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ルリから見た世界

作者: フミヅキ

「遠慮しないで上がってよ~」


 玄関からガチャリとドアが開く音に続いて世界くんの普段より半音高い声が聞こえて、私はピクンと耳をそばだてます。


「お邪魔しま~す……って、すごぉい! めちゃくちゃ広いね~! 世界くんって本当にお坊ちゃまなんだぁ」


 続いて聞こえてきた、うら若き乙女のものであろう声に、私はお気に入りの布団から起き上がる決意を固めました。やれやれ。世界くんはまたどこぞの合コンで出会った淑女をお持ち帰りして私たちのマンションに連れ込んだのでしょう。


 ちらり。私がリビングの扉の縁から玄関を覗き込むと、世界くんと目が合いました。


「お、ルリ~! おいで~!」


 ガバッと両腕を開いて私にアピールする世界くんに対し、私はツンとそっぽを向いてリビングの中に引き返します。


「なんだよ、ルリってば、もしかして僕が可愛い女の子を連れてきたから嫉妬してるの? おい、ルリ~、こっち向いてよぉ!」


 靴を脱いだ世界くんは口を尖らせながら、でも、どこか嬉しそうな足取りで私を追いかけてきます。私は無視しようとしましたが、歩幅の違いからすぐに追いつかれ、ひょいっと抱きかかえられてしまいました。


「ルリちゃ~ん、今日も最高に可愛いでしゅね~」


 なぜか赤ちゃん言葉で語りかけてきた世界くんは、あろうことか私のこめかみにチュッチュとキスをしてきます。この男、この前成人を迎えたはずなのにウザ絡みが酷い……。私は顔を逸らしたり、体をよじったりして逃げようとしますが、力では勝てないため世界くんのなすがままです。


 そんな私たちの様子をポカンとした表情で見つめていたお持ち帰り女子は、ハッとしたように世界くんを追ってリビングに入ってきました。淡いピンク色のふわっとしたデザインのワンピースを着た女の子で、一見すると上品なお嬢様風。内股気味の可愛らしい足取りで世界くんに近寄ってきます。


「え~、この子が世界くんの言ってた子ぉ? ホントにめちゃくちゃ可愛いね~!」


 そう言って、彼女は手を伸ばして私の身体を撫でました。男に触られるよりはマシですが、あまり好きではない感触です。


「でしょ。萌愛ちゃんも猫好きって言ってたから絶対見てもらたくてさぁ」


 世界くんはどうやら私――キジトラ(メス十歳)の猫である私を、女子をお持ち帰りするための材料にしてくれた模様です。毎度のこととはいえ呆れた男。


「萌愛ちゃんも抱っこしてみる?」


 世界くんがお持ち帰り女子――萌愛さんとおっしゃるのですかね?――に私を引き渡そうとした隙をついて、私は二人の手から逃れ地面に着地します。そこから素早くダイニングチェア、ダイニングテーブルへとタタタンと飛び移り、さらに助走をつけて天井近くまで届く大きなキャットタワーの最上階まで飛び乗りました。


 世界くんはふぅとわざとらしい溜息をつきます。


「ごめんね、ルリは僕以外には人見知りであんまり触らせてくれないんだ」


 少し得意げに笑う世界くんを見て、私は心の中で溜息をつきます。別に世界くんに特別に触らせているつもりもないのですが、これが親バカというやつなのでしょうか。でも、萌愛さんはそんな世界くんの様子に頓着しません。


「え~、わたしもルリちゃんに好かれた~い! ルリちゃん、おいで~」

「そんなところから降りておいでよ、ルリ~」


 二人して甘い声で誘いますが、私はツンと顔を背けます。すると、世界くんが戸棚をガサゴソと漁り始めました。


「仕方ないなぁ。これをあげるからおいで」


 取り出したのは全猫が無視できないちゅるっと出てくるあのおやつです。なんてズルい男。思わず尻尾がピクリと反応してしまいます。


「ほらほら~、おいしいぞ~」


 世界くんがピリッと袋を破くと、ふんわりと漂い出た芳香が鼻を刺激し、ピクピクと髭がざわつきます。


「おいでったら~」

「ルリちゃ~ん」


 私は仕方なくキャットタワーを降り、世界くんの手にしたちゅるっとするおやつを啄み始めました。二人は満足げに笑い、私に手を伸ばしてきます。


「や~ん! ルリちゃん超かわいい~」


 普段より一オクターブ高いのではと思われる声で、萌愛さんは私を撫で回します。しかしながら、彼女の指先は心ここに在らずで、私を可愛がろうという心が全く伝わってきません。事実、彼女のカラーコンタクトで黒目がちを演出した目は、私ではなく世界くんをチラチラ見ています。


