回すと、兵士の何人かが大きな悲鳴を上げた。
「────ヒッ……!?」
「……やはり魔女の子も魔女、か。兵を率いてきて正解だった」
そう言って、綺麗な白い鎧を着込んだ男の人が私を睨みつけ、剣を向けた。
────『魔女』。
その言葉を聞いて、私はあることを思い出した。
昔から母はとても「頑丈」だったという。
たとえば、どこかで派手に転んでも、高い木の上から落ちても、全然平気。
でも、それは普通の「平気」とは違った。
転んだり落ちたりした時、彼女はちゃんと怪我をしていたが、そこからが他の人とは全く違い、どこかで派手に転んでも、ついた傷はたちどころに治り、あやまって高い木の上から落ちて脚の骨が折れても、すぐにその場でくっついて治ったという。
そのせいで周りには怖がられて、ひどい時には「『魔女』呼ばわりされた」、と母は笑っていたけれど。
……改めて今の私の状態を思い返してみると、どうやら、全くそれと同じらしかった。
その代わり、私が母を抱き起こそうとした時、彼女の身体は冷たくなっていた。
胸に耳を当てても心臓の鼓動が聞こえず、普段ならなんなく治っているはずの小さな傷すら治っていない。
まだ身体に残っていていいはずの温もりすら、感じない。
……どうして?
「「「──────!」」」
私が大きな疑問を感じている間、兵士たちは代わる代わる何かを叫びながら剣で私の体を突き刺した。
でも、私は彼らをそのままにしておいた。
私はその時、泣けばいいのか、怒ればいいのかすらわからなかったから。
それに、体を貫く冷たい感触はあるのに痛みを全く感じない。
やがて、私が何の反応も見せないことがわかると兵士たちは私を剣で刺すのを躊躇するようになり……私が彼らを見つめると、怯えるような目つきで後退りを始めた。
私は、彼らに何かをするつもりはないというのに。
抵抗しなかった私は縛られて暗い牢獄のような場所に連れて行かれ、そこにいたとても綺麗なドレスで着飾った女性が私の顔をじっくりと眺め、こう言った。
「────これが、我が王をたぶらかした『魔女』の落とし子。……本当に、穢らわしい……ですが、騎士団長? 私はその場での処刑を命じたはず。何故、このように無傷のままなのでしょう」
「それが、グレイス王妃。何度心臓を貫いても効いた試しがなく……斬った瞬間に傷口がすぐに治り、まるで剣がすり抜けるようでした」
「……ああ、なんと忌まわしい。それでは、次は焼いてごらんなさい。それでこの魔女が死なずとも、火がついたまま無様に踊ることぐらいならできるでしょう?」
白い鎧を着た男の人は女の人に騎士団長と呼ばれ、男の人は彼女を『王妃』と呼んだ。
つまり、彼女がきっと父の『正式な妻』。
この国の『王』であるらしい父の本当の結婚相手、ということなのだろう。
冷酷な笑顔を浮かべる女性が私の顔をじっと見つめて笑う横で、低い声で暗闇の奥にもう一人、誰かがいるのに気がついた。
「……王妃、今は一刻を争う事態です。こんな時に冗談はやめていただけませんか。大罪人とはいえ、こんな幼子を残酷に処刑したとあっては王の名にも傷がつきます。どうか、ご再考を」
「……あら。これは冗談ではありませんのよ、フィリップ様。一国の主をたぶらかした罪はそれほど重いのです」
フィリップ、という名前には聞き覚えがあった。
それは私が一度もあったことのない父の弟の名前。
つまり、父よりも随分歳若く見える彼は私の『叔父』ということになる。
そして父が亡くなった後はおそらく、彼がこの国の────
「あら、随分と弱腰ですのね、フィリップ王。そんなことで、これからの我が国を治めていけるとでも?」
「……グレイス王妃。私はまだ王ではありません。兄の葬儀も、戴冠式もこれからです」
「お好きになさればよろしいですわ。ただ、くれぐれも、最低限の威厳は保った方が宜しくてよ」
「ご配慮、感謝いたします。グレイス王妃」
「騎士団長。後のことは任せましたよ」
「は」
それだけ言うと王妃は振り返ることなく、その場を立ち去り、私は王城の地下牢に移された。
これが、私がまだ十歳だった時の出来事だった。
◇◇◇
父の葬儀は国葬として大々的に行われた。
でも、私は父の葬儀には参列させてはもらえなかった。
その時の私は王城の暗い地下牢に閉じ込められ、そこから一歩も出ることを許されなかったから。
私は「王位簒奪を目論んだ大罪人の『魔女』の娘」であり、死刑は確定していることらしかった。
それまで、自分はこの薄暗い場所で一生を過ごすのかもしれないな……と思っていたが、父の弟のフィリップが亡くなった父から王位を受け継ぐと、私の居場所は暗い城の地下牢ではなく、また別の場所に移された。
「入れ。お前はしばらくの間、ここで過ごすことになる」
「……ここで?」
私はその部屋に連れて行かれた時、少し驚いた。
そこは王城の最上階の一角であり、取り付けられた小さな窓からは谷間に作られた城下町と、遠くに見える美しい山々が一望できた。
おまけに、その部屋には本棚があり、そこには数冊の埃を被った本が並べられていて、中には私が昔から大好きだった本もある。
扉も外から鍵はかけられるようになってはいるものの、鉄格子ではなくしっかりとした作りの木製のドアだった。
一見して、私のような罪人でなく普通の人が暮らすような場所だと思った。
とても奥まった場所にあったその部屋は、とても狭くて薄暗く、掃除もされておらず埃臭くはあったが、ちゃんとした木製のベッドと机と椅子もある。
私が戸惑いつつも、何故自分がこんな場所に移されたのかと聞くと、どうやらそこは元々、重い疫病で死んだ女中の部屋だったのだという。
だから誰もが病魔を恐れ近づかず、長い間開かずの部屋となっていたという。
それに、城の中で最も逃亡が困難な場所だから、と。
フィリップ王が命じたと説明した兵士は、何かを恐れるようにして口を覆いながらすぐにその部屋を出て行った。
確かに、そこは城の中で最も奥まった場所にあった。
連れてこられるまで警備の兵が何人もいて常に目を光らせていたし、逃げることは難しいだろうと思った。
諦めてその部屋を掃除するところから始めると、部屋に唯一あった小さな窓が開くことを見つけ、驚いた。
(……これ、開けられる?)
驚くことに、そこはお城の屋根に通じていた。
足を伸ばせばすぐに降り立つことができそうだった。
ここに私を閉じ込めた人たちは、この窓が開くことを知らなかったのかもしれない。
知っていても、私がその子猫すら通り抜けることが難しそうな大きさの窓から出られるなんて、思ってもいないようだった。
私はこれ幸いと深夜になるのを見計らい、その小さな窓を強引に通り抜けた。
すると、お城の屋根の上で久々に感じた外の風は本当に気持ちが良かった。
このまま屋根を伝って、お城の外まで逃げ出せそうだったが、私はそこから逃げ出すことはあきらめた。
窓から出てすぐの所には屋根に突起があり、体の小さな私が身を潜ませることのできるぐらいのちょうどいい空間があったが、そこから一歩出ればすぐに城の異変に目を光らせている警備兵に見つかってしまい、私はあっという間に部屋の中に連れ戻されてしまうだろう。
そうなればあの窓は永久に閉じられてしまい、私も別の場所に移されてしまうことになる。
だから、敢えて私はその狭い範囲から出ようとはしなかった。
そこが私の自由の限界。
でも、その与えられたその小さな自由を存分に楽しもうと思った。
私の処刑の日にちが決まるまで。
────そうして。
その後は代わり映えのしない月日が流れ、私がお城の中に住むようになってから、あっという間に三年が経った。
その間、色々と嫌なこともあった。
彼らは私の処刑方法をなかなか見つけられていないようで、時折、何かの方法を思いつくと、私に有効かどうかを試すため、私は城の中の暗い部屋に連れて行った。
でも、そのどれもが私にとってはなんの意味もなさず、どんな傷も瞬きをする間もなく治ったが、自分の体を傷つけられるのはやっぱり気分のいいものではなかった。
でも、良いこともあった。
ひとりぼっちだと思っていた私に兄弟がいたことがわかったのだ。
歳の離れた兄が二人、姉が二人。
一番上の兄が『第一王子』のフェデリックで、次が『第一王女』のアントワーヌ。
その次が第二王女、リンネ。
そして末っ子で私に一番歳が近い、第二王子のライデリック。
彼らは皆、腹違いの兄弟だった。
でも、どちらかというと、それは悪い方のことだったかもしれない。
彼らは時折、私を自分たちの部屋に呼び出し、色々と酷い言葉を浴びせたり、彼らの飲んでいたお酒を私の頭からかぶせたりしたからだ。
私の服はろくに換えがなく、よく理解できない理由で汚されるのは嫌だったが、それは彼らにとっては私が受けるべき『罰』らしかった。