 ははぁ、なるほど。萌愛さんは「猫を可愛がるわたし」が可愛いことをアピールするタイプのようですね。「可愛い猫がいるからおいで」と自宅に誘う世界くんと、どっこいどっこいといったところでしょうか。


 私はこの接近したのを機会に萌愛さんをじっくりと観察してみます。


 髪は綺麗な茶色を根元までキープしているし、メイクも洋服もきちんと研究している跡が窺えます。どんな目的かにしろ、きちんと美容を志してる方のようです。モデルやグラビアアイドルになれるほどではないですが、そこそこ普通に可愛いいので「インスタでインフルエンサーとして活動しています」と言われればそうかなと思えるような雰囲気。世界くんお持ち帰り女性リストでいえば星三つから四つの間といったところでしょうか。


 二人はしばらくの間、私を撫で回し、気が済むとテレビを見たりお酒を飲んだりしながら体を寄せ合い始め、交代でシャワーを浴びると二人一緒に世界くんの寝室へと消えていきました。


 私は溜息をつき、伸びをしてからリビングルーム内の猫用ベッドに潜り込んで目を閉じました。




 翌朝、私は薄目を開けて萌愛さんが帰宅するのを見送ったあと、朝のシャワーを浴び終わって髪をタオルで拭く世界くんを見つめていました。


 はっきり言って、世界くんはモテます。


 実家は都内の高級住宅街の一軒家で、ご両親は会社経営やら相続した不動産やら資産運用やらで裕福です。通いのお手伝いさんがいたあの家に、私も何年かお世話になっていました。


 実家のご両親は、都内の最難関私大の経済学部にストレート合格した世界くんに、設備の整った港区内の高層マンションの部屋をポンと与えました。そこにたくさんの女性を代わる代わる連れ込むようになることを、ご両親はどの程度予期していたものやら。


 そして、世界くんは顔もまあまあ良いのです。素材もそこそこな上、ちゃんと身綺麗に整えた清潔感溢れる外見を常に保ち、きちんと人に好かれるファッションを選択し、そこにさらりと高級ブランドのアイテムを混ぜ、いわゆる雰囲気イケメンの構築に成功している男の子です。


 性格も朗らかで誰にでも優しく、時には少年のように無邪気なところもあって、男女問わず好かれています。


 彼のお持ち帰り癖は、経済力・外見・性格・友人ネットワーク等、諸々揃っているがゆえ、合コンに引っ張りダコ、合コン内でも引っ張りダコのための悪癖でしょうか。


 萌愛さんがマンションを出てしばらく経つと、世界くんのスマートフォンが振動しました。


「わ、『世界くんのマンションにまた遊びに行きたい』ってライン来ちゃった……」


 嫌がる・ウザがるというよりは心底困った風な表情で、世界くんはまだ乾ききっていない頭を掻きます。


 困るのだったら、そんなに簡単に女性をお持ち帰りしなければいいのに……とは思いつつ、でも今の世界くんにはそれが止められないのだなということも、なんとなくは分かります。私はなんだか割り切れない気持ちになって、猫ベッドの中で体勢を変えて再び目を閉じました。




 その後も、アナウンサーを目指しているという女子大生の亜理紗さん(若干ぶりっ子気味なところに評価が別れそうですが、ある意味健気でもあるので私としては星四つ)、小柄で細身でツインテールが似合う地雷系女子の美憂さん(外見的には星四つを付けたいものの、粘着質の性格に難がありすぎて星一つ)、年上のヨガインストラクター里菜さん(美人だし鍛え抜かれた美しい身体を持つ人ですが、私が嫌いな煙草を吸う人なので星三つ)などなど、多くの女性がこの部屋に上がりました。いずれも一回か多くても三回。さっぱり切って次の女性へ、そのまた次の女性へといった具合です。