私は前王である彼らの父をたぶらかした『魔女』の娘であり、生まれてきたこと自体が罪。だから、自分たち手でその罰を与て然るべき────という考え方。
とはいえ、フィリップ王はまだ年齢的には子供でしかない私に対する刑罰以外の私刑を禁じていたらしく、彼らはそれを「見えないところでやる」ことにしたらしかった。
隠れてやることだし、 処刑の時の方がずっとひどいことをされていたので私はなんとも思わなかったが、でも、私と同じ父から生まれたはずの彼らがそんなことをするのが、私には少しショックで、悲しかった。
それに病弱で妻も娶らず、もう長くはないと噂されているフィリップ王に何かあった場合、父の弟であるフィリップ王の後は彼ら王子のうちのどちらか、順当に行けば一番上の兄王子フェデリックがその跡を継ぐことになるという。
思わず彼が王位を継いでしまったらこの国はどうなってしまうのだろう、と心配になった。
彼らは私にも、父親であるはずのあの優しかった父にも全く似ていなかった。
姿も性格も、どちらかというと王妃よりのように思えた。
彼らに呼び出された後はいつも嫌な気分になる。
そんな時は深夜の警備が手薄になった時間を見計らい、こっそりと音を立てずに屋根の上に出る。
そうして遠くを眺め、夜風を受けていると私の気分はすぐに落ち着いた。
そこからは、お城の中にはない美しいものがたくさん見えたから。
私がそんな風に、その不自由な場所にほんの少し希望を持ちはじめた頃のことだった。
「あの化け物の処分についてですが」
深夜の屋根に上がっていると、誰かの話し声が聞こえた。
響いてきたのは、あの騎士団長の声だった。
彼が言う『化け物』とはもちろん、私のこと。
足音を聞かれるとまずいと思い、私は暗い屋根の隅で息を潜めた。
「……散々、貴様が泣き言を言っていたではないか。あれは殺しても殺せん化け物なのだと」
「ゴルドヴィンが一目でも会わせろ、と、騒ぎ出しまして」
「ゴルドヴィン。東の守護を任せている、あの辺境伯か」
「なるほど。それで、お前はあの魔女の子供の処分を急ぎたい、と?」
「おっしゃる通りでございます」
騎士団長と貴族たちが話し合う声。
ゴルドヴィン、という名前には聞き覚えがあった。
それは父の『結婚式』で私を抱きかかえて遊んでくれた人の名前だった。
「先日、西の塔の大賢者様より、とあるご助言をいただきまして」
「ほう、西の大賢者が? 昔から、あのお方は人嫌いで有名だが」
「先王の妃であられるグレイス様と賢者様は元々、お知り合いで。賢者様は『魔女』に大変ご興味をお持ちとのこと。魔女の身柄を譲渡するのであれば我が国に長期の援助を考えても良い、と」
「ほう? 大賢者様が? それはかなりの朗報ではないか」
騎士団長が話を切り出すと、会議に出席してた貴族たちがざわついた。
「あれらの『力』自体は親から子へと受け継がれ、不滅。しかしながら代わりとなる器さえ用意してしまえば簡単に抜き取ることができるのだとか」
「ならば急げよ、騎士団長」
「は。もちろん明日にでも実行したいところですが、その前に許可を得ねばならぬお方が、お一人」
「ああ、そうでしたな。いかがでしょうか、フィリップ王」
数人の貴族が王を呼ぶ声がする。
「ご葛藤、心よりお察しいたします。あれも、魔女の子とはいえ前王の血を分けた者。しかしながら、この処遇は我が国の安寧を願えばこそなのです」
「全く、哀れなものですな。あれも分不相応な身分に生まれてさえいなければ、まだ他の使い道もあったものを」
「ですが、あれは厄介な先王の落とし種。放ってもおけば、悪ければ担ぎ上げる勢力が出てきかねません。事実、ゴルドヴィン侯爵がよからぬ動きを見せている、と」
「西の賢者との取引は王の治世のために是非とも必要なことと存じます」
貴族たちはその場にいるらしい王の返事を待ったが、しばらく待っても一向に彼からの返事は返ってこなかった。
「悪い話ではないと思いますが。どうぞ、ご決断を」
「……聞こえませんでしたか? フィリップ王」
「……わかった。お前たちの思う通りに進めてくれ」
そう言って、王はその会議の場を立ち去り、王の小さな足音は遠ざかっていくと、程なくして消えた。
「ほら、王の許可が出たぞ」
「賢明な王だ。我々の助言ですぐにご決断なされたな」