 世界くんが大学など近い人間関係を崩さずにいるのは、手近な女性には決して手を出さないこと、学外で関係した女性とも深くならないうちに連絡を絶つゆえでしょう。


 大学のサークルの人達がこの部屋でホームパーティーする様子を観察しているのですが、サークルの女性陣は世界くんの行状をある程度知っているものの、その悪癖さえなければ普段は気の回るいい奴で、しかも自分たちに手を出す気はないことも理解しており、「世界はクズだが役に立つ」とサークル内恋愛の相談相手として活用しているようです。


 一方、合コンなどで知り合って世界くんと関係した女性はハイスペックな彼氏を手に入れるべく、再度連絡を取ろうと努力はするようですが、世界くんはそこはきっぱり跳ね除けています。


 地雷系女子の美憂さんは元ホス狂いだとかでしばらく世界くんにも付き纏っていましたが、ある時、再びホストに粘着対象が移行して去っていきました。最初は「皆に人気のハイスペな世界くん」という偶像に惹かれたようでしたが、やり取りをするうちに美憂さんと同じような澱を彼が心に抱えていることを察知したのかもしれません。美憂さんは心の澱を忘れるためにキラキラしたホストに時間とお金を費やしてきたとお見受けしましたが、実は世界くんも何かを忘れるために女の子を次から次へととっかえひっかえしているのです。こんな男では自分の心の澱を忘れさせてくれないと彼女は悟ったのかもしれません。


 まあ、猫な私には人間の男女のことは理解できない部分もあるでしょうから、こんなのは全部私の憶測なのですが。




 そんな世界くんにも例外があります。


「朱音ちゃん、ごめんだけどサークルの夏合宿中、ルリの世話をお願い!」


 世界くんの部屋の玄関先で両手を合わせて懇願されている女性は、世界くんの元カノの朱音さんです。世界くんと同じ高校の元同級生で、研究してみたいテーマがあるからと都内国立大工学部に進学した才媛です。


 シンプルなTシャツにジーンズ、髪は邪魔にならないように纏めてあって、お化粧もベースメイクとリップくらいでしょうか。正直に言ってしまうと、世界くんお持ち帰り女性リストの中で比較すればあまり秀でた外見とは言えません。しかしながら、私は朱音さんのことを星の評価を越えたUR(ウルトラレア)に位置付けています。


 世界くんの通っていた中高一貫校に、高校から特待生として入ってきた朱音さん。彼女と生徒会活動で交流を深めるうちに世界くんは彼女と恋人関係になりました。とはいえ、その頃から世界くんは学外の女性――その頃は高校生と遊びたがる年上のお姉さま方にモテていました――としばしば関係を持っていました。主にこのことが原因で二人はケンカをしたり、別れたり、復縁したり、ケンカをしたり、別れたり……を繰り返し、高校卒業後はたまに連絡を取り合うのみの関係になっています。でも、世界くんとここまで深い関係を継続している女性は朱音さん以外いません。