「……では明朝、魔女の娘には旅行に行くとでも伝え、西の大賢者様の元に向かいましょう。そうしてあれが力を失った後、賊に襲われたことにして処分してしまえば後腐れがないかと」
「はは。さすが、手慣れている。やってくれ、騎士団長」
私はそのまま屋根の上で物音を立てないよう小さく座り込むと、すぐに目から涙が溢れ出た。
「結局、ここで頑張って生きていても……何も、いいことありませんでしたね」
長い間、流すことさえ忘れていた涙だった。
私なりに役割を見つけ、一生懸命生きてきたつもりだった。
でも、それはやっぱり報われない努力だったらしい。
そんなこと、わかっていたはずなのに。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
その日はこの上なく晴れた空に気持ちの良い風が吹く、とても綺麗な満月が浮かぶ夜だった。
この場所に来ると時折、悲劇の主人公のようにここから身を投げてしまおうかと想像する。
でも、私がここから身を投げたところで異様に治りの早い私の身体は死なせてくれないし、そんなことをしたって意味はない。
今の限られた自由がさらに狭くなるだけの話だった。
それに、ここに座ってそんな陰鬱な気持ちはすぐに萎んで消えた。
何も遮るもののない屋根の上からしばらく辺りを見渡すと、この世界に一つは美しいものを見つけられたから。
────それはたとえば、どこかから風に乗って運ばれてくる木の葉だったり。
夜空に瞬く星々の輝きを背に飛ぶ、渡り鳥の姿だったり。
あるいは夕日に照らされて輝く、大きな雲の形だったりした。
よく空が見えるここの場所にしばらく座っているだけで、この世界には美しいものばかりが溢れているように思えてきた。
むしろ、少しでも長くここに留まりたいとさえ思った。
どんなに辛いことがあった日も、来る日も来る日も。
その繰り返しでこれまでの日々をやり過ごしてきたのだ。
結局、その日もそうだった。
私はその日もそこで美しいものを見つけた。
「思ったより風が強いな。小娘」
私がそこで目にしたのは雲ひとつない空に浮かぶ嘘みたいに綺麗で丸くて明るい月。
そして、同じぐらいに明るく輝く銀の髪を持つ男の人だった。
「……えっ?」
唐突に現れた見知らぬ人物に驚いて私が思わず息を呑み、目を丸くしているとその不思議な格好をした人は私の顔を覗き込み、不思議な内容のことを言った。
「返事が、ない。言葉が通じていないのか。一応、これがこの国の言語だと思ったが」
「……い、いえ。ちゃんと聞こえてます。大丈夫です」
「そうか。なら良かった……それで、お前は時折、この屋根の上に登っているが、何故、そんなことをしている?」
「……なんで、そんなことを聞くんです?」
誰、とは聞かなかった。
明らかに侵入者で不審者だったから。
にもかかわらず、その人の穏やかな声は不思議と私の心を落ち着かせた。
「この屋根は、俺の城からちょうど見える位置にある。毎日のように居る奴がいるので、何が見えるのかと思って」
「お城?」
不思議な人は月の浮かぶ夜空を指差した。
私が言われた通りの方向をじっと眺めていると、確かに何だか小さな点みたいなものが見えてきた。
「もしかして……あの小さな点みたいなもののことを言ってます?」
「そうだ。あそこからはこの屋根が丸見えになる」
「……なるほど。空飛ぶお城、ってわけですか。まるで、『天空城の白き魔王』のお話みたいですね」
「天空城の、白き……? なんだそれは」
「昔からある有名な御伽噺です。知りませんか?」
「いや、知らない。その手の書物には疎くてな」
その人との会話は最初から噛み合わず、現実味がなかった。
だから、さらに現実味がないことを話し出しても私はそれをそのまま受け入れた。
だってこんな人、こんな場所にいるはずがないのだから。
でも、こんな風に普通に人と喋ったのなんて、いつぶりだろうと思った。
いつしか、私はその現実味のない人との会話を楽しみ始めていた。
「そうですか。じゃあ、そんなに長くないお話ですから、聞いてみます?」
「ああ、この際、そうしよう。聞かせてくれ」
「じゃあ、始めます────昔々、あるところに魔王がいました」
自分がおそらく何千回は読み返した書物に記されたお話を、そっくりそのまま頭の中から読み上げる。
物語を人前で声に出して語るなんて初めてのことだったが、思っていた以上に口からすらすらと言葉が出て、物語はどんどん進んでいった。