 玄関の朱音さんは仏頂面で世界くんを見つめながら言います。


「だったら『女の子のお友達』の誰かに頼めば?」

「いや、だってさぁ。朱音以外の子にルリを預けるのって不安だから。前なんて迎えに行ったら猫砂ろくに変えてなかったなんてこともあったし」

「ふーん。ルリちゃんをわたし以外の女の子に預けたことあるんだ」

「あ……!」


 慌てて口を手で覆う世界くんを、朱音さんはジト目で見つめます。


「別にもう付き合ってるわけでもないからどうでもいいけど……相変わらず女をとっかえひっかえしているらしいね」

「いや、そんなこと……えっと……」


 世界くんは目を泳がせ、音量が尻すぼみになっていきます。


「いつか刺されても知らないよ」

「いや……僕も遊んでるっていうか、ちゃんと彼女を作ろうと思って出会いを重ねてるんだけど、なかなかいい子が……ねぇ……?」


 世界くんが上目遣いに朱音さんを見つめると、彼女はふぅと溜息をつきました。


「世界はやっぱりまだあの事件を引き摺ってるの?」


 世界くんは一瞬目を見開きましたが、すぐにいつも以上にヘラヘラした笑顔を浮かべて答えます。


「え~? いや、あれは僕にとってはもう過去のことっていうかさ~」

「嘘言わないで。今思えば、事件の子のことが忘れられないから、自分の気持ちを誤魔化したくて昔からあっちこっち女の尻を追いかけてたんじゃないの?」

「何言ってんだよ~。浮気したのはホントにごめん……しか言えないけど……僕は本当に朱音が好きだったし」

「やめてよ。確かに他の女の人とばっかり関係持ってる世界のこと、本当にムカついたし怒ったけど……わたしは世界が事件の子に囚われてるっていつも感じてた。冷静に振り返ってみると、たぶん、わたしはそのことが一番辛かったんだよ……」

「な、何言ってんだよ……今更……」


 それきり二人は口を噤み、玄関に重たい沈黙が落ちました。私はなんだかいたたまれなくなって、猫ベッドに戻ります。


 しばらくして玄関の方から朱音さんの溜息が聞こえてきました。


「わかった。とにかくルリちゃんはうちで預かるから安心して。両親も猫は好きだし、何度か預かったことがあるからルリちゃんも安心でしょう」

「あ……朱音、ありがとう」


 世界くんは私をキャリーバッグに入れたり、餌や猫砂など必要資材をまとめながら玄関に向かって声を掛けます。


「家まで車で送るから下で待ってて」

「わかった」


 朱音さんの靴音が遠ざかっていきました。


 世界くんが私を朱音さんに預けようとしているのは、意識的にしろ無意識的にしろ世界くんが彼女と連絡を取りたいゆえの口実でしょう。世界くんのお財布状況なら私をペットホテルやシッターに預けるのは余裕ですし、都内の実家に預けてもいいはずです。それに朱音さんだって、世界くんに関わりたくないならそもそもマンションまで来ないはずです。


 私はキャリーバッグの隙間から、ちらりと世界くんの顔を窺います。さっきのヘラヘラした表情とは違い、痛いところを突かれたような顔をしていました。私は顔を引っ込めて、手持無沙汰をまぎらわすように顔を舐めました。




 時々私は夢を見ます。

 その中では私は人間の女の子で、幼稚園生だったり小学生だったりするのです。その隣にはいつも私と同い年の小さな世界くんの姿がありました。


「ねぇねぇルリちゃん、一緒に遊ぼうよ~!」


 夢の中で無邪気に近寄って来る小さな世界くんに、私はツンと澄まして返すのです。


「わたくし、これからお受験のお勉強があるので遊ぶ暇はありませんの」

「ピアノのお稽古がありますから、ごめんあそばせ」

「全国統一試験を世界くんも受けるのでしょう? 随分と余裕ですのね?」


 自分で言うのもなんですが、鼻持ちならない嫌味ったらしいガキ。でも、小さな世界くんは嫌な顔一つ見せません。


「ルリちゃんはきちんとしてて偉いなぁ。僕も頑張らないと。ねぇ、でもさぁ、頑張った後はご褒美に僕と一緒に遊ばない? 僕、ルリちゃんと一緒に遊ぶのが何よりのご褒美なんだぁ」


 そう言って、無邪気ににっこりと笑うのです。子供の頃から世界くんはプレイボーイの素質を持っていたのでしょうか。私もその笑顔には逆らえず、少しだけ頬を染めて目を逸らしながら返します。


「わかりましたわ。お勉強(習い事)が終わりましたら、一緒に遊びましょう。私の得意なホットケーキを作って差し上げます」


 私の答えに小さな世界くんは「やった~! じゃあ、一緒に作ろうね、約束だよ!」と笑いながら近寄って来て私の手を取ります。その手の暖かさ、顔と顔の距離の近さに、私の心臓の鼓動は大きく速くなっていくのです。このドキドキする気持ちは何かしらと考えながら夢は終わり、大人になった世界くんの部屋で私は猫として目を覚ますのです。