いつも私に母が読み聞かせていた物語を私が誰かに聞かせることになるなんて、思っても見ないことだった。
まるで、自分が母のように読み聞かせをしている気分だった。
その間、その奇妙な男の人は静かに耳を傾けた。
「────────」
その日の夜空はとても綺麗で、他の全ても夢か幻なんじゃないかと思えるぐらい美しく見えた。 そんな景色に目を奪われているうち、私は物語を最後まで全て話し終えていた。
「────と、こんな感じです。少し、長かったでしょうか?」
楽しい瞬間はあっという間だった。
その日は本当に何もかもが綺麗だった。
話していることの中身も、その相手も。
現実のものとは思えないぐらい。
「なるほど、そういう話か。よくわかった……確かによくできた児童向けの物語だな」
男の人は私の話が終わるまで、空の月を眺めながらじっと待っていた。
話を聞き終えた男の人は少し考えてから、私が語った物語の感想を言った。
「……はい。私は小さい頃からこの本が大好きで、他にもいろんな本も読んできましたが、結局、これが私の一番好きな物語なんです」
「穏やかな語り口の中にも小さな起伏があり、飽きさせないような作りになっている。広く人気が出て有名になるのも頷ける……だが、ところどころ、やけに描写が具体的だ。どこかで聞いたような話ばかりだし、現実にモデルでもいるのか?」
「私はそういう話は聞いたことがありませんが……でも、ありうる話かもしれません。この世のありとあらゆる全ての悪は空の城にいる魔王がばら撒いた、という設定らしいので、そのままかどうかはわかりませんが」
「この世の全てを、か。随分と大雑把な話だな」
「御伽噺ですから。ちょっと荒唐無稽なのは仕方ありませんよ」
「だが、現実に存在する設定もある。空飛ぶ城の描写などは、そこそこ真実に近いように思えるな」
「────ええ。そうかもしれませんね」
私は夜にそこに浮かぶ奇妙な影をもう一度眺めた。
心なしか、さっきよりもお城らしい形に見える気がした。
「それにしても、その魔王という奴は随分と酷い奴だな。実際にそんな奴がいたらたまらん」
「でも、実は私……小さい頃、あの主人公にちょっと憧れてたんです」
「……あの魔王にか?」
「はい。確かに『白き魔王』は確かに意地悪で悪い人ですが……自慢の空飛ぶお城で、あちこちに自由に出かけていって、どこへ行っても好き放題できて。何をやってても笑っていて、楽しそうでいいなぁって」
「なるほど。そういう見方もできることはできる、か」
「だから、私もいつか──……」
ちょうど、ずっと籠の中の鳥だった自分とは正反対の存在。
だから、私は『天空城の白き魔王』に憧れていた。
でも、いつかそんな風になってみたかった、と口に出そうとしてみて改めて、私には「いつか」なんてないことを思い出す。
まだもう少し続くと思っていた私の人生は明日、唐突に終わる。
大好きな母親から受け取ったらしい『力』を、どこかの知らない人に奪い取られ、事故に見せかけて殺されるらしい。
「私も、いつかそんな風になりたかったな……って」
でも、彼らに従順に従おうと決めた私は、抵抗する手段なんて何も持っていないのだ。
だから私はせめて、この見知らぬ人と少しでも人間らしい会話を続けたかった。
ずっと続いてほしいと思えるような、とても楽しい時間だったから。
このまま、なんでもいいから話したかった。
でも、知らない間に溢れた涙が私の声を堰き止めた。
その日は奇跡的に全てが美しく、何もかもが現実離れしていた。
空に浮かんでいる月も。
私と会話しているその人も。
とてもこの世のものとは思えないほど綺麗で優しく思えた。
「────ならば、俺の城に来てみるか?」
その男の人は不意に問いかけてきた。
あの空飛ぶお城に来るか、と。
私が憧れた御伽噺のような世界へと。
「……あのお城に、ですか?」
「そうだ」
「……そうですか。それは、いいですね。私もあの空に浮かぶお城へ行けるなら、是非とも行きたいです……もし、本当にそんなところがあるのなら」
「ならば、お前を俺の城に受け入れよう。ちょうど人手が欲しかったところだ。多少、人を選ぶ職場だが……見たところ、お前の資質なら問題ないだろう」
「資質?」
「まずは受け入れの証として、先にこれを渡しておく」
「これは?」