 サークルの合宿から帰ってきた後も世界くんの合コン通いやナンパ癖は止まず、何人もの女性がこの部屋に招かれました。私はそのたびに星二とか星三とかの評価を行い、けれども、そろそろそんな行儀の悪い真似にも飽き始めていました。


 その日は雨で、私はカーテンに潜り込んで窓から外を覗いて眺めていました。もう外は真っ暗な時間でしたが、雨の筋が窓ガラスを流れ落ちていくのを眺めながらザアザアと煩い雨音を聞いていました。雨は好きではありません。はっきり言って嫌いです。でも、なぜか雨から目を逸らせない私でした。


 猫な私の最初の記憶も雨でした。冷たくなった母猫に縋りながらミーミーと必死に鳴いていた記憶。容赦なく降り注ぐ雨が私から体力と生きる気力を奪っていく絶望的な状況で、私は突然暖かい手に包まれました。


「君も大事な人が亡くなったんだね。でも、もう大丈夫だよ。うちに連れて行ってあげる」


 それは当時十歳の世界くんでした。世界くんが必死に世話をしてくれたおかげで、猫の私はなんとか生き延びたのです。


 ガチャリと玄関の方から扉の開く音が聞こえました。私はピクンと耳を動かしながらカーテンから出ます。音によれば世界くんは一人。珍しく女性を引っ掛けるのに失敗したようです。


「降られちゃったよ~」


 寝室に入ってきた世界くんは、どうやら傘を忘れたらしく全身がびっしょり濡れていました。


「雨大っ嫌い。鬱になるよ……」


 窓を開けて外の雨に向かって文句を言っています。


「こんな日に限って誰も一緒にいてくれないんだよ。酷くない? ルリ~、寂しい僕を癒してよ~」


 びしょ濡れのまま私に抱き着いてくる世界くん。私はどうにかその手をすり抜けて距離を取ります。


「なんだよ~、ルリまで冷たい……」


 そう言って体を拭きもせず、冷たいフローリングに横たわります。しばらくそのまま固まっていましたが、おもむろに棚に手を伸ばして奥の方から写真のアルバムを取り出しました。ぼんやりとした表情でページを捲り、あるページで手を止めました。


「瑠璃ちゃん……ごめん……瑠璃ちゃん……」


 そう言って、顔を手で覆いながら世界くんは体を震わせました。




 世界くんには瑠璃という名前の幼馴染がいました。二人の家は隣同士で、赤ちゃんの頃からの付き合い。四角四面な瑠璃と甘え上手な世界くんはお互いを補い合ったいいコンビだったろうと思います。


 二人は同じ私立小学校に通っていました。四年生の頃、最寄りのバス停から歩いて帰る制服姿の二人に近付く影がありました。


「君のパパとママが事故に遭ったんだ! たくさん出血していて……すぐに病院に行かないといけない。僕は病院の職員で、君を迎えに行くように頼まれたんだよ。さあ、この車に乗って!」


 瑠璃に向かってそう言った男は、首から下げたストラップに吊られた職員証のようなものを見せます。瑠璃はサアッと血の気の引く音が聞こえた気がしました。


「わ、わかりましたわ!」


 知識として「知らない人についていってはいけない」「親の事故を装う手口」は知っていたはずなのに、急に脅かされて焦ったとはいえ返す返すも迂闊な判断をしたものです。


「僕も行くよ! おじさんとおばさんが心配だから!」

「いや、君はおうちへ帰りなさい」


 世界くんの訴えは男にあっさりと却下されました。男は瑠璃だけを車に乗せると乱暴にドアを閉め、茫然とする世界くんの前から猛スピードで去っていきました。そしてその後、瑠璃は無事に家に帰ることはなかったのです。




 その知らせがあった日は雨でした。


 憔悴しきった瑠璃の両親を、世界くんのご両親が必死に励まし、警察対応や家事のフォローをしてくださっていたそうです。暗く沈む瑠璃の家で、父親の携帯電話が振動しました。それは離れた県の山林で瑠璃の遺体が見つかったという連絡でした。報道では詳細は省かれましたが、酷い暴行を受けた跡もありました。