男の人から手渡されたのは金色の鎖に緑色の宝石が嵌っている小さな首飾りだった。
よく見ると、宝石の中がぼんやりと光っているように見えた。
「それには庇護の付与をつけてある。一応、貴重な品だから、失くすなよ」
「あ、はい……?」
「では、明朝には迎えに来る。それまでに身支度と、周囲の者への挨拶程度は済ませておくがいい。」
「……あっ。待って、ください」
男の人が不意に私に背を向けると、屋根の上に強い風が吹く。
私は思わずその人を呼び止めたが、次の瞬間には、私の目の前にいたその人の姿は消えていた。
私は慌てて夜空に浮かんでいたはずの影を確かめようとしたが、もう、小さな点すら見えなくなっていた。
「……ああ、そうか。そうですよね、もちろん」
つい先程まで話をしていた人がまるで幻のように消え、慌てて私が屋根の上を見渡しても、どこにも何もない。
私がさっき見た美しくて面白いものが全て幻のように消え去っている。
私はそこで、今までの出来事が現実ではなかったことを受け容れた。
あれはきっと私の世界への失望が見せた一時の優しい夢だったのだ。
そうでなければ、何から何まで私に都合の良くできた、あんな話があるわけがないだろう。
────でも、だとしたら。
「……これは?」
手のひらの上にずしりと載る、金色の首飾りの感触はなんなのだろう。
ここに、これがあるのは確かなことだった。
だとしたら、あの人も……いや。そんなことないに決まってる。
だって、思い返してもみればあの人が立っていた場所は警備の兵士から丸見えの位置。
それで何も騒ぎが起きていないということはつまり、あの人は私の目からしか見えていなかった幻想、ということになるのだろう。
日頃から空想がちな私には、こういうことがたまにある。
いつの間にか妄想と現実を混同し、それらを取り違えてハッとする、というようなことが。
普通に考えれば、これは私が屋根の上で拾ったのだろうと思う。
谷の間に吹き抜ける強い風に飛ばされて、誰かの落とし物が私のいる屋根の上にまで届いたに違いない。
私はここで、もっと大きなものを拾ったことがある。
誰のものかもわからない、くたびれたブーツとか。
風の強いこの谷間にある王城の屋根には、そういういろいろなものが偶然に飛ばされてくることは知っている。
だから、この首飾りもその中の一つに過ぎないのだ、と。
そう考えた方がずっと理に適っていて現実的だった。
先ほどは灯っていたかに見えた緑色の宝石の不思議な輝きも消えている。
だから、あの現実味のない男の人も、遠くに見えたような気がした小さな点も。
全ては私の願望が生み出した都合の良い現実逃避でしかないのだろうと思った。
……でも、そうだとしても。
「人生最後の思い出としては、悪くない、ですね」
光を失った緑色の宝石を眺めながら、私は少しだけ笑顔になっていた。
今夜は久々に、本当に楽しかった。
あれが私自身の妄想の産物だったとしても、あんな風に人とまともに言葉を交わしたのはいつぶりのことだろう。
会話の内容もとても不思議で面白かったし、憧れの『空飛ぶお城』に連れて行ってもらう約束までできたのだ。
今夜は何もかもが綺麗で、何もかもが私にとって都合が良い夢のようなひとときだった。
あれが真実なら、どんなに楽しくて嬉しいことだろう。
でも、現実にはそうではないことは知っている。
私は明日、干からびるまで『力』を吸い取られて事故に見せかけられて死ぬことになっている。
今すぐ逃げ出してしまいたいが、頼れる人なんてどこにもいないのだし、どうやって逃げればいいかもわからない。
たった一人でどう足掻いたって、大勢の人たちあから逃れる術はないのだろうと思っている。
だからここまでが私の人生であり、終点なのだ。
それにしても短い人生だったな……と感慨に耽るが、でも、思い返してみればそこまで悪くない人生だったかもしれないと思う。
私の胸の中には、ちゃんと幸せな思い出だってたくさん詰まっているのだから。
……最後の三年間以外なら。
「……もう、部屋に戻りましょうか」
私は少し冷たい夜風に当たると、処刑されるべき罪人のために用意された部屋に戻ることにした。
きっと、明日はいつも以上にろくなことがない。
それでも私は狭い窓から冷えた寝床に戻ると、屋根の上で見つけた不思議な首飾りを胸に抱き、いつもより、ほんの少し温かい気持ちで眠りについた。