 世界くんは自分の両親と共に、瑠璃の両親とその山中へ向かいました。当然、瑠璃の死体は見せてもらえませんでしたし、どのような犯罪が行われたのかも説明されませんでしたが、彼女の両親の泣き叫ぶ様子から状況を察しました。


「僕のせいだ……どうしてあの時あれが誘拐だって気付けなかったんだ!」


 世界くんは両親に隠れて自分を責めながら泣きました。




 アルバム内の小さな世界くんと瑠璃のツーショットのページを開いたまま、世界くんは寝落ちしてしまいました。雨の雫も拭わずに。


 私は二人のツーショット写真を一瞥して溜息をつきます。世界くんは瑠璃を美化しすぎているのです。実際は不細工な女の子なのに。


――このままではいけない。


 私は開いたままの窓から外のバルコニーに出ました。家猫ではありますが、朱音さんに預けられるために外へ出た時にマンションの構造はチェック済みです。ベランダからベランダ、窓枠を辿り、非常階段を駆け下り、私は雨の街へと駆け出しました。




 雨に打たれるまま自分の家の前で泣いている私を見つけて、朱音さんはひどくびっくりしていました。しかし、賢明な彼女は世界くんに何かあったのだろうと察してくれました。急いで私をタオルにくるんでキャリーバッグにしまい、世界くんのマンションに向かってくれたのです。


――ニャア! ニャア!


 私は必死で猫らしく鳴きながら朱音さんに訴えます。


――朱音さん、世界くんをもう瑠璃から解放してあげて。




 朱音さんが私を抱きかかえて世界くんの部屋を訪ねると、世界くんは濡れたまま風呂にも入らずフローリングの床の上で寝てしまったらしく、熱を出していました。朱音さんは世界くんをベッドに寝かせ、看病します。ついでに濡れ鼠だった私の面倒まで見てくれました。


 朱音さんがキッチンでおかゆを作っている間、私は朦朧としている世界くんの枕元に寝そべりながら語りかけました。


――あの事件の後、世界くんの落ち込み具合が心配で、猫の身体に憑りついてしまったけれど、さすがにそろそろ立ち直ってもらわないと困ります。世界くんなら大丈夫。あまり朱音さんに心配かけないようになさいね。


 しばらくぼんやりと私を見ていた世界くんは、わかったというように頷きました。私は二、三度尻尾を振ってそれに応え、世界くんのベッドから飛び降りました。



※ ※ ※



 ソファでくつろぐ世界の膝にルリが飛び乗ってきた。世界は驚いて自分の猫の顔を覗き込む。


「ルリ……どうした? 甘えてくるなんて珍しい。なんか昨日まで雰囲気違う気がするけど……」


 ルリは主人にニャアと返事を返すが、そこには昨日までのふてぶてしさ、反抗心の強さは見られず、まん丸の眼で主人を見つめる愛嬌のある猫がいた。


「……ルリ――瑠璃?」


 世界が手を伸ばすと素直に頬を摺り寄せてくるルリを見て、彼は少し寂しそうに笑う。


「そっか……そうか……」


 世界がルリから手を離すと、キッチンから朱音が顔を出した。


「世界、どうかした? 餃子出来たけど」

「ん、ありがと、朱音。一緒に食べよう」


 ダイニングテーブルについた二人は、缶ビールを片手に乾杯し、朱音特製の手作り餃子を摘まみ始める。


「うっま~! 朱音が種から作ったんだよね、何を入れたの?」

「企業秘密です」

「なんだよそれ~。あ、今度はお返しに僕がホットケーキ作ってあげる」

「なぜにホットケーキ?」

「いや、僕、それしか作れないから……。僕も色々作れるようになりたいな。今度料理教えてよ」

「うん、わかった」


 餃子をいくつか摘まんだ後、世界は朱音に向き直って言う。


「今までごめん。ちゃんと朱音のこと大事にする。約束するから、僕と真剣に付き合ってください」

「え……」


 朱音はびっくりした表情を浮かべた後、赤く染まった頬を掻きながら言う。


「嬉しい。でも、なんかくすぐったい」


 朱音が少し照れたように笑うと、世界も優しく微笑んだ。そんな二人をキジトラの猫が不思議そうに見つめていた。

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